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Okinawa 沖縄 #2 Day 168 (25/02/22) 旧浦添間切 (3) Kyozuka Hamlet 経塚集落

2022.02.26 12:28

旧浦添間切 経塚集落 (きょうづか、チョーヂカ)

[更新: 2022/3/4 夫婦井訪問]


今日から、旧浦添間切の集落巡りに戻る。先日訪れた沢岻集落の隣にある経塚集落を訪れる。


旧浦添間切 経塚集落 (きょうづか、チョーヂカ)

経塚は、浦添市の南部に位置し、北は小湾川上流の安波茶川 (アバチガーラ、字安波茶、字沢岻では前川 (メーガー) と呼ぶ)、南は安謝川支流の沢岻川、東は前田、西は大平、沢岻に接している。18世紀ごろには経塚には困窮士族の救済対策として、士族の身分のままで帰農を奨励した時期に、士族が移住して沢岻、安波茶、前田の地主から土地を借り農業で生計を立てた屋取集落が造られたと考えられている。その後、経塚は沢岻/安波茶/前田の二、三男の分家筋と1879年 (明治12年) の廃藩置県で無職となった首里からの旧士族が移住し、集落が拡大していった。当時は身分制度が厳しく旧士族のプライドが高く、経塚のことを首里経塚、または、平良大名と称し、自分たちは田舎人ではな く、首里人、侍の流れを汲む者との自負があったそうだ。

1916 (大正5)年に行政区経塚が認可されたときには、沢岻から、洗江良原 (アレーラバル)、経塚 (チョーヂカヴァル)、上平良大名原 (ウィーテーラナーバル)、下平良大名原 (シムテーラフナーバル) の4つ原 (バル) を、 安波茶からは北経塚原 (ニシチョーヂカバル)、南経塚原 (フェーチョーヂカヴァル) の2つの原を、前田からは南小島原 (フェーウジマバル)、西小島原 (イリウジマバル)、子ノ方原 (ニーヌファバル) の3つの原を分割し移管して字経塚が新設された。


経塚の人口については、明治時代は250~300にん、分離独立し行政区になった1916年 (大正5年) は250~350程で、1934年 (昭和9年) には450人程だった。当時は世帯の93%が農家だった。(この率は旧浦添村の他の集落でもほぼ同じ) 人口が著しく増加し始めるには1970年代で、それ以降も順調に増加している。2002年に人口が450人程減少している。この年には人口統計の行政区区分が変わり、グリーンハイツが別に人口集計がされている。グリーンハイツは経塚と前田にまたがっている。

この年の減少はこれがが理由と思われる。グリーンハイツの三分の一が経塚に属していた住民だろう。人口の増加は現在でも持続している。2019年にはゆいレールの経塚駅が開業し周辺地区が開発中なので、今後も人口増加は続くと思われる。

浦添市の中の他の字と比べると戦後1970年代以前は、人口の伸びが他地域に比べ鈍く1972では三番目に人口が少ない字になってしまっていた。これ以降に地域が開発され人口が増加して現在では真ん中ぐらいに位置している。経塚を巡った印象ではまだまだ住宅地開発か期待できる土地は多くある様に思えた。経塚駅開業で商業施設も増えていくだろう。何より那覇に時間的に近くなった事で今後が期待できる。

人口の変化については、前述の通り、増加率は他地域に比べ低く浦添市平均を下回っている。とはいえ、戦後に比べて10倍にもなっている。島尻南部の行政区から見れば羨ましい数字だ。

経塚集落内の民家の分布を見ると戦後暫くまでは、殆ど変化は無く、公事道と呼ばれた街道沿いに民家が建っていたのみで、そこ以外は畑だった事がわかる。


経塚は屋取集落が分離独立したので、他の昔からある村の様に、御嶽や殿は存在しない。集落で行われていた祭祀は以下の通りだが、村で行っていたものはあまり無く、門中単位で、その宗家に赴き行っていた。このうち今でも拝まれている行事がどれかについてに記載は見当たらなかった。10月1日の御松の御願は現在でも拝まれているそうだが、これは首里で行われていた祭祀を移植したものという。


