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魅惑のお城

日出城

2015.05.19 09:00

1. 城のデータ

[所在地] 大分県速見郡日出町

[築城年] 1602年

[築城者] 木下延俊

[遺 構] 鬼門櫓、天守台、石垣、堀

[別 称] 暘谷城

[形 状] 平山城

[登城年] 2015年5月19日

(※トップ写真:日出城・鬼門櫓)


2. 城の歴史

日出城は、関ヶ原の戦い後の1601年から初代藩主となった木下延俊によって築城された。木下延俊は豊臣秀吉の正室・高台院の兄である木下家定の三男である。関ヶ原の戦いでは当初から東軍につき、その功績で日出3万石を得た。義兄である細川忠興の支援を受けて約1年の歳月をかけて築いたとされる。

2代藩主・木下俊治の時代に異母弟の延次に5000石を分知しているので、日出藩の所領は2万5000石となっている。木下氏は16代にわたって江戸時代を通じて国替えも、所領削減もなく比較的平穏に日出を治め、明治まで続くことになる。


3. 城の見どころ

日出は別府湾の北岸に位置し、国東半島の杵築沿岸道と豊前街道の分岐点にあたり、陸海交通の要衝であった。木下延俊が入封する以前にも、この地にはそれ以前に城があったようだが、荒廃が著しかったため、新規に築城することになったという。木下氏時代に、城下町を取り囲む総構を持ち、三重天守をはじめ、5基の二重櫓が建ち並ぶ近世城郭が完成した。

延俊の義兄にあたる細川忠興が縄張をつくり、忠興の家臣・穴太利衛門が石垣普請を担当するなど、細川家から多大な援助を得ている。そのため、日出城は3万石の小藩の城とは思えない壮大な城となっている。特に本丸の要所に築かれた高石垣群は高度な技術で積まれており、実に素晴らしい。

日出城の縄張は、別府湾に突き出した台地の先端を利用して築かれた平山城で、梯郭式の構造である。台地の南端に本丸を配置し、東・北・西に二の丸、二の丸の東方に三の丸、さらに北から北東側にかけては町屋をも囲む総構(堀)が巡らされていた。二の丸と三の丸の内部は全て侍屋敷であったという。

現在の日出城のシンボルは鬼門除けのために、北東隅を欠いた特徴的な壁面を持つ鬼門櫓である。明治時代に市内の民間に払い下げられ、倒壊寸前であったものを2008年に市が譲り受けて、2013年に町立萬里図書館前に復元・再移築されたものである。鬼門除けとして、石垣や土塁を欠く事例(鹿児島城や上田城など)はあるが、櫓自体を欠いてしまう例は珍しいといえる。内部は日出藩の資料や日出城天守模型などもある。

(下写真:鬼門櫓鬼門除け部分)

日出城の本丸は現在は日出小学校の敷地となっている。本丸を取り囲む内堀と石垣は全面的に現存している。内堀はかなりの深さを誇り、石垣は築城技術のエリート集団といわれる穴太衆の穴太利衛門による見事な野面積である。本丸の正面側(北側)では、北西隅に江戸時代にはあった月見櫓の石垣が高さ、勾配ともに最も素晴らしいと思う。月見櫓はかつて大手門の右側にあった二重櫓である。月見櫓跡の石垣を見ていると、この城がとても3万石の大名のものとは思えないだろう。

(下写真:月見櫓跡石垣)

本丸の南側は別府湾に面しており、壮大な海を一望でき、はるか先の対岸にある高崎山(大友氏が山城を築いた)をも眺めることができる。ここからの眺めはまさに絶景である。本丸の南端は望海櫓と天守台の石垣が残る。望海櫓は天守の西側に位置し、小天守の役割を持つ櫓であった。一階は本丸へ上がるための階段となっており、海側からの通路にもなっていたようである。

(下写真:海岸沿いの石垣)

(下写真:別府湾を望む)

天守台には三重の層塔式天守が海に望んで建っていたが、残念なことに明治期に取り壊された。それでも、急勾配で堂々とした美しい天守台の石垣は健在であり、穴太積の技術の高さが伺えるだろう。また、天守台から搦手門付近までの本丸東側の石垣群もよく残っているので、見学しておきたい。二段・三段に石垣が積まれており、高さを稼ぐ創意工夫が凝らされている。

(下写真:天守台石垣)

二の丸の大手門前には重臣屋敷が残り、当時の面影を偲ぶことができる。また、城下には藩校・致道館も現存している。木造二階建てで、県内に残る唯一の藩校である。2015年に修復工事が完了し、綺麗に整備されているのでぜひ訪れておきたい。

(下写真:藩校・致道館)


4. 城のポイント

①別府湾を望む壮大な城 ⇒別府湾を一望できる後堅固の城

②本丸に残る石垣 ⇒月見櫓跡、望海櫓跡、天守台周辺の石垣が見どころ

③近年改修復元工事が施された鬼門櫓 ⇒北東角の壁面を欠いている