書評『聖なるズー』
本書は動物性愛者(通称ズー)といわれる人々の生活と思想を記録した風変わりなエッセイである。著者は文化人類学を学んでいる研究者であり、本書は修士論文執筆に向けた調査を下敷きにしているということで、その記述には民族誌的な色彩もある。
動物性愛というと、世間では最も忌まわしい動物虐待の一種と考えられているかもしれない。よって、動物の権利を支持する脱搾取派(ビーガン)の私は当然、本書に対し否定的な評価を下すと思われるだろう。実際、読んでもらえば分かるように、この書評は本書を批判することになるのだが、一つ勘違いしてほしくないことがある。
私は本書を非常に問題含みの作品とみるが、それは動物性愛というテーマを憎んでいるからではない。また、著者が動物性愛を肯定しているから、あるいは否定・批判していないから問題だと言いたいのでもない。動物性愛に対する評価と本書の評価は別であり、この書評はその二つを明確に区別した上で、本書に大きな問題があると論じるものである。したがって、動物擁護論者や脱搾取派がこうしたテーマの本を読めばネガティブな評価を下すに決まっている、という(よくあるであろう)先入観は捨ててほしい。
ズーについての感想
今しがた述べたように、動物性愛の評価と本書の評価は別であるが、その点を確認した上で、一動物擁護論者の私がズーの生き方と考え方をどう受け止めたかについて語っておくのは無駄ではないだろう(そこに興味がない方は本節を読み飛ばしてくれて構わない)。結論から言うと、意外に思われるかもしれないが、私はズーに対していくらかの疑問を覚えつつも、嫌悪や憤りは覚えなかった。
動物性愛は一般に、人間がみずからの欲望を満たすべく動物に一方的な性暴力をおよぼす行為、すなわち獣姦を指すと考えられがちである。が、少なくとも本書でいわれる動物性愛は獣姦から区別される。本書の中心を占めるズーの団体ゼータ(ZETA)のメンバーらによると、私たちは動物の欲求を理解できる。例えば動物が遊びたがっている、食事をしたがっているなどのことは、献身的なペットの飼い主であれば難なく察せられる。それと同じように、動物は時として性的欲求を表わすことがあり、私たちはその欲求を理解できる。犬や猫が人間にしがみついて体をゆするなどの性的仕草をみせることは珍しくない。であれば、人間が望んだ時ではなく、あくまで動物が望むかぎりにおいて、その性的欲求を満たすべく人間が応じる、つまり性行為のパートナーを務めることは、問題ないのではないか。むしろそれは、人間と動物の性的な交わりを頭ごなしに否定して動物の欲求を満たさずにおくよりも倫理的なのではないか。
この主張は、実践に移した時に矛盾や弊害が生じうるとしても、主張そのものとしては説得力があるように思える。実際、本書に登場する人物の中には、その考えをよく聞いて、動物性愛反対の立場からズーに移行した活動家もいる。ズーの実践は「動物の生を、性の側面も含めてまるごと受け止めること」(p.249)であり、愛を通してパートナーとの対等性を築く営みである、と著者はまとめる。
ズーたち、あるいはゼータの基本的な考え方を踏まえた上で、なお腑に落ちない点はある。まず、上の主張はあくまで倫理的な理屈であって、それ以上のものではない。動物の性的欲求に応えようと努力することと、それを行なう人間が当の動物を性的に愛することは全く別の事態だろう。動物のマスターベーションを手伝う程度であればペットの飼い主も行なうことがある。しかしそれは動物の性的欲求に応える行為ではあっても、性愛にもとづく行為ではない。自身の肛門や性器を動物に使わせたとしても、その交わりが動物の性的欲求を満たすという動機のみで行なわれるのであれば、そこに性愛があるということにはならないのではないかと思われた。
また、著者がまとめたズーの考え方によると、性の部分も含めて動物をまるごと愛し受け止めることが対等性を築く実践とされるが、そうであればそれは「動物」と対等になる実践ではなく、単に自分が愛するパートナーと対等になるだけの実践に過ぎない。事実、本書に登場するズーたちは、虫を嫌い、鳥を檻で飼い、肉を食べるなど、「動物」との対等性に反する側面もみせる。本書では人間と他の動物が関係し合う中で、互いのパーソナリティを発見もしくは形成する過程に注目し(p.64-6)、そのパーソナリティを愛すること、もしくは愛し合うことが対等性を築く重要な条件と解釈されているが、そのようなプライベートな関係構築を対等性の条件とするのであれば、私たちにとって対等になれる者など、ごく少数の近親者を除いて皆無となってしまう。誰であれ、様々な人や他の動物を「まるごと受け止める」ことはできない。これは間主体性を対等性の条件とする考え方の限界を示しているといえるだろう。
