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パフィン物語

パフィン物語 No.12  ~コルディッツ・コックと人力飛行機~

2017.11.13 15:28


テレビが一家一台で、お茶の間の主役だった1970年(昭和45年)に、斬新なテレビコマーシャルが流れました。


渋い男前で野性的な魅力のアメリカの映画スター、チャールズ・ブロンソンを起用した、

男性用化粧品マンダムのコマーシャルです。


外国人俳優がテレビコマーシャルに登場することは初めてでしたので、とても話題になりました。


終戦から25年経過し、食べることが精一杯だった日本人の暮らしに、ようやくゆとりが出始めたころと重なって、マンダムは、男性用化粧品ながら大流行しました。


チャールズ・ブロンソンを皮切りに、続々と外国映画スターがコマーシャルに登場し、庶民の生活に新風を送りました。


ホンダが女性用に開発した可愛いオートバイ「ロード・パル」は、イタリア女優ソフィア・ローレンが起用されました。


イタリアのネオ・レアリズモの巨匠デ・シーカ監督映画「ひまわり」で、行方不明になった夫を捜すために、たったひとりで、社会主義のロシアに渡る情熱的な妻を演じたローレンが、颯爽とオートバイに乗り、笑顔で「ラッタッタ」と、発するコマーシャルは印象的で、その後、ラッタッタは「ロード・パル」の代名詞になりました。


イタリア貴族の末裔のヴィスコンティ監督の文芸映画「山猫」で青年貴族を演じたアラン・ドロンはマツダのカペラのコマーシャルに登場しました。


サンサーンスの「白鳥」、バッハの「トッカータとフーガ」、プロコフィエフの「ピーターと狼」など、クラシック音楽のスタンダード・ナンバーが流れる中、サファイアン・ブルーの瞳のドロンが、粋なスーツ姿でカペラから降り立つ様子は、都会生活の頂点のように思われました。


アラン・ドロンによってカペラのようなセダン型の車には、洗練された都会生活のイメージが定着しましたが、マツダとは正反対のコマーシャルがありました。


アメリカの大スターのスティーブ・マックイーンが砂漠をオートバイで疾走するコマーシャルです。


1973年にホンダは競技用モトクロス・オートバイ「エルシノア」を公道も走れるように改良して大々的に売り出しました。


スティーブ・マックイーンは「エルシノア」のイメージ・キャラクターとして起用されたのです。


スティーブ・マックイーンは、プライベートでもオートバイや車好きで有名でしたが、彼を世界のトップスターに押し上げたのは映画「大脱走」です。


ドイツ軍捕虜となった連合軍のパイロットたちが、収容所内に大きなトンネルを掘って、集団脱走するお話で、戦闘シーンのまったくない異色の戦争映画です。


スティーブ・マックイーンは「大脱走」の主役を務め、世界的なスターとなりました。



「大脱走」は第二次世界大戦の実話をもとに作られています。



「大脱走」の原作者はオーストラリアのパイロットで、北アフリカ戦線でドイツ軍の捕虜となり、収容所内の体験を小説にしました。


「大脱走」は、ナチスドイツがポーランド内に建設した航空関係者専用の収容所で実行された集団脱走です。


監視が厳重な収容所内で、連合軍の捕虜たちは、知恵と工夫で地下に大規模な長いトンネルをいくつも堀って、集団脱走を企て、76名が成功しました。



第二次世界大戦中に、この集団脱走の武勇伝は連合軍の士気を高め、その他の収容所に拘束されている航空関係者を奮い立たせました。


収容所という制限された空間で、知恵を絞って脱走を企てることは、軍人たちの誉れであったのです。



ナチスドイツの監視下の収容所では、次々と脱走が企てられましたが、ドレスデン近郊のコルディッツ城に幽閉されたイギリス王立空軍のパイロットたちは、脱走のために、グライダー「コルディッツ・コック」をつくりました。


