Thinking time 「カーリング」
2022.02.12 15:07
ハウスである円のなかにストーンを投げて、最終的にストーンを残せば勝つというゲーム。これは面白い。ハウスのなかにストーンをおいても、すぐにはじきだされてしまう。ここでハウスである円を人間の心だとしてみる。このような連想が働いたのは日本人の心のあり方がまさにカーリングという競技に表れていると思うからだ。日本人の心のカタチを考えるとその中心は空洞になっており環境に応じてそのつど核となる中心を絶えずいれ換えているという見方ができる。カーリング競技をみていると、心の中心になるべき魂をどのようにしたら獲得できるかを競い合っているように感じられる。投げられるストーンをいくつもの魂としてみる。それが中心を目指すのであるが、いったん置かれたストーンも次に投げられたストーンによって弾かれてしまい中心はまた空になる。このように日本人の心の構造は、なにも入っていないが中身だけ絶えず変わる器に似ている。
西洋人はだいぶ異なるだろう。心の中心は確固としてある。カーリング的な要素はまるでない。ホームの中心にはじめから堅固としたストーンが据え置かれている。せいぜいそのまわりを動かすことができるくらいなものである。日本人である私たちは事情が違う。心の中心をあえて空洞にしておき、それぞれの状況に応じて心の中心に置かれるべきものを決定する。一見すると個がないと悪いイメージをもたれるかもしれないがそうではない。柔軟に他を受け入れる体制ができているということでもあるからだ。また心の核となるものを自由自在に変容させられることの利点は大きいはずである。ただ反面この中心によくないものが入り込む可能性もあることに注意したい。
私たち日本人の心はまるでドーナツのようである。心の核となる中心を入れ換えながら生きている。皇居を中心にして山手線が一周している地形をみて異国の人は中心がないと言ったのだった。確かに中心にあるのはあくまでも象徴である。象徴という静寂が周辺の喧騒をよそに佇んでいる。このように東京の中心は沈黙している穴である。他を受容してそこから自らのアイデンティティを創造する宿命。からの器のなかにまず何かを入れてから、そこから自らを生成していく。材料はもともとなく料理する技術だけが、からの器となって日本人を規定している。心の中心は人間そのものであるから、その中心を変化させるのが一般となれば、人間がそのつど変わることになるのであり、それゆえ西洋人からみればよくわからない人種にみえる。すなわち曖昧と映る。
カーリングは最終的にホームにストーンを残せば勝ちになって終わる競技だが、終わりがなく永久にカーリング競技を強いられているのが、私たち日本人のありようではないか。
2022.2.12.北京オリンピック「カーリング女子」中継を観戦して。
LOVE
May !