知っているし、確信して甘えている
ウィリアムは集中すると食べることも寝ることも忘れて作業に没頭してしまう。
それは読書であったり、論文の執筆であったり、講義資料の作成であったり、見据えた未来に向けてのあらゆるパターンを想定したプランニングであったり。
一度集中してしまうと大抵の声が届かないようで、そういったときには放っておくというのが暗黙のルールだ。
けれどその大抵の声の中にルイスだけは当てはまらないようで、ウィリアムはどんなに集中していようとルイスの声だけは聞き逃すことがなかった。
「兄さん、料理長にお菓子を貰いました」
「そう。良かったね、ルイス」
ルイスがロックウェル家お抱えのシェフに付いて夕食の仕込みを手伝った後、彼は焼き菓子の切れ端が余ったからとたくさんのかけらをくれた。
かけらといっても一つ一つは小さなルイスの手のひらの半分ほどの大きさがあり、しかも両手一杯にもなるととても余り物とは思えない。
少し前までこれを手に入れるため必死だったというのに、今ではこんなにも簡単に手に入ってしまうのだから不条理なものである。
ルイスは香ばしく甘い香りを漂わせているそれを簡易的な包装紙で包み、ウィリアムと一緒に食べようと思い兄の元を訪ねて行った。
「ちゃんとお礼は言えたかい?」
「ありがとうございますと伝えてきました」
「偉いね、ルイス」
人見知り気質が強く他人に心を開かないルイスは口数も少なく大人しい。
けれど、「ありがとう」と「ごめんなさい」はちゃんと言うようウィリアムに教えられてきたのだから、兄の顔に泥を塗らない意味でもきちんとシェフに伝えてきた。
そんなルイスを褒めるようにその髪をひと撫でしてから、ウィリアムは読んでいた本へと視線を戻してしまう。
「……」
ウィリアムは集中すると大抵の声が届かなくなる。
アルバートが声を掛けてもジャックが声を掛けても、聞こえているのか分からないような生返事しか返ってこない。
けれどルイスが声を掛けたときにはちゃんと顔を上げて返事をしてくれるのだ。
そんな兄がルイスは嬉しかった。
どんなときでも自分のことを見てくれるウィリアムのことがルイスはだいすきで、そして、そんな兄が自らの知識欲を満たすために本に没頭する姿を見るのもだいすきだった。
ウィリアムの邪魔にはなりたくないと考えているからこそ、一時的にルイスを見てもすぐに本へと意識を戻す様子を見ると安心する。
ルイスはウィリアムがしたいことを我慢せずに実施している姿が何よりも嬉しいし、好きなことに集中している兄を見るのがだいすきなのだ。
それだけ安心が確保された環境に居られることが幸せだと思う。
ウィリアムがそうして本を読んで蓄えた知識を教えてくれる日が、今からとても待ち遠しかった。
「…ふふ」
静かにウィリアムの隣へと移動し、すぐそばに腰を下ろして横目に文字の羅列を盗み見る。
どうにもルイスには難しい内容だが、興味深そうに瞳を輝かせているウィリアムの横顔はとてもキラキラしていて素敵だった。
きっとウィリアムには面白くて楽しい内容なのだろう。
ゆっくり読んでほしいなと、ルイスがそう思いながらソファに小さな体を埋もれさせると、その手元の包装紙から甘い香りが漂ってきた。
貰ったばかりの焼き菓子のかけらはまだほんのり温かくて、すぐに食べればさぞ美味しいことだろう。
ルイスはちらりとウィリアムを見るけれど、互いの視線が合うことはなかった。
残りのページはまだありそうで、もうしばらくは読書に没頭してしまうはずだ。
その頃にはこのかけらは冷めてしまうし、もしそうなってもきっと美味しいはずだが、どうにも勿体なく思う。
「…兄さん」
ルイスは考えた末、温かいうちにこの焼き菓子をウィリアムに食べてほしいという気持ちの方が勝ってしまった。
小さな声で兄を呼び、小さな手で小さなかけらを手に取ってウィリアムの口元へと持っていく。
持って行ったら食べてくれるかな、という動物じみた発想だ。
「…ん、もぐ」
「…!」
食べた、とルイスは隣に座っている兄を見る。
元々あまり身長差は目立たなくて、座ってしまえばほとんど背丈は変わらない。
そんな兄の緋色はしっかりと文字を追っているのに、唇をつついた焼き菓子は反射的に口へ迎えてくれた。
「(食べてくれた…!)」
美味しいですかと聞いてみたかったけれど、聞くとウィリアムの集中が途切れてしまうかもしれない。
そう思うと尋ねるのは憚られてしまい、それでもルイスは嬉しそうに頬を緩めてから自分の口にも焼き菓子のかけらを運んでいく。
さくさくした食感は香ばしさと甘さが相まってとても美味しい。