「コルディッツ・コック」には、ユニークな材料が使われました。


リブと呼ばれる翼のための流線型の部品には、ベッドの床板を、翼の外皮は寝袋をつなげて、外皮の繊維の隙間を埋める塗料には、配給されるオートミールを煮詰めて代用しました。


「コルディッツ・コック」は完成した頃に、終戦を迎えたので、使用することはありませんでした。


しかし、「コルディッツ・コック」を完成させるために、パイロットたちが、知恵を絞り、皆で協力し、何か月もかけてグライダー工作をした経験は、戦争によって、忘れかけていた飛行機工作の楽しさ、飛ぶことへの憧れを思い出させてくれました。



本来、人は、ギリシア神話のイカロスとダイダロスの頃から、鳥に憧れ、大空を飛びたい一心で飛ぶ研究をしてきました。


ルネサンス万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが残した具体的な図面からも伺い知れるように、鳥人たちは、最初は、羽ばたくことに囚われていました。


しかし、17世紀に生まれたイギリス航空の父と呼ばれるケイリー卿が、模型飛行機を使った数々の実験結果から、空気よりも重い機体が飛ぶには、揚力、重力、抗力、推力の4つの力が作用することを発見し、理論書を残しました。


ケイリー卿の理論は18世紀、ドイツの鳥人リリエンタールに引き継がれました。


リリエンタールはグライダーを製作し、小高い丘から何度も飛び降りて、滑空に成功していますが、動力をつかって、地上から浮かび上がるまでにはいたりませんでした。


20世紀になり、アメリカの片田舎で、ライト兄弟が、変人扱いされながらも、少年の頃から始めた30年越しの実験を経て、1903年、ついに地上から動力で飛行機を上昇させ、推進させることができたのです。


ライト兄弟の成功により、動力付き飛行機の歴史は急ピッチで進みました。


飛行機は軍事に利用され、二つの大戦で、その素晴らしい能力を発揮しましたが、本来の飛ぶ楽しみから大きく方向がずれた飛行機を生み出してしまいました。


先人たちが長い間、積み上げてきた飛行のための理論を戦いの道具として利用し過ぎたことを航空関係者たちは大きく反省しました。



中でも、イギリス航空界では、コルディッツ・コック誕生の経緯から飛行機工作の原点に立ち戻り、人間動力の飛行機が未開拓だと気がつきました。



1957年にイギリスで人力飛行機委員会が発足し、人間動力に適した未知の飛行機への挑戦が本格的にスタートしました。



イギリス人力飛行機委員会のメンバーは、航空学研究の関係者で発足されましたが、メンバーの一員と親交のあった実業家ヘンリー・クレーマー氏が人力飛行機に魅力を感じて、賞金を出すことを発表しました。


これは、クレーマー賞と名付けられ、具体的なルールが設定されました。



1959年からクレーマー賞が始まり、我こそは、という飛行機好きのグループが挑戦しましたが、なかなか、クレーマー賞に手が届く人力飛行機は生まれませんでした。


当初クレーマー賞はイギリス人グループだけが挑戦していましたが、日本で、日大の木村先生が学生たちに卒業研究として挑戦させることにしました。


木村先生の教え子たちは、大学生活最後の年度、4年生の時に人力飛行機班を結成し、図面作成からスタートし、工作していきます。


飛行機を実際に作った経験のない若者たちが知恵を寄せ合って、未開拓分野の人力飛行機に挑戦していきました。



1966年に日本初、日大初の人力飛行機リネット号が誕生しました。


リネット号シリーズは1から5まであり、最高記録は91メートルでした。


続いて、1972年から始まったイーグレット号の最高記録は203メートルです。


そして、パフィン物語の石井さんが設計した1976年の日大人力飛行ストーク号は2093.9メートルで、世界記録をだしました。


この大記録は、木村先生をはじめ、世界中の航空関係者を驚かせましたが、設計した石井さんと、ストーク号を12か月間いっしょにつくった10名の仲間たちは、なぜ世界記録が出たのか、その理由を知っていました。


~つづく~


2017年10月27日