経塚集落訪問ログ




中頭方西海道、南の坂 (フェーヌヒラ)

先日、2月10日に沢岻集落を訪れた際に、この北にあった浦添街道とも呼ばれた中頭方西海道の南の坂 (フェーヌヒラ) を歩いた。経塚集落は琉球王統時代の宿道だった中頭方西海道の街道の道沿いに集落をつくっていた。経塚にとってこの中頭方西海道の存在は非常に重要なものだった。北の坂 (ニシヌヒラ) へ続く、この南の坂 (フェーヌヒラ) は経塚内では無く、首里の大名 (おおな、フナー) なのだが、ここから今日の訪問を始める。南の坂もかなり急な坂だ。当時は石畳だったので、滑りやすく、この坂を降りるのも大変だっただろう。坂の上からは北にある登り坂の北の坂が見えている。当時は住宅などは無かったので、北の坂がはっきりと綺麗に見えただろう。


首里橋 (スイバシ)

南の坂を下ると、宿道で経塚では公事道 (クージミチ = 国道) と呼ばれていた中頭方西海道は沢岻川を渡る。かつては、沢岻川には石橋だった首里橋 (スイバシ) がかかっていた。現在はコンクリートの橋に架け替えられている。この辺りが、首里大名と浦添の経塚の境になる。


平良大名底 (テーラフナーズク)

首里橋あたりは北の坂 (ニシヌヒラ) と南の坂 (フェーヌヒラ) の間にある谷間になっており、平良大名底 (テーラフナーズク) と呼ばれていた。この地域は字経塚の小字の下平良大名原 (シチャテーラフナーバル) になる。この地は、上平良大名原 (ウィーテーラフナーバル、たいらおふな)、経塚原 (チョージカバル)、洗江良原 (アレーラバル) と共に、沢岻集落から1916年 (大正5年) に移管された。


経塚橋 (チョーヂカバシ)

首里橋がかかる澤岻川の東側には経塚橋 (チョーヂカバシ) がかかっていた。大正11年に県道153号線普請の際に完成。 沖縄戦で破壊されたが戦後、昭和45年頃に暗渠として復旧されているが、橋は無くなってしまった。現在は道幅も広くなりかつての情景は失われている。この経塚橋には遺怨火 (イニンビー 狐火) が出没したと伝わっている。戦前は日常的にこの遺怨火が見られたという。この経塚橋辺りで発生して、樋川を通り、石嶺の伊江御殿 (伊江男爵邸) の方に移動したという。昔、郵便配達役 が大切な手紙を失くし、 責任をとって自殺したが、魂はこの世に留まり、いつまでも手紙を探しているのだと言い伝えられていたそうだ。


宮古井 (ナークガー)

経塚で拝まれている拝井は10つあるそうだ。この下平良大名原 (シチャテーラフナーバル) には二つある。この井戸は掘り込み井戸の宮古井 (ナークガー) で、即位前は浦添城主だった第二尚氏七代尚寧王が1597年に首里の平良橋 (大平橋) から浦添城までの道路を石敷きの公事道 (クジミチ) に改修建設の際、宮古から呼び寄せられ人々が生活用水として井戸を掘り使用した。 この宮古井の近くには宮古ガマがあり、工事で亡くなった人達を葬った場所と伝わっていたが、現在は大名住宅開発で整地され消滅している。大正期までは平良大名の人々はこの井戸のことをイーヌカー (上の井戸) と呼んでいたが、宮古に関係するらしいことが判った頃から宮古井 (ナークガー) の呼称に統一されている。小字下平良大名原 (四班) の住民に御松ヌ御願 (ウマチヌウガン) で拝まれていた。沖縄の日本復帰前までは宮古の人達がこの宮古井に拝みにきていたという。宮古井という井戸は首里平良町にもあるのだが、当時平良の地域住民に世話になったお礼立派な井戸を造って送ったという伝承が残っている。


樋川井 (ヒージャーガー)