ウィリアムも美味しいと思っているはずだと、ルイスはこくりと喉を動かしてからもう一度かけらを手に兄の口元へと指を持っていく。
「むぐ…ん」
「…ん、ふふ」
ウィリアムはルイスが差し出したかけらを疑いもせず無心で食べながら本を読む。
その目は変わらずルイスではなく文字を追っており、長い指は持っている本のページを早いスピードで捲っている。
そうだというのに、ルイスが口元に持っていった焼き菓子を食べるために口がもぐもぐと動いているのだ。
器用な人だと、ルイスは感心しながらも嬉しかった。
まるで子猫や小鳥のようで可愛らしい。
ルイスにとってウィリアムはいつだって格好良い人なのに、集中していても実はお腹が空いているのだと分かってしまった。
隠しているわけでも格好つけているわけでもなく、ただ空腹を満たす優先度が低いだけなのだろう。
夢中になって本を読んでしまうほど集中力の高い兄が、ルイスの手から差し出されたお菓子を無意識のうちに食べているのだ。
なんだかとても可愛らしい。
ルイスはウィリアムの口と自分の口へ交互に焼き菓子を運んでいき、おかしなおやつの時間を満喫していた。
「あれ、ルイス?」
「兄さん、本は面白かったですか?」
「え、とても興味深い内容だったけど…ん、砂糖…?」
「僕も面白かったです」
分厚い本を読み終え、ようやく意識が浮上してきたウィリアムは己の口元に付いている砂糖に気付いたらしい。
指を伸ばしてそれを確認してから唇を舌で舐めてみると、優しい甘さを感じ取れる。
何だろう、と思いながらルイスを見れば、可愛い弟はふわりと笑っていてより可愛らしかった。
そういえば本を読みながら何か美味しいものを食べていたような気がする。
ウィリアムはルイスの手元にある包装紙に包まれたほんの小さな焼き菓子のくずを見た。
「兄さん、お菓子を持っていくとぱくぱく食べてくれるから面白かったです」
「…ルイス」
ウィリアムが呆れたように笑ってしまったのは決してルイスの言葉が原因ではなく、自分自身の無防備な行動ゆえにだ。
舌に残る甘味と唇に残っていた砂糖がルイスの言葉が嘘ではないことを証明しているし、そもそもルイスは隠すことはあっても嘘など吐かない。
記憶は朧げだが、どうやら一緒におやつを食べていたのだと知ると何だか惜しい気持ちはある。
けれど珍しくルイスが満足そうにしているからまぁ良いかと、ウィリアムは本を置いて隣にあるふわふわした金髪を撫で回すことにした。
器用というか無防備というか、ウィリアムのそんな癖を知ってからのルイスは段々と使命感に燃えていた。
時には休憩のお茶すら飲まずに作業に没頭してしまうウィリアムに、少しではあろうと食事を摂らせることが出来るからだ。
おかげでルイスはお菓子を作る際に指先ほどの小さなサイズに成形するのが上手くなってしまった。
大きいサイズは食べ応えがあるけれど、集中しているウィリアムに食べさせるのは少々手間になる。
今日も今日とて、ルイスはウィリアムのためにチョコチップをふんだんに入れた小さなクッキーをたくさん焼いていた。
親指の腹ほどのサイズしかない小さなクッキーは、きっとモランあたりが食べるならば「食べた気がしねぇ」と言われてしまうのだろう。
だが集中したウィリアムにはこのサイズがちょうど良いのだ。
ルイスは粗熱を取ったばかりのクッキーを皿に盛り、まずはアルバートの元へと足を運んでいく。
「アルバート兄様、お仕事中にすみません」
「構わないよ。お入り、ルイス」
「失礼します」
許可されるまま部屋の中へと入れば、アルバートは持っていたペンを軸に戻してルイスを振り返ってくれた。
書き物をしていたのだろう彼の近くには何枚もの書類が置かれており、まだ白い部分が目立つ紙の束も随分な厚さで積み重なっている。
仕事中に手を汚さず軽くつまめるものを、と考えたルイスの判断は正しかったらしい。
先ほど届けた紅茶は冷めてしまっているだろうが、むしろその方が飲みやすいのだろう。
アルバートは紅茶の追加を頼むでもなく、ルイスが持ってきたチョコチップ入りの小さなクッキーを手に取った。
さく、と焼き菓子特有の軽く香ばしい音が響く。
「ん、美味しいな。ありがとう、ルイス。食べやすいサイズで助かるよ」
「甘いものを食べて、少しでも疲れを癒してくださいね」
「あぁ」
作りたてのクッキーの味はアルバートの好みに合っていたようで、ルイスはふと表情を和らげた。
つい張り切って皿にたくさんの量を盛ってしまったが、残りの用紙の枚数から察すると最終的には丁度良い量になるだろう。
