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子規俳句の「真価」

2022.02.16 13:52

http://www1.odn.ne.jp/~cas67510/haiku/shikihaikunoshinka.html 【子規俳句の「真価」】より

 子規が唱えた「写生」は、自然と向き合ううちに、いつしか自然と溶け合い、雑念のない澄んだこころが俳句をもたらすことの真理にほかならない。

 捨女の「雪の朝」の句はものに感じ、それを平易な言葉で表わせば「俳句」になることを証明している。言葉(手話)を知っていれば幼女でも誰でもが俳句をつくれ、ときに後生に残る名句さえ望めることを物語っている。むしろ、水原秋桜子のいう「高等な頭脳」の理屈や観念の遊戯と無縁な、「純で素直なこころ」が味わいの深い句をなす。

 菩提樹のもとで悟りを得た釈迦をはじめ、宗教者はほとんどすべて自然から「啓示」を得ているはずだ。自然から啓示を得ず、高等な頭脳とやらで開眼した宗教者がいたであろうか。秋桜子の言うように絵画彫刻、文献によって悟りを得た人間がいただろうか。秋桜子自身、「高等な頭脳」を有しているとの思い上がりから発する「軽薄なる頭脳」のタワゴトではないか。真の高等な頭脳を有していれば、

  寒鯉はしづかなるかな鰭を垂れ

  啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々

  ぜすきりしと踏まれ踏まれて失せたまへり

  滝落ちて群青世界とどろけり

  慈悲心鳥霧吹きのぼり声とほき

 こうした訳の分からない句は作らないはずだ。

 独りよがりの駄句凡句のどこに文学性があるのか。

 文学の片鱗すらもなく、俳句を冒涜しているとしか思えないこうした句を、今日なお名句秀句ともてはやす俳句界は堕ちるところまで堕ちているとしか思えない。 俳句界は堕落疲弊の極みにあるのではないか。

       事物の実相とらえる写生

 一度、名前を売って結社と言う一家を成せば、あとは駄句凡句を世に撒き散らしてもぬくぬくと生きてゆける俳句界ほどラクなものはない。能力がなくとも師匠の歓心を買い、処世術で巧みに世に出れば、あとは井戸端会議よろしく選句・選評を適当にやっていれば、エスカレーターに乗っているごとく徐々に「格」が上がってゆく。高浜虚子はその典型であろう。虚子の名高い門弟のほとんどすべても例外ではない。文学の片鱗でもあれば、高等な頭脳による「文芸上の真」を唱えるはずがない。まさしく愚かさの雛形のようなものだ。

 また、そうした俳句感覚に疑問を抱かず、唯々諾々とそれを胸にたたみ込み、そして愚にもつかぬ駄句凡句を名句秀句と信ずる「精神風土」は、文学とはまったく無縁な、お稽古事や宗教のようなものではないか。

 「鰯の頭も信心から」というが、鰯の頭をありがたがる「滑稽さが」が俳句の諧謔に通ずるならばまだ救いがあるが、それを滑稽とも諧謔とも思わず、真底、「俳句」だと信じているところに、笑うに笑えものがある。笑いが凍りつく遣り切れなさがある。芭蕉の句をもじっていえば、「おもしろうてやがて哀しき俳句界」。

 子規は「写生」を提唱した。

 なぜ、子規は写生を提唱したのか。

 写生こそ物事の実相を捉え得るからである。

 子規は、知識にもたれた表現はもとより、思わせぶりや技巧、曖昧な言い回しを嫌った。特定の知識を有する人々の間の「言葉あそび」に過ぎないからだ。月並俳句は宗匠の評価で句の出来不出来が決められた。知識にもたれた「ひねり」が利いているかどうか、そんなアホらしいことで一句の評価が左右された。

 子規は、いい句は誰が見てもいい句ではないか。思わせぶりや自己宣伝、技巧・衒いなどによりかからない「透明な句」が優れた句だと見た。

      独活の大木のごとき句を

 子規は、俳諧大要(明治28年10月22日~12月31日新聞「日本」に連載)で次のように言っている。

1、俳句をものせんと思ひ立ちしその瞬間に半句にても一句にても、ものし置くべし、初心の者はとかくに思ひつきたる趣向を十七文字にならねば十五文字、十六文字、十八文字、十九文字乃至二十二、三字一向に差支なし。またみやびたるしゃれたる言葉を知らずとて趣向棄つるも誤れり。雅語、俗語、漢語、仏語、何にても構はず無理に一首の韻文となし置くべし。

1、初めより切字、四季の題目、仮名遣等を質問する人あり。万事を知るは善けれど知りたりとて俳句を能くし得べきにあらず。文法知らぬ人が上手な歌を作りて人を驚かす事は世に例多し。俳句は殊に言語、文法、切字、仮名遣など一切なき者と心得て可なり。しかし知りたき人は漸次に知り置くべし。

1、月並風に学ぶ人は多く初めより巧者を求め、婉曲を主とす。宗匠また此方より導く故に終に小細工に落ちて活眼を開く時なし。初心の句は独活の大木の如きを貴ぶ。独活は庭木にもならずとて宗匠たちは無理にひねくりたる松を好むめり。尤も箱庭の中にて俳句をものせんとならばそれにても好し。しかり、宗匠の俳句は箱庭的なり。しかし俳句界はかかる窮屈なる者に非ず。