下平良大名原 (シチャテーラフナーバル) のもう一つの拝井が、樋川井 (ヒージャーガー)で、宮古井 (ナークガー) の北側にある。昔は沢岻のムラ毛の人里離れた山裾のナナチチヌにあり、 沢岻集落が所有していた。 明治37年7月のに大干ばつ日照りの際に沢岻集落から酒一升で譲ってもらったと伝わる。良質の水源で、戦後はパイプで200mほど引いて、県道脇のタンクまで送水していた。昭和30年代まで井泉の下方で馬を浴びせたり、夏の夜は肝試しも兼ねて月明かりの下で、子どもたちが水浴びをしたりしたそうだ。この井戸は湧水だったが、現在では水は枯れている。


中頭方西海道、北の坂 (ニシヌヒラ)

中頭方西海道に戻る。首里方面から大名の南の坂 (フェーヌヒラ) の北は、登り坂に変わる。ここから北の坂 (ニシヌヒラ) と呼ばれる急な坂道で、道を進むと階段になる。これを登ると平坦な道になる。石畳は残っていないのだが、海道があった道には、琉球石灰岩で石畳の雰囲気を出している。この新しい石畳をたどっていけば、この海道を歩ける。この辺りは経塚では最も高い場所になり、頂原 (チジバル) と呼ばれている。冬、風が強いため、ほとんど家がなかった。 現在は住宅地となっている。

この道は琉球王国時代の宿道 (じゅくみち) の一部で、三山統一後、尚巴志により首里王府と各地の間切を結ぶ道路が造られ、首里と各地の連絡は、この道を通してその間に設けられた宿場を経由したなされていた。この制度は宿次 (しゅくつぎ) とよばれ、南北ともに西 (イリ) 回りと東 (アガリ) 回りのルートがあった。宿場には馬が置かれ、文書などを送る「駅」の制度が始まった。この道は中頭方西宿 (西海道) にあたる。


七番毛 (シチバンモー)

中頭方西海道を新しい石畳に沿って進むと、七番毛 (シチバンモー) と呼ばれる広場に出る。かつて国王が首里城から普天満参詣などに向かう際の休憩場所だ。確かに、南の坂 (フェーヌヒラ) と北の坂 (ニシヌヒラ) の二つの急坂を降りて登るのは重労働だ。王は輿に載っているから、疲れないだろうが、輿を担いでいる人にはかなりの負担だろう、また、徒歩で伴をしている家臣たちも疲れただろう。ここで休憩とるのは王の為というよりはその他の人たちの為だったかもしれない。ここはかなり高台なので休憩には気持ちの良いところだっただろう。解説では慶良間諸島を眺めつつ、伴の者の楽曲演舞を楽しんだとある。そのような人も伴をしていたのだ。何とも、ゆったりとした良い時代だ。今では、民家やビルが立ち並び当時の風情はなくなってしまった。


松並木 (ナンマチ)

七番毛 (シチバンモー) を抜けると経塚原になり、松並木 (ナンマチ) と呼ばれた通りに出る。名前の様に、昔は松が道の両脇に植えられていた。現在はその名残りも無く、住宅がぎっしりと密集している。この松並木は琉球王統の三司官だった蔡温が植えたと伝えられていたため蔡温松とも呼ばれた。


サーターヤー跡

頂原 (チジバル) には砂糖屋 (サーターヤー) が置かれていた。空き地になっているが、間もなく住宅地になるようで、整地されていた。


サーターヤー跡

頂原 (チジバル) の崖下にも砂糖屋 (サーターヤー) があったのだが、現在はぎっしりと民家が建っている。


洗江良井 (アレーラガー) 

松並木がある経塚原の北は小字洗江良原 (アレーラバル) になる。かつて、この地域には民家はほとんど無く、畑と水田だった。北側は崖になり、丘陵が下に落ち込んでいる。その崖斜面に拝井となっている洗江良井 (アレーラガー) があった。この崖は洗江良崖 (アレーラバンタ) と呼ばれていたので井戸の名もこのようになっている。この井戸は洗濯用水として使用され、日照りには飲料水としても使用されていた。


御殿井 (ウドゥンガー) 

