風潮と真実
以下の文章は、フェイスブックで2021年9月に、友達限定公開にして載せたものです。
あらためて、ブログに残します。
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コロナによるリスク。
ワクチンによるリスク。
インターネットやニュースによる情報もさることながら、
周りの友人・知人から見聞きした情報、
(それこそ実態を知る大事な情報ですよね、トランプさんの話を聞くより。
〇〇論でもなんでもない、事実の話ですから。)
ーー ワクチンについては
それらを参考にした上で、
最初から、自己判断のはずです。
その“判断”であるものを、
まるで
「他者や医療現場への配慮がある・ない」
というような
“道徳心”や“倫理観”の話として扱われるなら
それこそ、“正義”のつもりの“弾圧”になりかねない、
恐ろしさを持つものではないでしょうか。
(マスコミの報道は、まさしくそのような、
片側からの正義を煽っているかのように、私には見えます。)
厚生労働省もこのように明記しています。
「接種は強制ではなく、あくまでご本人の意思に基づき接種を受けていただくものです。
職場や周りの方などに接種を強制したり、接種を受けていない人に差別的な扱いをすることのないよう、皆さまにお願いしています。」
ーー これは自由意志を尊重する文言ですが、
あえて、嫌な言い方をするならば
「政府が無理矢理、打たせたんじゃない。
打つことを選んだ、あなたの責任ですよ」
という意味だとも受け取れます。
*
「ワクチンを打たないでコロナにかかるとは、恥ずべきことであると思うので、
そんなことにならない為に打つ」
というような価値観があることを知りました。
これは個人の意見というより、皆さんも世の風潮として、
“打たなきゃならないような空気”
を感じている方も多いのではないでしょうか。
「打つ」と決めた方を、尊重します。
ただし、
「打たない」と決めた者が、
恥など感じて肩身の狭い思いをする必要はありませんので、
続きを書きますが
ワクチンの副反応により重大な問題が生じた場合、
誰かが恥入って、
道徳心にかられ、
責任を取ってくれるものではありません。
というよりも、そもそも
「誰かが責任を取ってくれるだろう」
という問題でも、ありませんよね、最初から。
何ものにも変えがたい、他者が責任など取れるはずもない、
「肉体」「健康」「命」
のことですから。
だから
これは、道徳心の話になるべきではない、
多角的な情報や考察に基づく“判断” である、
と言っているのです。
*
私は、打ちたいと望む人と、戦う気はありません。
しかし「打つべき」と望む側の方が、
「打たない」と決めた者の判断を、
蔑むような言動をするのであれば
…そしてそれが大多数になって、世の空気を作るのならば、
それは、おかしいのではないかと思います。
個々の“判断”であるものを
“道徳心”の問題にすることは、まるで
「国の方針に沿わない者は、非国民だ」
とでもいうような…
“恥”の概念とは、まるで、
「戦争で生きて帰ってくるなんて、恥だ」
というような…
そういう類の、錯誤感を感じます。
*
時代の風潮
というものがあります。
その時代を生きている者には
その風潮は、当然のことだと感じられる。
「人として当然だろ」
「そうすべきだろ」
「みんなそうしてるだろ、自分勝手なことするんじゃねぇよ」
というような。
しかしその時代の“外”にいる者…
たとえば過去の時代を見つめる現代の我々には、
共感出来ないことも、ままある。
時に「狂っている」とすら思えるほどの価値観も。
そういったことを
「時代錯誤」
と言いますよね。
時代の風潮の為に、利用・吹聴されるのは
それこそ、“道徳心”では、ありませんでしたか?
道徳心という名の正義感。
正義感という名の高慢。
そんな程度の正義感は、
真理に根ざした、本物の正義といえるか。
真理とは、時代も場所も超えて普遍だからこそ真理という。
時代錯誤になりえるものが、真理か?
*
情におもねる道徳心ほど、やっかいなものはない。
日本人は、そこを何か履き違えた意味の、「空気を読む」をやりがちですが。
それは本当の日本人の徳ではない。
本来の意味から、ずれている。
目線一つで、相手の思いを汲み取れる。
人と人との強い繋がり、信頼感ゆえの
以心伝心。
そういう繊細さ、
優しさ、
協調性
目には見えない精神、
その機微を当たり前に感じ取るのが
やまとの徳なのであって
情に流され、己を失うことでも、
顔色を伺い足並み揃えることでも、
ないですよ。
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以上