そもそも、性の部分も含めて他者を「まるごと受け止める」ことが真の愛の条件なのかという点も気になる。本書に登場するズーの一人は、人間は自分に様々な「フィルター」をかけているので、「セックスするときも相手のフィルターをつくっているすべてを受け入れたうえで、相手の心を読まないといけない」と語っているが(p.256)、パートナーに隠し事その他を捨て去って裸になってほしいと求める態度は、何とも支配者的な印象を受ける。「フィルター」をかけている部分に立ち入らないこと、相手の「フィルター」を受け入れることも愛なのではないか。また、犬やその他の動物は確かに素直にみえ、人間のような「フィルター」を持っていないように思えるが、当然人間には知りえない内面もあるだろう。そのような他者の越えがたい異質性を認めないのは傲慢にも思える。
手短ながら、本書に描かれたズーたちについての感想は、おおよそ以上の通りである。私は正直、彼ら彼女らの動物愛がそもそも性愛のカテゴリーに含まれるのかを疑うが、本人たちがそのアイデンティティを抱いているのであればそれを否定するつもりはない。また、ズーの行ないを明白な虐待として断罪するだけの根拠も持たない。そしてくどいようであるが、そうした点は本書の評価とは何の関係もない。では次に、本書そのものの評価に移りたい。
本書の評価
ふたたび結論から言うと、本書はノンフィクションとしても人類学研究としても、倫理的に大きな問題を含んでいると私は考える。「倫理的に」問題だというのは、動物倫理に反するということではない。ここで問題にしたいのは、著者の作家/研究者としての倫理である。本書は全体を通し、動物保護の活動に対する言い知れない悪意と侮蔑感情に貫かれている。そして皮肉にも、その結果として本書の主人公であるズーたちの姿をも歪めている疑いがある。以下ではその悪意の表われを中心に本書の諸問題をみていきたい。ただし、ここでさらに留意点を述べておくと、私は本書を読んだ際に、ありもしない悪意を無理やり見出してやろうという魂胆はなかった。当然のことであるが、私はまず偏見なしに本書を読み、全体を読み通した結果、これはひどく悪意に満ちていると感じたため、再読して具体的な問題点を拾い集めた次第である。
物語はアクツィオン・フェア・プレイ(Aktion Fair Play)という動物保護団体のエピソードから始まる。が、ここで早くも事実の歪曲が行なわれていることを指摘しておかねばならない。著者によると、アクツィオン・フェア・プレイ(以下、AFP)の「活動の主眼は『動物性愛者撲滅』というもの」(p.21)だそうであるが、実のところ同団体のウェブサイトを一通り見渡しても「動物性愛」に関する項目は見当たらない。団体の自己紹介を読んでみると、AFPはペット・野生動物・「産業」動物など、全ての動物の擁護に携わる動物の福祉・権利団体とのことである。活動写真は主としてサーカスへの抗議活動のものが目立つ(*1)。よく調べるとフェイスブック上で動物性愛に言及した記事が見つかり、同団体のシュトゥットガルト支部(Aktion Fair Play Stuttgart)が小規模なキャンペーンを行なっていることも発見したが、この程度の取り組みを本書の著者が「活動の主眼」と位置づけているのは驚きである。