中頭方西海道を経塚原を抜けた所で、県道153号に合流する。道幅が広くなり、多くの民家や商店が立ち並び、街道の雰囲気は失われる。ここからは南経塚原 (フェーチョーヂカバル) の小字になる。南経塚原は元々は安波茶に属していたが、経塚設立時に移管された地域。現在の住宅街の中に御殿井 (ウドゥンガー) という拝井がある。昔は街道沿いにしか民家は無くその北は一面畑だった。この井戸も畑の中の掘り込み井戸でここに移住した人達が掘ったものだ。この近くに本部御殿の屋敷があったのでこう呼ばれている。


古井 (フルガー) 

御殿井 (ウドゥンガー) の近くに南経塚原内の二つ目の井戸がある。ニービ岩で造られた掘り込み井戸で水質が良く、豆腐づくりに使われたそうだ。この井戸も拝井という事で井戸の脇には香炉が置かれている。


経塚公民館

経塚の公民館はこの南経塚原の崖縁に建っている。経塚ゆいまーるセンターで、自治会以外にも児童センター、保健福祉センターも併設されている。この地に村屋があったのかは資料には記載がないが、1918年 (大正7年) に経毛近くに最初の村屋が置かれたというので、ここでは無さそうだ。この経塚ゆいまーるセンターは1996年 (平成8年) に落成している。

公民館の前は大通りになっており、ここでは村の行事が行われる。大通りの真ん中には石垣で松並木が植えられて、良い雰囲気だ。

12月には年末のイルミネーションが飾られ、多くに人が訪れるそうだ。


サーターヤー跡

公民館には広場がある。ここはかつてのサーターヤーだった所。ここは仲門崖 (ナカジョーバンタ) と呼ばれる崖上で、ここからは浦添の街とその向こうの東シナ海まで臨める。


経毛 (チョウモウ)

かつての街道だった県道153号を進むと南経塚原から北経塚原 (ニシチョーヂカバル) に入る。ここも安波茶から移管された地域。街道沿いに、高野山で修業し、補陀落 (ふだらく) 僧として琉球の金武湾富花港に1527年から1534年の間に流れ着いた日秀上人 (1503年~1577) が1524年に建立したとされる経塚がある。琉球王統時代には、ここは鬱蒼と木が茂り、昼でも薄暗い小山だった。日が暮れると妖怪が出て、通行人を惑わせることがしばしばあったという。 第二尚氏三代尚真王 (在位1477年 - 1527年) に、そのことを 伝え聞いた日秀上人が、たくさんの小石一個一個に経文を書いて穴を掘って埋め、その上に金剛嶺の石碑を建て、妖怪変化を押さえ込んだ。 (現在の金剛嶺碑は住民の寄付により1927年に改修されたもの)  以降、妖怪は現れなくなり、首里と仲間の間を行き交う人も安心して旅をすることができるようになった。また、以来、地震やカミナリが起こった際、「チョウチカチカ」、或いは「チョウチカ、チョウチカ」と唱えると、治まると信じられるようになった。 この言い伝えから、ここを経毛 (チューモー) や経塚 (チョージカ) と呼ばれるようになった。この地震をおさめるという逸話には別バージョンもある。「昔、首里城から中城城に、今でいう郵便配達員が書状を届けた帰り、休息のため酒を飲んで経塚で寝てしまった。 目が覚めて首里の方に行くと地震が あったというので皆大騒ぎであった。この者が地震のことを知らないと告げると、 それを聞 いた人は、地震のあったこの時間にはどこにいたかと聞くと、公務中に飲酒で寝ていたとは言えず、経塚にいたが全く揺れなかったと言った。 それからは経塚では地震が無いという噂が広がり、チョウチカと言うと地震が止むと伝えられた。」

