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言語聴覚士を目指したきっかけは、祖父の失語症

2022.02.28 03:00

話すこと、聞くこと、食べることは、私たちが日々の生活を送るうえで欠かせない行為だが、病気や不慮の事故、発達上のなんらかの問題によってこれらの機能が損なわれることがあるという。

身体のなかでもとりわけ「話すことの不自由(言語障害)」と「食べることの不自由(接触嚥下障害)」を抱える方々に対して、回復のための支援に従事する人々を「言語聴覚士」と呼ぶ。

言語聴覚士は、脳の病気による失語症や聴覚障害、ことばの発達の遅れや発音に関する障害など、ことばによるコミュニケーションの不自由に寄り添い、安全で楽しく食事がとれるようにリハビリテーション(以後、リハビリと記す)を行う医療の専門職として1997年に国家資格に制定された制度である。

2006年より言語聴覚士として働く有江可奈子さんは、失語症を患っていたお祖父さんの存在によって、この職業への関心を深めたそうだ。

▲言語聴覚士 有江可奈子さん


「祖父は、脳卒中になってしまったことから失語症を患っていました。私の幼いときから症状が出ていたので、当時は『なんでおじいちゃんはしゃべれないんだろう?』と思っていたんですね。母親が従事していたこともあり将来は私も医療職に就こうと思っていたのですが、高校時代にようやく祖父が失語症だということを理解して。祖父のように発話に不自由を抱えた人が世の中にいて、そうした方々を支援するお仕事があると知ったことをきっかけに『言語聴覚士』の仕事に興味を持ち始めました」と、有江さんは語ってくれた。

失語症は、脳梗塞や脳内出血などの脳血管損傷や何らかの事故による脳外傷によって、ことばを司る脳の一部が損傷されたために起こる障害を言う。物心のついた頃にはすでに失語症を患っていた有江さんのお祖父さんは、思っていることをことばで発することはできないものの、認知機能はしっかりされていた。そのため、周囲からの問いかけに関しては「うん」や「あー」などの発語と身振り手振りを交えながら、当時はコミュニケーションをとっていたという。


食べることと話すことは深く繋がっている

身体機能のリハビリを行う職種として、言語聴覚士のほかに「理学療法士」や「作業療法士」と呼ばれる仕事があり、いずれも国家資格に定められている。理学療法士は歩く、食べる、座るなどの日常生活で基本となる身体機能のリハビリを行い、病気やケガで障害を抱えている人に対しての運動療法や物理療法、歩行訓練や筋力訓練などを施していく。作業療法士は、理学療法で回復した方を対象に社会復帰のための応用動作の回復を目的とするのが主な役割となり、身体機能のリハビリがメインの理学療法士に対して、作業療法士は心のリハビリもあわせて行うのだそう。

言語聴覚士は首から上の身体機能の障害に対してアプローチをするため、発話のみならず食べることの機能回復にも深く関わる。飲み込み(嚥下)と話すことが具体的にどのように関係するのかと伺ったところ、有江さんはこのように教えてくれた。

「話せないということは何かしら口腔内に障害があるため、話せないことと飲み込みができないというのは直接繋がってくるんです。お口に麻痺があると呂律が回らないだけでなく飲み込みの際にも同じ部分を使うので、嚥下障害の方も言語聴覚士のリハビリ対象となるのは自然な流れ。顔面だけでなく、舌の麻痺や喉の飲み込みの力が弱くなってしまった方に対してお口の体操をしたり弱くなった筋肉を一緒に動かしたりなどと、話すことは飲み込みのリハビリにも深く直結しているんです」

障害の程度によっては口内の筋肉を自分で動かせなかったり、ことばの指示が入りにくい人もいる。病気を持っているお子さんや経管で栄養を採っている方の場合は自分で口を動かすことが難しいため、他動的に筋肉を動かすマッサージや体操を行うこともあるのだそう。また、筋肉を動かす前段階として患者さんの口腔中の衛生状態を観察し、必要があれば歯科医や歯科衛生士と直接連携するなどの橋渡しも言語聴覚士の役目だという。

「口腔内が汚れた状態が続くと虫歯だけではなく嚥下障害のリスクが高くなってしまうので、定期的な口腔ケアも心がけています。高齢になるにつれ飲み込みの力が弱くなってむせやすくなったり、脳梗塞や脳出血で障害になってしまったり、嚥下障害の方に関わる機会は割と多いですね。食事の際にむせやすくなってきた人に対しては、普段のお食事内容を評価して、こういうものは避けましょうとか、水分を飲むときにむせやすい方には市販のとろみ調整剤を使っていただいたりしながら関わっています」


退院後、患者さんはどうしているかと気がかりだった

2019年より千葉県内の訪問看護リハビリステーションに勤務する有江さんだが、在宅医療に携わる以前は脳の専門病院やリハビリを専門とする総合病院など、10年以上に渡って複数の病院勤務を経験し、様々な患者さんのリハビリに携わってきた。