さて、AFPの動向を追っていたという著者は、その「動物性愛者撲滅」キャンペーンをみつけ、活動参加者に「動物とセックスをすることの最大の問題はなんですか」と尋ねた。するとくだんの参加者は「信じられない質問ね。アブノーマルなのよ!」と答えたという(p.20)。この場面では活動家をひたすら得体の知れないヒステリックな危険人物のごとく描くことに筆が費やされる。いわく、当の活動参加者は「目を見開いて、怒りと呆れがない交ぜになったような表情を私[著者]に向けた」「さきほどまで穏やかに笑っていたのに、豹変といってよかった」「叫びに近い声でそう言って、彼女たちは私を睨みつけた」「彼女たちの豹変ぶりは、多少恐ろしくさえ感じられるものだった。その表情は、理屈抜きの嫌悪感に満ちていた」(p.20,22)。これはマイノリティや市民活動家を貶める際に使われる典型的なデモナイズ(悪魔化)の手法であり、少なくとも私としてはこの描写を読んで、著者こそが動物保護の活動に対し「理屈抜きの嫌悪感」を抱いているのではないかとの印象を抱いた。
デモナイズはこれだけで終わらない。著者は「近年、欧米圏では、動物とのセックスに関して……動物保護団体からの糾弾がますます激しくなっている」と語り、有名な動物保護団体PETAによる異種性交反対の声明を例に挙げる(p.25)。しかし、PETAの声明は私も知っていたが、それとAFPの活動だけで糾弾が激しくなっているといわれても説得力はない。私は海外の動物保護活動の状況を追っているが、異種性交の弾圧が近年になって激化しているなどという話は聞いたことがない。むしろ著者自身がこの後(p.183-5)で述べているように、歴史上の宗教組織や国家のほうがよほど苛烈な異種性交の弾圧を行なってきた。動物性愛を倫理的実践と位置づける本書の方針からすると、ここで述べられているのは要するに、動物保護団体は人々の健全な思想信条を弾圧する過激で狂信的な組織だということだろう。
結局、著者はAFPの活動参加者と二、三言のやりとりを交わした後、「余計な警戒を避けるために食い下がるのはやめ」、その場を後にしたという(p.23)。私には著者がなぜ警戒を恐れているのかが分からなかった。真摯に活動家の考えを理解したいのであれば、素性と研究目的を明かし、改めてしっかり相手の意見を聞くなり、団体の代表と話すなりするのが筋であろうが、著者はそれをしない。この後、動物性愛の調査に際しては、ズーたちから警戒され不審視されながらも著者は粘り強く聞き取りを続けるが、動物保護の従事者に対しては、この事前のアポすらない街頭での問答以上に何の対話も試みないのである。代わりに著者は以後、ここで聞いた「アブノーマル」というたった一言、いな一単語をもとに、AFPのみならず全ての動物保護団体の思想を異様な推理にもとづいて語りだす。
この場面を、少し後につづられる異常性愛者への聞き取りの場面と比べると、活動家に対する著者のアンフェアな態度は一層明瞭になる。著者はドイツのズーたちに関する調査と並行して、インターネット上の某掲示板を介し、獣姦願望を持つ日本人男性らへの聞き取りを行なった。すると返ってきたのは、崇高な女性を汚らわしい動物と交わらせて貶めるのが好きだというような、ポルノに毒された男性らの回答だった。著者はそれに恐怖感や嫌悪感を覚えながらも、「それをもとに彼らの性的実践を断罪するわけにはいかない」と驚くべき見解を示す。
人間のセクシュアリティやセックスに善悪はつけようがない、と私は思っている。人々が求めるセックスの背景には、さまざまな欲求がうごめいている。嫌悪感に基づいて短絡的に彼らのセックスを思考から追い出してしまえば、議論をそれ以上深めることはできなくなるだろう。(p.29)
女性を貶めることに興奮する変質者に対してさえ、このような寛容な態度を見せる著者が、なぜ動物保護の従事者に関しては短絡的に思考から追い出し、「議論をそれ以上深め」ようとしないのか。まさか短絡的に思考から追い出すべきでないのはセックスだけで、正義や思想は短絡的に追い出してもよい、ということではないだろう。ここには甚だしいダブルスタンダードを感じる。そしてそのようなダブルスタンダードが生じるのはやはり、著者があらかじめ動物保護に対し強い敵意と悪意を抱いているからだろうとも感じる。(なお、脱線であるが、ここで述べられているような相対主義を認めるとするなら、暴力や支配を伴う性愛も悪くないということになってしまう。著者は本当にそれでよいのか。私は他者を害するセクシュアリティやセックスは悪であると考える。)
さて、「アブノーマル」という一語をもとに、著者は動物保護の従事者が「キリスト教的価値観」と動物の「子ども視」(動物を子供扱いする見方)に囚われていると断定するが、その思考過程は先述した通り、異様である。