字経塚の名の由来になるこの塚の周りの広場はうちょうもう公園 (御経毛公園) となっている。沖縄県には12の経塚が確認され (現存は四つ)、ここの経塚は最古のものと考えられている。ここで登場する日秀上人は琉球に滞在していた期間 (1527年~1545年の18年間と推定) 琉球王統に真言密教を広めたとされる。金武に千手院を建立、波の上の護国寺に阿弥陀、薬師観音の三像を奉安し、那覇湧田に地蔵六像を安置したと、琉球史文献にも記載され、各地にこの経塚の様に様々な伝承が残っている。このことから見ると、仏教が王族だけでなく、一般庶民にも広まり始めたとも考えられる。その後、仏教が広まることはなく、各地に建てられた寺は廃寺になっているものが多い。何故、沖縄に仏教が広まらなかったのかは興味深いテーマと思う。個人的考えでは、沖縄にとってはやはり自然崇拝、祖先崇拝が村社会の基盤で仏教や神道は村人の自然祖先信仰の一部分としてみられたのではないだろうか?歴史上、宗教が広く広まっている背景にはその排他的な教義を信仰する有力者が存在するのだが、沖縄で仏教は日本幕府とのパイプとしてに意味合いが強く、琉球王府が民衆に押しつけたり、広める事は無かった。王府でも琉球神道はを国の宗教として神官制度を確立していた。民衆も仏教を唯一の信仰とは考えず、昔からに自然、祖先信仰の一形態として捉えていた様に思える。


いちゃりば兄弟 (チョーデー) 石碑

うちょうもう公園入り口にいちゃりば兄弟 (チョーデー) 石碑が置かれている。この「いちゃばり」は沖縄人の精神を表す言葉として良く出てくる。「いちゃりば (出逢えば) ちょーでー (兄弟) ぬーひだてぃぬあが (なんの隔てがあるものか)」という兄弟小節 (ちょーでーぐゎーぶし) の歌詞がある。昔からの言葉を歌にしたものだが、沖縄人の気質を表しており、今まで出会った人は、それを大切にしたい、すべきと思っている沖縄人は多いと感じる。経塚は1944年に安波茶、前田、沢岻の一部を割いて造られた新しい部落で、村づくりには住民は率先して協力的し団結心を強めていったという。それを将来に渡って続けていきたいという思いでこの碑が造られたそうだ。


西の井 (イリヌカー)

経毛の近くに北経塚原の掘り込み井戸の西の井 (イリヌカー) の拝井がある。ニービ岩で造られている。前ヌ井 (メーヌカー) とも呼ばれていた。


中頭方西海道

経毛 (チョウモウ) から県道153号線から分岐する道がある。側道に石畳を模した歩道になっている。かつての中頭方西海道の街道跡だ。進むと急な下り階段となる。石畳が復元されている。ここを降りると安波茶橋に通じる。


安波茶川 (アバチガーラ)

街道を下に降りると小湾川が流れている。ここに架かる石橋一帯は安波茶川 (アバチガーラ) と呼ばれ、1406年に尚巴志が浦添城を攻めた際と1609年薩摩軍が首里城への侵攻の際、激戦地となり、血で染まったことで、血が湧く (アブチ) に由来し、経塚では安波茶川 (アバチガーラ、アブチガーラ) と呼ぶが、安波茶や沢岻では前川 (メーガー) という。

また、沖縄戦でも、この川には切り込み攻撃で米軍の狙撃に遭い命を落した兵隊が幾重にも折り重なり、死んでいたという。この経塚も沖縄戦で多くの住民を失っている。1944年 (昭和19年) 8月頃から日本軍兵士が経塚に駐屯し、多くの民家が兵士の宿舎や施設として使われて、家を追い出される住民もいたそうだ。この地域には四つもの慰安所が置かれていた。1945年 (昭和20年) 4月24日に嘉数高地が陥落し、浦添城のある前田高地が戦場となる。4月27日には前田高地が占領され、一時取り戻すが、5月6日には完全に占領され、日本軍は沢岻に撤退。経塚はその間にあり、5月10日には米軍が火炎放射器で焼き払いながら経塚は激戦区となったという。インターネットでこの経塚付近での沖縄戦を詳しく解説した記事が掲載されているので、抜粋したものを載せておく。(沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」

この戦争で経塚住民の56%が失われた。旧浦添村に中でも前田、安波茶に次いで戦死率が高い。4分の1の世帯は家族全員が亡くなっている。


安波茶橋

安波茶川には石橋が二つ架かっている。これは1597年に尚寧王の命で中頭方西海道の街道が改修された際に築造されたもので復元されている。

首里側から坂道を降ったところにある橋。少し丸みを帯びている。

浦添城に向かう橋。こちらは平な橋だ。橋を渡ると街道は登り坂になる。この坂を登ると字安波茶と字仲間地域になる。


赤皿井 (アカジャラガー)

