前に生まれんものは 後を導き…
「前(さき)に生(う)まれんものは 後(のち)を導(みちび)き
後(のち)に生(う)まれんひとは 前(さき)を訪(とぶら)え」
この言葉は親鸞聖人の書かれた「教行信証」の終わりの部分に引用された言葉で、
中国の道綽禅師の「安楽集(あんらくしゅう)」という著書の中に出てくるご文です。
先日、ご門徒さん宅でご法事をお勤めした時に驚かされたことがありました。
それは、故人の曾孫にあたる年長くらいの男の子が、お正信偈を最初から最後まで上手に読み、大人たちと一緒にお勤めしたことです。
私は感心すると同時に、故人が縁となってそのような姿にお育て下さったんだなと有り難い気持ちになりました。
金子みすゞさんの作品に「蓮(はす)と鶏(にわとり)」という詩があります。
蓮と鶏
泥の中から蓮が咲く
それをするのは蓮じゃない
卵のなかから鶏(とり)が出る
それをするのは鶏じゃない
それに私は気がついた
それも私のせいじゃない
という詩です。
泥の中から咲く蓮や、卵を突き破り出てくるひな鳥も、いのちを輝かす素晴らしい姿です。ですが、みすゞさんはそこだけに目を向けるのではありませんでした。
輝くいのちの背景には、輝きさせる多くの目に見えないはたらきがあるとこの詩を通して教えてくださいます。様々な条件が整って私が私たらしめられているということです。
そして、「それに私は気がついた、それも私のせいじゃない」と、自分自身の積み上げてきた知識や経験、今の姿すべてが自分の力で得たものではなく、自分以外のはたらきによって気づかされ、教えられ、身につけさせてもらったものだと味わっておられます。
これは浄土真宗の教えが根強い地域で、幼い頃から仏さまに手を合わし、お念仏申す生活を送られてきた中で育まれた心であると思います。
それと同じように、この度のご法事も、故人が縁となって私たちをお育て下さり、阿弥陀さまのお慈悲の中にある人生であることを教えて下さった尊い仏縁でありました。
引く足も 称える口も 拝む手も 弥陀願力の不思議なりけり
様々な仏縁の根底には阿弥陀さまの「あなたを必ず救う」という大きな願いのはたらきがあるのです。