まず、著者は「『アブノーマル』という彼女らの叫び声の背後には、キリスト教文化圏に根強く残る性の戒律の影響が見られる」(p.23)と論じ、旧約聖書のレビ記に様々な「セックスの掟」があることを証拠に挙げる(なお、上の引用でいわれる「彼女ら」とは、実際には一人の活動家を指す)。これは西欧諸国の人々やその思想を即「キリスト教的」とみなす古い本質主義の表われであり、本書に限らず、欧米発祥の正義や哲学を悪玉とする文脈では嫌というほど顔を出す。そこでは必ず、西洋の正義はキリスト教的価値観にもとづく独善的な序列思想・差別思想であり、他文化圏の価値観や世界観を否定するものと位置づけられる。本書もこのステレオタイプに則り、「キリスト教的価値観」を抑圧的な価値観の意味で用いる。著者は自身もカトリックであると語るが、それも親の意向に従わされての入信であり、自身はその戒律に苦しめられてきたと述懐する(p.24-5)。そしてこれ以外にも、本書の随所で聖書や教会の抑圧性を語りつつ、著者は何の根拠もなしにそれと動物保護を結び付け、この活動を悪玉に仕立て上げる。「アクツィオン・フェア・プレイの女性たちにしてみれば、動物とのセックスは、まずキリスト教的価値観からいって唾棄すべき行為だ」(p.25)。「彼女たちにしてみれば、動物を性の対象にする時点で、誰であろうが、分け隔てなく『アブノーマル』だ」(p.121)。不意な質問を受けた活動家が、つい口にした「アブノーマル」という言葉は、著者にとってまさに「鬼の首」だったらしい。
次に動物の「子ども視」であるが、これは順を追って説明する必要がある。著者はまず、動物性愛が話題となった時に小児性愛の是非を問う人々が少なからずいる、という事実に着目する(p.98)。もちろん、性行為への確かな合意が得られないという点で、人間以外の動物と人間の小児は似た立場にあるため、人々が動物性愛の話を聞いて、小児性愛はどうなのかと考えるのはごく自然な発想である。が、著者はそのように解釈せず、人々がこの二つを関連づけるのは、動物が子供のような存在とみなされているからだろうと考え、ペットを子供扱いする飼い主のことなどに書きおよぶ。ここはこの著者特有の異様な推理が駆使される箇所なので、詳しく吟味してみる価値がある。ペットの子供扱いを一通り概観した後、著者は「犬の存在感を人間の子どもにより近づけてしまう、ある言説がある」と論じる。
それは「犬には人間の五歳児程度の知能がある」というものだ。一般的に知られているこの言説は、犬を人間の五歳児と同質の存在と人々に感じさせる。その結果、……二十年弱の間、犬は永久に「人間の五歳児」のように扱われる。(p.101)
この「言説」(単なる事実の記述であるが)をこのように解釈する人は初めてみた。これは動物が愚鈍もしくは何の意識も持たないモノであるという見方への反論であり、普通の人々であればそのように理解するだろう。ペットの子供扱いは現に多くの飼い主によって行なわれているが、その要因をくだんの「言説」に見出すのは相当に無理があると思われる。
しかしいずれにせよ、ペットは多くの人々によって「永遠の子ども」とみなされる。そして「子どもとしての犬に性があると考えたがる人は、多くないだろう」から、ペットに対しては去勢が広く行なわれる、と著者は考える(p.101)。……もう一度、著者自身の言葉で繰り返そう。「犬の性を無視して去勢が一般的になっている背景には、『犬の子ども視』があるのではないか」(p.102)。繁殖に伴う諸問題(多頭飼育崩壊その他)を防ぐために行なわれるペットの去勢を、著者は動物の子供扱いではないかと邪推しているのである。動物保護に携わる人々は嘆息を漏らすに違いない。なお、一連の文脈を通し、ズーたちは動物を「成熟した存在」と認める点で、一般の愚かな飼い主らとは別格の人間と位置づけられている。
こうした奇怪な考察を重ねた末に、著者は突如、動物保護団体が動物を子供扱いしていると結論する。
考えてみれば、アクツィオン・フェア・プレイの動物へのまなざしもまた、ズーたちとは異なっている。彼女たちのまなざしは、動物の「子ども視」そのものだ。動物は人間に庇護されるべき弱いもの。そういう見方が強固にあるからこそ、動物とのセックスがすぐに虐待と結びついてしまう。(p.121)