安波茶橋の下には集落で拝まれている湧水の赤皿井 (アカジャラガー) がある。この井戸も住民に拝まれている拝井。王が首里から浦添、普天間に行く途中、この湧泉の水を赤い皿で飲んだことに由来している。戦前までは近くに民家の飲料水として使われていた。


鍋小堀 (ナービグムイ)、青小堀 (オーグムヤー) 

安波茶の石橋のすぐ下に鍋状の淵がある。鍋小堀 (ナービグムイ 写真上) と呼ばれて、その下は青小堀 (オーグムヤー 左下) があり、 水もきれいで多くの小中学生が水泳をしていたという。低学年は上流の浅瀬 (右下) が遊び場だったそうだ。1958年 (昭和33年) 頃から、近くの酒造所から汚水)が流れ込み子供はこの遊び場が失われてしまった。


浦添橋跡

安波茶橋に隣接した上流には浦添橋跡がある。 県道153号線普請の際に造営され、大正11年に完成した。沖縄戦で日本軍が退却の際に破壊し消滅してしまった。戦後は米軍が鉄橋を架けて使用していた。


経塚橋 (ちょうちかばし)

今日朝訪れた首里大名側に経塚橋跡があったが、この橋は暗渠となって橋は消滅している。小湾川 (安波茶川) に架かっていた浦添橋も暗渠となり消滅してしまったが、その後に米軍が架けた鉄橋を、平成17年の道路拡張工事の際に新しい橋を小湾川に完成させた。なを浦添市が公募し、以前に消滅した橋と同じ経塚橋 (ちょうちかばし) となった。橋は沖縄らしいデザインとなっている。

経塚橋の下を流れる小湾川沿いに遊歩道があったので、散策をした。道は長く経塚の高台に下をぐるりと周り前田まで続いていた。

遊歩道の途中で崖の斜面に吹雪花が咲き乱れていた。(写真上、左下) これ以外にも今日出会った花を載せておく。写真中下はポインセチアで特に珍しい花では無いのだが、沖縄では道端に咲いているのが見られる。都会で花屋で売っているのは殆どが赤なので、この色合いのポインセチアは初めてだ。ポインセチアの隣にはサルビア (右下) が咲いていた。


仲間崖 (ナカジョーバンタ)

遊歩道を歩き、安波茶橋まで戻り、今度は小湾川の北側にも行ってみた。浦添工業高等学校に向かう私道が小湾川沿いに通っている。道の西側は急峻な崖になっている。仲間崖 (ナカジョーバンタ) という崖で、崖の上は住宅街になっている。この小湾川は深い谷間を流れ、この付近はまだ原野が残っている。


龍巻井 (ルーマシガー) 

次は安波茶橋から国道153号線の南に移動する。ここには字前田から移管されたは南小島原 (フェーウジマバル)、西小島原 (イリウジマバル)、子ノ方原 (ニーヌファバル) の3つの小字がある。南小島原内には龍巻井 (ルーマシガー) と呼ばれる掘り込み形式に拝井がある。ドゥーマシガーとも呼ばれ、昔、この地に竜が降り、 水場を示したので井戸を掘ったと伝わっている。 葬列が通る時、井戸の水が赤く染まったとの言い伝えもある。


サーターヤー跡

龍巻井 (ルーマシガー) の後は経塚サンエーシティがある。この場所にはかつて砂糖屋 (サーターヤー) があった場所。経塚サンエーシティには多くの有名店が入っている。経塚の中心部にあたる。


ゆいレール経塚駅

字経塚の東の端、字前田との境にゆいレール経塚駅がある。ゆいレールは那覇空港駅から首里駅までの区間で2003年3月に開通し、2019年10月に首里駅からてだこ浦西駅まで延長開通となった。経塚駅はこの延長区間(4Km) の四駅の一つとなる。これにより、交通の便が大幅に向上し、経塚の発展が期待されているが、新型コロナの影響なのか、駅の周りはまだまだ開発途中の様に思える。


馬浴びせ小堀 (ンマアミックムイ)

