復活した北辰一刀流
北辰一刀流 宗家襲名の経緯
宗家を預かる私が言うのも変ですが、周作先生の血筋は断絶しましたので、他にある北辰一刀流の宗家は、すべて後来の作りものです。
ところが、「北辰一刀流」の看板だけは、周作先生と中西家の同門であり、お玉が池玄武館で、北辰一刀流の免許の祐筆をしていて、北辰一刀流玄武館の最後を取り纏めた千葉英之介家が代々預かっていました。
その千葉家が、北辰一刀流の技を、正統な師範系で受け継いでいる私に、宗家名跡を預けようとしました。私は、技術や内容は、確かに、師範から他の方の知らない奥まで伝授いただきましたが、宗家の血筋は受け継いでません。千葉家が望んでも、私が宗家と名乗ることは、釈然としませんでしたので、私は、その話を、ずっとお断りしてきました。
ところが、千葉家では、千葉家初祖千葉介まで遡り、千葉家と椎名家が兄弟だったということを突き止めました。そして、その因縁を以て、私を口説いてきました。どうしても後継者が必要なことは同感していたので、流儀のために、一時期という約束で、ここに宗家を預かることになったのです。
北辰一刀流 技の系譜
明治になって、技の伝系を保ったのは、師範家となっていた水戸東武館のみでした。他の道場は、閉鎖になったか、竹刀稽古のみとなり、鬼小手を使用した本格の正しい北辰一刀流の伝承されませんでした。
東武館では、北辰一刀流の技を千葉栄次郎先生から受け継いだ、初代館長小澤寅吉先生、一郎先生、そして、道場養子若林豊吉先生へと継承されました。
やがて一郎先生の娘が成長したので、婿(のちの小澤武)を娶り、4代目として道場を継がせるため、豊吉先生を、急きょ皇道義会師範として転出させました。豊吉先生と4代目の間には、時間的に技の伝承は不可能で、本流は東京へ移り、水戸は北辰一刀流の傍系となったのです。その水戸東武館も、4代目のあと、北辰一刀流は無くなりました。近年、ビデオから復元し、宗家と名乗っています。日本古武道協会などは、それを認定していますが、一度、伝統が途絶えたものが、宗家であるはずはありません。
豊吉先生は、皇道義会東京東武館で北辰一刀流を指導し、内弟子となった谷島三郎先生に、すべてを伝えました。
皇道義会は、今の新宿御苑の裏門付近にあり、お玉が池玄武館同様、日本一の規模を誇る大道場でした。政財界の大物が後援し、大会はラジオや雑誌で報道され、皇道義会は日本一の人気を博しました。
北辰一刀流・第六第師範・谷島三郎先生
谷島先生は、茨城県茎崎町の生まれで、竜ケ崎中学を出て二松学舎で学びながら、皇道義会の塾生となりました。豊吉先生の打太刀を務めている形稽古の写真があり、谷島先生の技量のほどが認められます。
皇道義会は、空襲で焼けてしまったので、戦後は郷里へ戻り、牛久市で剣道を指導をし、北辰一刀流を伝えていました。
ある日の稽古後、谷島先生が私を自宅に呼びました。先生とお話ができるので、私はウキウキとした気持ちで伺いました。ところが・・・。
先生は、自分の使っていた剣道具を並べて「これは誰に、こっちは誰々に、形見分けとして持って行け」といいます。ウキウキが、愕然とした気持ちになったことは、言うまでもありません。
矢島先生は、死期を悟っていたのでした。そして、私に、今後のことを、色々と話してくださいました。私は、先生の志を抱えて、今も稽古に励んでいます。
北辰一刀流鬼小手