1、俳句の古調を擬する者あれば「古し」「焼直しなり」などとて宗匠輩は擯斥すめり。何ぞ知らん自己が新奇として喜ぶ所の者の尽く天保以後の焼直しに過ぎず。同じくこれを焼直しなりとも金と鉛とは自ずから価値に大差あり。初学者惑ふ莫れ。

1、俳句はただ己に面白からんやうにものにすべし。己に面白からずとも人に面白かれと思ふは宗匠門下の景物連の心がけなり。縮緬一匹、金時計一個を目あてにして作りたる者は、縮緬と金時計とを取り外したるあとにて見るべし。我ながら拙し卑しいと驚くほどの句なるべし。

1、解しがたき句をものするを以て高尚なりと思惟するが如きは俗人の僻見のみ。佶屈なる句は貴からず、平凡なる句はなかなかに貴し。

     自己のやさしさ思わせぶりを嫌う

 子規は、古句の批評により、俳句に対する「視点」を具体的に示している。

   朝顔に釣瓶取られてもらひ水   千代

 加賀の千代の有名な句だが、子規はこの句を「人口に膾炙する句なれど俗気多くして俳句といふべからず」と厳しく言い切っている。どうしてなのか。子規は、次のように説明をする。

 「朝顔の蔓が釣瓶に巻きつきてその蔓を切りちぎるに非れば釣瓶を取る能はず、それを朝顔に釣瓶取られたといひたるなり。釣瓶を取られたる故に余所へ行きて水をもらひたるといふ意なり。このもらひ水といふ趣向俗極まりて蛇足なり。朝顔に釣瓶を取られたとばかりにてかへって善し。それを取られてとは最も俗なり。ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とする」と。

 千代女(元禄16年~安永4年)は、加賀松任の人で、生前「千代尼句集」が出たほど評判が高く、なかでもこの朝顔の句は、芭蕉の「古池」と並ぶほどひろく知られ、俳句の代表的な句と親しまれていた。句意は句の通り、井戸の釣瓶に朝顔がからみ咲いていたので、隣から貰い水したというもの。朝顔へのやさしい心づかいが出ていて、平明で分かりやすいものの、「釣瓶取られて」と朝顔を擬人化し、朝顔へのやさしさを詠むことにより自身の心持ちを炙り出しているところを「趣向俗極まりて蛇足なり」と看破したものである。

     「お俳句」俳人に厳しい眼を

 己のやさしさや言い訳等なにか意図を含んで作る句に対し、子規は「俳句といふべからず」と言い切っている。俳句の意匠をもちいて安直な自己PR、やさしさの押し付けを嫌ったのであろう。千代の朝顔の句と比べ、今日の俳句界のありようはどうであろう。師匠や先輩同僚への畏敬・敬愛の句で溢れているではないか。自身の詠む場合においても、

   戒名は真砂女でよろし紫木蓮   鈴木真砂女

 「戒名は真砂女でよろし」とは何事か。単なる思い上がりの散文であり、理屈や説明にもならない言い散らしの言葉ではないか。なんの趣も味わいもなく、座五の紫木蓮を「蜆汁」「一輪草」「朧月」に替えても何の不都合もないではないか。この句の場合、自身のイメージを重ねているところに嫌みがある。紫木蓮の花は上に直立した恰好でひらく。向上心を持して真直ぐに生きてきた隠喩が俗に落ちて、俳句の形をなしていない。子規の言葉でいえば「俳句といふべからず」となる。

 この俗も俗なる真砂女氏の「紫木蓮」の句集が1999年の蛇笏賞となり、この紫木蓮の句を角川書店の「俳句」の合評鼎談を担当した一人、綾部仁喜氏は今年の秀句ベスト30にあげている。

 俳句の評価基準が子規の感覚から離れたとも言えるが、実際はそうではあるまい。こうした自己PRや意味不明、あるいは世間話の断片としか言いようのない駄句凡句が幅を利かせる俳句界の実情は、文学からそれだけ距離のある「証明」ではないか。

 いまこそ、月並俳句を排し、文学としての俳句をめざした子規の俳句観・俳句論に思いを深くし、お稽古事の「お俳句」から脱皮すべきではないか。

 結社の主宰の添削、選句に仔羊のように唯々諾々と従うのではなく、まず添削する際の座標軸をどこに据えているのか、添削する能力があるのかどうか。また選句・選評の能力等についても厳しく批判しなければならない。間違った指導や添削、選句によって、せっかくの文学的な才能が消え、そのかわり要領のいいだけの媚びへつらいの人物が評価されれば、子規の成した業績が、結果として悪用されていることになる。

 人の句に添削をしたがる人物に優れた俳人は、まずいないと思うべきだ。  

 選句や同人昇格に際し、結社等への寄付など財布の大きさを考慮に加える俳人は文学としての営みではなく営利行為と見るべきだ。

 門弟の独立を嫌う主宰や、門弟の句集発行に伴い金品を受け取る主宰・俳人の営みの意味するところをよく見定めることである。

 子規が生きていれば、今日の俳句界に、どのような声をあげるだろうか。

 今日の「お俳句」俳人の言動にまどわされないで、子規の著作や句集などから「子規俳句」の真髄に接し、文学としての俳句を深めていただきたい。子規の「俳諧大要」「俳人蕪村」「俳句問答」「俳句の初歩」「古池の句の弁」「仰臥漫録」などの著作に親しめば、おのずと俳句への目がひらけものと確信しています。

 まず、子規の著作を手にとってください。子規の真価は、かならずあなたのその手の中に息づくはずです。