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超人ザオタル(55)理解の階梯

2022.02.16 03:22

私とは誰なのか。

それは存在であり、個人を超えた巨大な意識体のことだ。

このことを個人的エゴは素直に飲み込むことができない。

なにしろ、いままで自分とは小さな核だと理解してきたのだ。


自分がそれほどまでに巨大な存在だとは想像だにしていなかった。

そのため個人的エゴはこの結論に対して懐疑的になるだろう。

だが、調べれば調べるほど、その証しか出てこない。

そこでその真実をぼやかして、適当に理解できるところまでを信じようとする。


それが一番安全であり、偽りを信じているわけでもないのだ。

開けてはいけない扉には厳重に鍵をかけて秘密にしておかなければならない。

それが自分を守るための最良の方法なのだ。

だが、個人的エゴは真実を求め続けてもいる。


いつまでもその真実をうやむやにしたままではいられない。

その個人的エゴの探求は止まることなく続けられている。

いずれは自分で閉めた扉を自分で開放しなければならない。

だが、開けるのであれば、それはそれで覚悟が必要になる。


自分とは個人ではないだけでなく、

あの信じがたい普遍的な存在だという事実を受け入れるための覚悟だ。

それがなければ、結局この扉は何度も開けたり閉められたりすることになるだろう。

真実への道というものは、そうして歩んでいくものなのだ。

そこを歩きながら個人的エゴはいつかその真実を受け入れるしかない。


その真実とは、結局のところ自分は普遍的な存在だということだ。

この言葉はとても思考的だが、個人的エゴにとっては真に重要な言葉になる。

その言葉が個人的エゴの古い概念を破壊して、理解をその先へとすすめていく。

存在とは小さな核であり、同時に無限の領域そのもの。


その矛盾に満ちた存在が、個人的エゴの求めていたあの答えなのだ。

それを如実に知ったなら、もうどんな言葉も超えてしまっている。

それを他の誰かに認めてもらう必要さえない。

自分で何度も確かめて、間違いないと認めたものなのだ。


言葉はその理解に到達するまでに必要な手段だった。

それは個人的エゴにとって、真実に身を委ねる覚悟となり得た。

気をつけるべきことは、言葉を捨てるタイミングというものがあることだ。

もちろん、そのタイミングとは存在と自分が完全に同化したときだ。


もしそこで言葉を捨てなければ、

個人的エゴがそれを新たな概念の収集品にしてしまうだろう。

概念にするということは、また真実を扉の中に閉じ込めるにも等しい。

ただ、言葉で理解することを完全にやめたとき、そこから言葉が生まれもするのだ。

それは真実から生まれる言葉であり、個人的エゴから生まれたそれとは違っている。