AFPが本書で語られる動物性愛と獣姦を区別せず、動物との性行為を一律に悪とみて糾弾しているのは事実だろう。が、それを動物の「子ども視」に起因すると考える根拠は何なのか。そもそも、獣姦と動物性愛を同一視するのは動物保護団体だけではない。著者自身が言及しているように(p.143)、世間も報道機関も獣姦者と動物性愛者を区別せず、獣姦者自身も動物性愛者を自称する。そして本書を読んでいない人々の大部分も、通常両者を区別しない。つまり実際のところは、AFPの認識がおかしいのではなく、ゼータによる「動物性愛」の定義が世間一般の用法から懸け離れた例外的・特殊的な意味を帯びている。また、「動物性愛」(zoophilia)という言葉自体が、病的性愛を表わすphiliaを語根に含んでいるため、非常に語弊が大きいという問題もある。ところが著者は初めから獣姦と動物性愛の区別は自明かつ常識であるかのように想定し、両者を同一視する動物保護団体は動物をか弱い子供とみなしている云々と決めつけるのである。
こうして、動物保護の従事者に適当なレッテルを貼ったうえで、著者は最後に「人々が抱く動物へのイメージ」を整理する(p.246)。まず、動物保護団体は動物を「保護すべき対象、力なく自立できないいきもの、子どものような存在」とみているそうである。「ただし、このときの動物とは、ペットなどの身近な動物のみを指す」。動物保護に携わる実際の活動家たちからすれば心外だろう。ペット保護に注力する日本の動物愛護団体と、あらゆる動物の解放に努めるAFPのような動物の福祉・権利団体を混同しているのかもしれないが、いずれにせよ後者のウェブサイトを概観すれば、著者がここでいかに事実を捻じ曲げているかは一目瞭然である。
他方、ズーたちの動物観は「人間と対等で、人間と同じようにパーソナリティを持ち、セックスの欲望を持ついきもの」という見方で、「彼らの姿勢から考えさせられることは多い」と著者はいう(ibid.)。前段で動物保護団体を毀損し、それとの差別化を通してズーを称揚しているさまは見ての通りであるが、「人間と対等で、人間と同じようにパーソナリティを持」つという見方は動物保護の従事者にとって常識中の常識である。そして活動家たちは、動物が「セックスの欲望を持つ」と認め、それが人間社会の中では問題になることを分かっているからこそ、野良動物を救助した際などには、申し訳ないという思いを持ちつつ不妊去勢手術を行なう。それは世間一般のペット所有者によるペットの子供扱いなどとは何の接点もない。
以上のように、著者は一貫して動物保護の従事者と動物性愛者を対立図に置く。そして前者は動物のことも動物性愛のことも理解しない愚か者、後者は真の愛と対等性の実践に努める人々とする。これはしかし、動物保護の従事者を正しく捉えていないばかりか、ズーの実態をも正しく捉えていない可能性がある。ゼータのウェブサイトをみると、現実のズーたち、少なくとも同団体のメンバーらは、動物保護と動物性愛を同じ地平にあるものと考えている。何を隠そう、ゼータ(ZETA)の英名は「動物の倫理的扱いを求める動物性愛者の会(Zoophiles for Ethical Treatment of Animals)」、つまりかの有名な動物擁護団体PETAの名を踏襲しているのである(*2)。なるほど動物の権利論者からすれば、ズーの行動に不徹底さは感じる。動物保護の精神を持ち、動物を対等とみるならば、ズーは脱搾取派になるべきだろう。そう思ってゼータの記事を読んでみたところ、ゼータの内部でも脱搾取(ビーガニズム)はよく議論される話題だという。多くのズーは脱搾取の意義を認め、それを実践することが道徳的に一貫しているという認識も有する。ゼータにも脱搾取派や菜食主義者は多く、全員がそうでないのは人間ゆえの過ちだと認めてさえいる。ゼータのメンバーは、ズーと脱搾取派で争うのではなく、動物搾取に対し共闘したいと望んでいる(*3)。動物保護の従事者と脱搾取派は完全なイコールではないが、少なくともこれを読むかぎり、ズーの多くが強い動物保護の精神を有していること、喰い違いこそあれ既存の動物保護団体を敵視してはいないことが分かる。したがってズーと動物保護の従事者を完全に切り分け、水と油のごとく描く著者の叙述は、肝心のズーの実像をも大いに歪めている疑いが強い。私がこの書評であえて「本書に登場するズー」「著者がまとめたズーの考え方」などという言い回しを用いてきたのは、本書に描かれるズーがどこまで現実のズーと重なるのかを判断しかねたからである。私見では、本書の叙述は著者のバイアス(動物保護に向ける強い憎悪)ゆえに相当現実と異なったものになっているのではないかと思われる。これは民族誌ないしノンフィクションとしての本書の評価にも関わるだろう。
