櫛崎城
1. 城のデータ
[所在地] 山口県下関市長府宮崎町
[築城年] 平安時代中期
[築城者] 稲村景家
[遺 構] 石垣
[別 称] 串崎城、雄山城、長府城、長府陣屋
[形 状] 山城
[登城年] 2015年5月16日
(※トップ写真:櫛崎城・復元された天守台)
2. 城の歴史
櫛崎城は、平安時代中期に藤原純友が海賊を率いて朝廷に反乱を起こした際、配下の稲村景家がこの城に入ったとされているが、詳細はよくわかっていない。戦国時代には、大内氏の家臣・内藤隆春が櫛崎城を拠点としたという。
1600年、関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は周防・長門の二か国へと領地を減らされた。毛利輝元の養子であった毛利秀元は長門豊浦郡・厚狭郡を与えられ、山口から長府へと移った。この時に近世城郭へと造りかえられた。しかし、1615年の一国一城令の後、城は取り壊され、山麓に長府陣屋を築き居館とした。
3. 城の見どころ
櫛崎城は、長府の南端にあたり、周防灘に面して突き出した半島状の丘陵に築かれた城郭である。東と南は海に面した断崖絶壁の要害であり、西と北には石垣を築いて守りを固められた。現在は城の西側は埋め立てられてしまい、海に突き出た形状ではなくなってしまったが、本来は岬状の地形を利用した海城であった。櫛崎の名は、元寇の際、モンゴル軍の首を海岸に埋めたことから「首崎」と呼ばれたのが始まりと言われている。
(下写真:城山を遠望)
城は、周防灘に面した山城部分(櫛崎城)と、その西側山麓の平地に毛利秀元により築かれた居館部分(長府陣屋)とで構成されていた。長府陣屋は現在、ほぼ豊浦高校の敷地となっている。一方、山城部分については、最南端に本丸を置き、北側に二の丸、出丸(現・豊功神社)等の曲輪が配置されていた。現在は、本丸周辺は関見台公園として整備されている。
一国一城令により廃城となったにも関わらず、城跡には石垣や土塁等が現存している。特に、二の丸北側の正門跡(松崎口)から南側に向かって100m以上にも及ぶ石垣は、実に迫力がある。隅部については未完成の算木積ではあるが、巨石を用いて積まれた、かなりの高石垣である。慶長期の築城ブーム全盛の時代に築かれた技術の高さが伺えるだろう。
(下写真:二の丸西側の石垣)
ちなみに松崎口の櫓台上には、民家が建っていた。石垣上は私有地なのだろうか。
(下写真:松崎口櫓台の石垣)
関見台公園として整備されている城山を登ると、山頂には近年復元された天守台がある。天守台の構造は、二つの付櫓が接続する複合式天守であったとされるが、実際に天守があったかは不明とのことである。天守台は展望台となっており、上に立つと、長府の城下町はもちろんのこと、周防灘を超えて九州(門司)方面をも一望することができる。まさしく、この櫛崎城は関門海峡を掌握するには絶好の地であったに違いない。
関見台公園の天守台、二の丸松崎口から伸びる高石垣に加えて、訪れておきたいのが、豊功神社である。かつては櫛崎城の出丸として北側の守りの要であったが、現在は毛利氏の守護神を祀る社となっている。豊功神社からも周防灘を一望でき、禁足地であり原生林が残る満珠島、干珠島も見ることができる。
(下写真:出丸跡・豊功神社)
4. 城のポイント
①関門海峡を掌握した海城 ⇒半島状の岬に築かれた
②二の丸松崎口付近に残る石垣 ⇒巨石を利用して築かれた高石垣
③本丸跡(現・関見台公園)に復元された天守台 ⇒周防灘を一望できる