こまめにクッキーを摘んで脳を休めながら仕事をしてほしいと伝えてから、ルイスは礼儀正しく頭を下げて部屋を出る。
そうして再び厨房へと戻り、今度はアルバートのものより少なめに盛ったクッキーの皿を手にウィリアムの元へと向かっていく。
「兄さん」
「ルイス」
執筆している論文の参考資料を読んでいるのだろうか。
ウィリアムの机にはインク瓶とペン軸、書いたばかりの書類が少し遠くに押しやられており、すぐ手前にはページが開かれたままの本が三冊ほど並べられている。
相変わらず忙しいことだ。
ルイスはそんなことを考えながら部屋の中へと入り、近くに備えられていた椅子を持ち出してウィリアムの隣へと腰を下ろしていく。
その様子を見届けてから、ウィリアムはまたも本へと視線を落とす。
何年一緒にいようと、真剣な様子を滲ませる緋色を横から眺めるのはルイスのお気に入りだ。
ウィリアムが好きなことに集中出来る環境は何より喜ばしくて、好きなことをしている兄を見るのがルイスはだいすきなのだから。
「あ」
「……はい」
けれど、昔と変わってしまった部分もある。
以前のウィリアムならば集中してしまうと周りにはとんと無関心だったのに、今はある程度意識を保つことが出来てしまうのだ。
ルイスが口元にお菓子を持っていけば無意識に食べてしまう小動物のような仕草がとても可愛かったのに、今となってはルイスにお菓子を食べさせるよう要求するかのごとく口を開けて待っている。
あ、と開けられた口に焼き立てのチョコチップクッキーを入れていくと、さくさくという軽快な音の後で嚥下音が聞こえてきた。
「あー…」
「はい」
「ん、むぐ」
もう一つ、と言わんばかりにウィリアムが口を開けたタイミングでルイスは小さなクッキーを放り入れる。
昔の兄は唇をお菓子でツンツンとつついてから口を開けて反射的に食べていたのに、成長して大人になった彼は欲しいタイミングになると発語せずにお菓子を要求する。
そうして満足そうに飲み込んではじっと本に目を落とすのだ。
要求するときも食べているときも飲み込むときも、ウィリアムの意識はルイスではなく本へと向かっている。
「……」
器用な人だと、いつかの自分が抱いた感想と全く同じことを考えながら、ルイスはウィリアムの横顔を見る。
無防備なウィリアムにクッキーを差し出して、無意識にそれを食べる姿は小動物のようでとても可愛かった。
今はそんな無防備な姿などないし、しっかり要求出来る程度には意識が保たれている。
横着だと思わないでもないけれど、それ以上に何だか無性に愛しく思う。
「あ」
「はい、兄さん」
きっと甘えられているのだろう。
そうでなければ何事も自分一人でこなせてしまうほどに器用で完璧なウィリアムが、わざわざルイスの手を煩わせてまで作業の合間に糖分補給などするはずもない。
集中していても周りを把握出来るというのなら、アルバートのように合間でクッキーを摘めばそれで良いのだから。
ウィリアムは敢えて昔の習慣をそのままにしているのだ。
自分は本を読んでいるのだからルイスに食べさせてもらわなければならないのだと、全身で訴えているようで気分が良い。
形の良い唇を開けてルイスからのクッキーを待つ姿はやっぱり昔と同じように可愛らしくて、思わず顔が緩んでしまった。
格好良くて綺麗なばかりだったはずの兄が唯一見せる可愛らしい姿は、ルイスにとって大のお気に入りだ。
「…可愛いなぁ」
「ん、んん?」
「何でもありません、兄さん」
もぐ、と口を動かしながら自分を振り返るウィリアムを見て、ルイスは笑みを返しながら本へと意識を戻すよう促した。
つい漏れ出てしまった心の声はウィリアムの集中を途切れさせてしまっただろうか。
そう思うと少しだけ申し訳ない気持ちになるが、どんなに集中していても自分の声には必ず反応してくれるのだと思うと、ルイスはやっぱり嬉しかった。
ルイスに甘えている自覚はあっても、それを可愛いと思われていることなど、ウィリアムはきっと知らないのだろう。
知らないまま、自分にだけは可愛い姿を見せてほしいなとルイスはひっそり思うのだった。
(ふぅ)
(欲しい資料は見つかりましたか?)
(あぁ、ようやくページが見つかったよ。ありがとう、ルイス)
(資料探しには特に貢献出来ていませんが…クッキーのお味はいかがでした?)
(美味しかったよ。チョコチップがたくさん入ってて、小さい割に食べ応えがあった)
(ありがとうございます。まだありますけど、食べます?)
(あー…)
(…もう自分で食べられるでしょうに。…はい)
(ん、美味しい)