龍巻井と馬の背毛 (ンマヌナガニーモー) の間に馬浴びせ小堀 (ンマアミックムイ) という池があったそうだ。場所ははっきりとはしないのだが龍巻井の近くに龍巻松の木公園がある。ここにあったのかもしれない。公園内にはこの地域一帯が龍巻 (ルーマシ) と呼ばれていた由来を説明した碑が置かれていた。


夫婦井 (ミートゥガー) [2022年3月4日 訪問]

字南小島原の北の字西小島原にも夫婦井 (ミートゥガー) と呼ばれるニービ岩の掘り込み井戸があると資料には載っていたが、写真を頼りに地図が示す場所を探すが見つからなかった。 この井戸は水田の中に2つの井戸が並んでいたので夫婦井と呼ばれ、ウマーチヌウガンの拝所井戸となっている。拝井なので消滅したとは思えないのだが。どこかにあるのだろう。

後日、インターネットでもう一度調べると、夫婦河として情報が見つかった。場所も記載されていた。手持ちの民俗地図の場所が間違っている様だ。3月4日に隣村の仲間集落訪問時に再訪した。この井泉は字前田の域内にあるのだが、経塚の一班 (北経塚原~西小島原付近) が御松の御願で拝んでいる。井戸の蓋に「夫」と「婦」の文字が記されている。確かに夫婦井だ。


呉屋の井 (ゴヤヌカー)

小字南小島原 (フェーウジマバル) の南、字前田と隣接して小字子ノ方原 (ニーヌファバル) がある。この小字にもニービとクチャの接合地の湧泉の呉屋の井 (ゴヤヌカー 子の方原) がある。この井戸も拝みの対象の拝井だ。 この井戸は枯渇したことがなく、経塚では最も良質だった。


普天間小 (フティマグァー)

小字子ノ方原 (ニーヌファバル) の東の端、字前田との境にある丘の上に普天間小 (フティマグァー) と呼ばれる拝所がある。普天間宮と関係があるそうだ。伝説の隠れ意。 ウマーチヌウガンの時の四の拝所にもなっている。

ここは元々、沢岻だった場所で、沢岻では次の様な話が伝わっている。(同じ話が首里桃原にもある普天間小に残っている。)


  • 昔、首里桃原に2人の娘のいる家があった。妹は普通の人と変わりはないが、姉の方は家族以外の人前に出ることはなく、いつも家の中で機を織って暮らしていた。やがて妹は嫁いで行った。ほどなく家に残った姉が絶世の美女だという噂が国中に広まり、妹の夫が一度でいいから姉を見たいと妹に頼んだ。いつものように姉が機を織っていると妹がわざと池に落ち、「助けて!」と姉を呼び、驚いた姉が家から出てくると妹の夫に顔を見られてしまった。 姉は家から末吉の山の方へ逃げ出し、それを家族が追いかけたが、やがて娘の姿は見えなくなった。逃げていく娘の姿が普天間小までは見えていた。娘が持っていた糸が続いており、糸をたどって行くと、やがて普天間宮の洞窟の中に入って行く。洞窟の奥に入っていくと石の中に神の姿になった娘が見つかったという。

現在、 普天間小には鳥居が作られ、せり出した岩の下の洞窟に祠がある。経塚では戦争中にはここで武運長久を祈り、また四班 (沢岻から移管された地域) では毎年、旧暦の10月に ウマーチウガン 行われる。御松の御願では無病息災、地域の発展を願って拝まれている。

この普天間小 (フティマグァー) は丘の中腹に位置している。この丘を登ると前田に入るのだが、上まで登ってみた。上からは浦添城の丘陵が一望できる。丘陵の端の為朝岩が見える。以前為朝岩は訪れたにだが、下からはこのように見えていたのだ。

別方向には太平洋に面した知念、その向こう海の中には久高島まで見える。浦添から久高島が見えるとは思ってみなかった。


これで経塚訪問は終了。経塚は屋取集落と聞いていたので、あまり見所はないかと思っていたが、首里城、浦添城に近い事や、経塚自治会で文化財の保存に対して前向きという事なのか、期待以上に楽しめた。首里、識名経由で帰路に着いた。


参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • 字経塚史 (2006  浦添市経塚自治会)