結論
人間動物関係を扱う日本の研究者たちが、動物擁護の理論と運動に計り知れない悪意と侮蔑感情を向けていることは以前から感じていたが、本書の著者もその例に漏れない。著者は自分の考えを言い表わすことが必ずしも得意ではない草の根の人々の言葉だけを根拠として、動物保護の思想を自由奔放に論評する。悪意と侮蔑感情がつくった活動家の姿は、キリスト教的価値観に縛られ、動物を子供扱いする、ヒステリックな女性たち、というものだった。これは日本の文化人類学者が広く共有する東西二元論のステレオタイプと、著者のうちに内面化されたミソジニー感覚、社会正義への侮蔑感情、それにおおかた肉食願望に根差す動物保護への嫌悪が入り混じった結果の、奇妙な錯認とでもみるよりない。整理・体系化されていない人々の言葉を粘り強く傾聴し、そこにあるはずの一つの論理を汲み取ることこそ、人類学、あるいは全ての学問に求められる基本的態度ではないかと私は思っていたが、どうやら著者にそれを期待するのは無理だったようである。なるほど著者の関心は動物性愛にあり、動物保護には興味がないので詳しく調べる気にならなかった、ということは考えられるが、それならば作家/研究者としての立場から動物保護について語ることは有害なのでやめてほしい。著者は人々の言葉を聴ける立場、聴くべき立場にありながら、とっさに活動家が口にした迂闊な言葉を標本にし、同じ活動の従事者全てを愚弄する。それが本書の最も悪質な点である。
最後に、著者は活動家のヒステリックな態度を問題にしているので、なぜ動物保護に取り組む人々、あるいは社会正義の従事者一般が、往々にして苛立ちをあらわにしやすいのかを説明しておこう。それは著者のような人間がいるからである。人の真摯な訴えを理解しようとせず、一知半解の知識と先入観だけで正義を見下す人間が後を絶たないからである。知りもしない他人の信念や思想を、勝手な憶測で語り、捻じ曲げ、貶める者が次々に現れるからである。文人や学界人がその権威において、慢性的に、息をするように、しかも皆で口裏を合わせたように、正義への憎悪と侮蔑に満ちた文章を方々に書き散らし、人を踏みにじって恥じないからである。そしておおかたこれらの有象無象は、こうした批判を受けてもなお、自身にそんな悪意はないと言い張り、それまで通り草の根の人々を嘲笑うのだろう。正義の従事者たちは、「文芸」や「研究」の名を借りた知的権威らの絶えざる攻撃にさらされながら、いつ終わるとも知れない社会変革の努力を続けなければならない。本来平和と非暴力を望む彼ら彼女らが、この部外者には想像しがたいストレスによって易怒的になったからとて、何の不思議があるだろうか。
*1 Aktion Fair Play (n.d.) "Aktion Fair Play – Bürgerinitiative für Tierschutz und Tierrechte," https://aktionfairplay.de/(2022年2月12日アクセス)。
*2 ZETA (n.d.) "ZETA Principles," https://www.zeta-verein.de/en/zoophilia/zeta-principles/(2022年2月12日アクセス)。
*3 Reinhardt Anders (2019) "Zoophilie und Veganismus – Die speziesistische Debatte." ZETA, https://blog.zeta-verein.de/2019/06/zoophilie-und-veganismus-die-speziesistische-debatte/(2022年2月12日アクセス)。