北辰一刀流について
北辰とは
北辰とは北極星のことです。
北辰との命名は、流祖千葉周作先生が少年時に住んでいた「斗瑩稲荷神社」(宮城県大崎市古川荒谷)境内で修行した「北辰夢想流剣術」に因っています。
「斗瑩」とは、北極星のことです。
一刀流の名は、青年時に江戸で修行した「一刀流中西派」から取っています。
北極星が、天の中心にあって不動のことから、剣術の中心、不動の強さなどの意味合いを含め「北辰一刀流」と名付けたのです。
道場は、神田お玉が池にあり「玄武館」と命名されていました。
玄武とは、北を護る神獣で蛇が亀に絡んだ形で表現されます。蛇は繁栄の象徴、亀は武の象徴と言われます。
北辰夢想流の伝書が下記の写真です。
北辰一刀流の名誉
北辰一刀流には、剣術史上の最大流派という名誉があります。
それは、それまであった剣術の、どの流派よりも優れていることの証明です。
人数については、現代ではオーバーに言われていますが、浅草寺に掲げた門弟額には3千数百人の名前があったそうです。
周作先生は、天稟の素質と明晰な頭脳を持った天才でした。
周作先生の説く、理論的な解説と、鍛錬を主体とした合理的な稽古法、免許を省略した負担の少ない授業法で、誰でも簡単に学べて、どこよりも上達が早かったのでした。
その説明は、全て物理学的であり、言葉は平易なものでした。
当時はすでに、形稽古は廃れ、竹刀稽古全盛でしたが、周作先生は、形稽古と竹刀稽古を、鳥の両翼のように、無くてはならないものと教え、合わせて学ぶことを強調しました。
型の理論が極意につながることを知っていたからでした。
それは、中西道場修行時代に寺田五郎衛門先生に師事していたからでした。
寺田先生は、竹刀稽古は一切やりませんでしたが、中西道場の竹刀派の門人たちが、どれだけ挑んでも、まったく寄せ付けあいほどの強さがありました。
それを、周作先生は実際に見て学んだのでした。
周作先生は「技の千葉」と言われていますが、技というものの構成要素を、形稽古から的確につかんでいたために、竹刀の技が自由に使えたのだといいます。
周作先生の、往年の強さは抜群で、史上第一の剣客といわれている直心影流男谷信友先生をして「あれほどになるまでには相当苦労している」と言わしめました。
二男の栄次郎も抜群の腕前で、二人は、剣客商売の秋山古兵衛・大二郎のモデルとも言われています。
日本一の流派
さて、北辰一刀流は、日本一の剣術流派ともいわれていますが、それは次の様な理由からです。
1、江戸の3大道場の第一であった。剣術史上、最大の門弟数を誇った。
2、幕末の2大流派だった。
幕末に実際に戦った剣士が多いのは、北辰一刀流と天然理心流でした。
つまり、実際に役に立つ流派だったということです。
3,明治以後の剣道は北辰一刀流が引率した。
北辰一刀流・下江秀太郎先生が、明治初期の警視庁剣術の師範となり、
その後、北辰一刀流・内藤高治先生が、大日本武徳会の主任教授、同・門奈正先生が
副主任となって、明治から戦前までの日本剣道界を率いてきた。
以上の3要素などから、北辰一刀流は、日本第一の剣術流派と言われています。
何故1,2,3の事実ができたかと言うと・・・。
1、について
合理的であったこと。
打ち合いの試合剣道ではなく、掛かり稽古と言う鍛錬主体の稽古法だったので、体力や精
神力を、他の道場より早く身に着けることができた。
2、について
天然理心流との共通点は、どちらも鍛錬主体の稽古法だった。
これは他流派には乏しく、実戦に通用する剣道の元となっていた。
3、について
合理的な稽古法だったので、他の流派より維新後の国民に理解されやすかった。