心地よさを超えて沈黙、静寂へ
今まで何度も瞑想会を開催していますが、いきなり静かに沈黙して瞑想するというのは、現代人にとって難しいです。初心者の方にとっては特にそうです。
瞑想への導入のやり方はいくつかありますが、私はよく音を用います。シンギングボウルの音で瞑想に誘導していきます。
心身がカチコチに固まって、瞑想に入れないという方も、シンギングボウルの音を聞き、波動を感じることで速やかに静寂に到り、瞑想に入りやすくなります。
私としてはシンギングボウルの音を聞いて「ああ、心地よいな、リラックスできるな」とそこに留まって欲しくない、というのが正直なところです。
それはどういうことかと言うと、音が鳴り響いた後の静寂、沈黙の状態、それが非常に大切なのです。
まず音が鳴り段々高まっていき、やがて静かになっていく、そして最終的には無音となる。この無音の状態こそが本来の瞑想であり、完全な沈黙が本来の私達の自然な在り方です。
ですが音が鳴っている方が、多くの方にとって瞑想はやりやすいし、マインドの興味を引きます。リラックスできて心地よいし、その音にずっと浸っていたいと感じる方が多いです。
本来なら音が消えていった後の、完全なる沈黙、静寂の状態、これこそが本来の瞑想であり、私達本来の在り方なのです。
そのことを理解していただきたいですが、やはり最初は音が鳴って心地よいとそこに留まりたいと思うし、シンギングボウル以外でも他の音楽を流したり、体を動かしたり、呼吸を使ったりして瞑想に入り、非常にダイナミックな体験が起こることもあります。
そうすると多くの人がそのようなダイナミックな体験や、心地よさに惹かれていきます。実は音が鳴り終わった後、体を動かし終わったあと、呼吸が終わった後、その時に訪れる静寂こそが瞑想の肝であり、指導者はそこに誘おうとしますが、心地よさやエクスタシーにとらわれがちです。
そのような事は確かに興味深く、楽しい面白いと感じるものですが、それは私もよくわかります。かつての私はダイナミックな体験や心地よさ、エクスタシーといったものに惹かれており、それらを追体験したいがために、修行や瞑想をしていた側面もありました。
だけれども本質はそこにはありません。その後に訪れる静寂や沈黙、私は在るということ、それこそが肝です。
ですがそのことを理解することはなかなか難しいです。いったん沈黙や静寂が訪れて、その時は理解できてもどうしてもダイナミックな体験や心地よさに意識が向かってしまう方が多いです。
有名なOSHOという指導者がいて、最初はバグワン・シュリ・ラジニーシという名前でしたが、晩年はOSHOに改名したのですが、OSHOは様々な瞑想法を考案しまして、代表的なものがダイナミック・メディテーションというもので、詳細は書きませんが、激しい呼吸をしたり、カタルシスを伴うことを行います。
それによって心身の緊張を解き、内側にため込んでいたものを吐き出して、そこから静かに瞑想に入っていきます。
OSHOとしてはこのダイナミック・メディテーションで、呼吸やカタルシスが終わって静かにしている、それこそが肝であると考えていて、そのことを弟子逹、サニヤシン逹に伝えようとしたと思いますが、これは私の勝手な思い込みではなく、私の知り合いのサニヤシンの人達と話しをして、確かにOSHOは沈黙、静寂のところを肝としていたということがわかり、そこは疑いようのないことです。
しかし多くの人がダイナミック・メディテーションを行って、あまりにも呼吸とカタルシスのところで凄い体験が起こり、例えば何年も座禅をしていて何もわからなかったのが、ダイナミック・メディテーションを数回行っただけで、簡単に瞑想に入れてしまい「ダイナミック・メディテーションは凄いな」という方もいるようです。
それは私も理解できますが、瞑想に熟達してきて、静寂・沈黙が自然なことになると、呼吸やカタルシスを伴うワークが、必要なくなるどころか、かえって邪魔になってきます。
そのようなことをしなくとも、スッと座るだけで静寂に到ります。そこから生じる気づきは、色々と何かを行って生じるものよりも違う段階のものです。
ですからダイナミック・メディテーションで最初の呼吸やカタルシスのステージに留まっている人の話を聞いたりすると、非常にもったいないなと私は感じます。
シンギングボウルの音を聞いて多くの方が「非常に良い音で、聞いていて心地よく、簡単に瞑想に入れる」そういった声を聞き、それは私にとって非常に嬉しいことですが、その後の静寂、深い沈黙をより感じ取っていただきたいです。
そして私はシンギングボウルだけで終わらせず、音を鳴らしてその後の無音、その状態で座っていただき、内側に意識を向けていく。
その無音の状態が本来の在り方である、ということをその時は理解される方もいますが、日常生活で色々な出来事があって、それに翻弄されてしまうと沈黙や静寂といったものが見失われてしまいがちです。
瞑想でもただ座っているだけだと、マインドの動きに翻弄されてしまい、瞑想に入っていけずどうしても心地良さにとらわれてしまいます。
瞑想に深く入っていくと心地良いので、どうしてもそちらに意識が向いていきます。
本当に深く入っていくと、その心地良さをも超えていき、自然に静寂でいるようになります。
余分な感覚や思考が落ちていきます。
それは普段の日常ではなかなか体験できず、理解しにくいものです。
瞑想でも安直に心地良さであるとか、至福の状態に向いてしまうのは致し方のない面もありますが、それらを超えてより深めていただきたいです。
ある程度の段階に至ると、こうしましょう、こうしてください、などと説明をしなくても、自然に瞑想状態に至ります。
ずっと継続して瞑想に取り組まれている方は、余分なものが落ちてきており、こちらから色々説明をしなくても、自然に瞑想状態に至ります。
やはり継続していられる方は、余分なものがどんどんいらなくなっていますが、最初からそういうわけにはいかず、私も瞑想を始めたての頃は、足が痛い腰が痛い、瞑想して心地良いなど何もわからないという状態でした。
それでも続けているうちに、段々体の痛みも無くなっていき、瞑想状態がどういうものか頭での理解ではなく、腑に落ちてきてやがてそれが至極当たり前の状態となっていきました。
今では全く瞑想に入れないということはなく、あまりにもコンディションが悪い時は別ですが、普通の状態ならまず瞑想に入れないことはなく、やはりそれも継続してきたおかげです。
私が指導をしている人達で継続して瞑想を行っている方々は、誘導など必要なく自然に瞑想に入っていっています。
そしてそういう人達は、瞑想して心地良いなどそういうものを超えて、内なる静寂、沈黙これらこそが肝なのだとよく理解されています。
それは一緒に瞑想していればそれが伝わってくるし、対話をしてもよくわかります。
まだ慣れていない方は、シンギングボウルの音や、呼吸や身体技法などを補助として入っていけば良いと思います。
そのようなサポートもしていきますし、その後の沈黙、静寂というものをまずは体験し、それこそが本来の在り方ということを落とし込んでいただきたいと思います。