「時期にもよりますが病気になってすぐの急性期は、リハビリを通じて身体機能が一番回復しやすい段階にあたります。病院でのリハビリで症状がある程度落ち着いて自宅に帰れるというところまで回復する人もいれば、麻痺の状態によっては退院後も自宅での生活が困難なため、施設等を含めた次の居住先に移るまでの環境を整えるのことが主に病院でできることですね」

有江さん曰く、リハビリによる回復の程度は症状の重さや個人差が大きいと言う。また、入院中のリハビリだけで元通りの生活に戻るのは難しい現実もあり、多くの場合は退院後も通院や在宅医療を通じてリハビリを続けることにより、少しずつ症状を回復させていくのだそう。

病院勤務を長らく続けるにつれ、有江さんの心にはある思いが膨れていった。「病院の場合、退院後に関わりがなくなってしまう患者さんもいるので、退院以降にその方は『どうしているかな』と気がかりな部分ではありました」

急性期に病院でしかるべき治療やリハビリを行うことは病状の回復には欠かせない一方、それぞれの人にとっては入院先でリハビリを受ける期間より、退院後の人生のほうがずっと長い。有江さんが訪問看護に興味を持った、ある患者さんのエピソードを教えてくれた。

「当時、私が担当していた患者さんで症状の回復にまだ不安が残るものの退院日が近づいたため自宅に戻ることになった方がいて、退院後しばらくして『こんなに良くなりました』とご家族と病院まで顔を見せに来てくれました。退院するとリハビリのペースも少なくなるので心配していましたが、自宅に帰ったことでずいぶん生き生きと様子が良くなっていたんです。その方が自宅で回復してきた姿を見ることができてすごく嬉しかったですし、それは家の持つ力だと思いました」

住み慣れた環境のもと患者さんのペースに寄り添い、ご家族とも連携をとりながら、期限の決まりではなく長い目で発話や嚥下機能の回復を見守っていきたい。そうした想いを強く抱いた有江さんは、言語聴覚士として訪問看護施設で働くことを決めたのだそう。


住み慣れた自宅で、そのときに一番いい方法を

訪問看護ステーションは、一般的に管理者に看護師が就いて運営を行う決まりがある。現在の職場を選んだ理由について有江さんに伺うと、以前からの知り合いでもあり施設の管理者を勤める看護師さんから、「うちの事業所で働かないか」と声をかけてもらったことがきっかけだったと言う。スタッフ同士が相談しあえる環境で雰囲気も良く、利用者さんのことを一番に考えていて働きやすそうだと思ったことが決め手となった。

▲有江さんが勤務される訪問看護ステーション


訪問看護ステーションの多くは中小規模であり、まだまだ発展途上な業態でもあるため、現場での動き方や運営方針はそれぞれの事業所や関わる人によって特色が出るそうだ。訪問看護の可能性と難しさについて伺うと有江さんはこのように話してくれた。

「訪問看護の場合、保険や規定で決められた時間内で治療やリハビリなどすべての工程を行わないといけません。病院だと急変した際にパッと対処できることが、利用者さんの自宅だとすぐにはできなかったり物品が不足していたりと、設備面では病院に比べると不十分なところは多々あります」

その一方で、住み慣れた自宅で最大限何ができるかを考え、利用者さんにとってそのときに一番いい方法を選んで対応していくことに訪問看護の可能性はあると言う。

「サポートしてくださるご家族を含めてリハビリの方向性などを相談しつつ、利用者さん本人の希望にできるだけ寄り添いながら対応できるのが訪問看護の良さだと思います。例えば、病院だと食事制限のために好きなものも食べられずペースト食だったところから、在宅に移ったことで少量でも口から好きなものを食べられたり。病院ではできなかったことでも自宅だと取り入れられる場合もあるので、その方の希望を可能な範囲で一緒に叶えていけるのは嬉しいですね」

担当されている子どもさんが成長とともに機能を回復していく様子は頼もしく、高齢の方でも自宅で好きなことを続けながら目標をひとつずつ達成して前向きに過ごしている姿を見られること、利用者さんたちの細やかな変化を共有できることが仕事のやりがいに繋がっていると、有江さんは嬉しそうに語ってくれた。

▲担当される子どもさんのリハビリテーションを行う様子


訪問看護では、適用される公的保険制度(介護保険、または医療保険)の内容によって利用回数や月ごとの利用時間が制定される。有江さんは現在20名ほどの自宅療養の方を担当されており、40分のリハビリを週3回、あるいは1時間のリハビリを週2回など、利用者さんのペースに合わせて訪問先でリハビリを行っているそうだ。

リハビリテーション専門職の有資格者数(2018年度時点)を見ると、理学療法士は約16万人、作業療法士が約9万人に対して、言語聴覚士の有資格者は約3万人ほどとその割合は少ない。通常、訪問看護ステーションには理学療法士や作業療法士なども在籍しているそうで、身体機能に関して気になることがあれば他部門とも連携を取りながら、ステーションのスタッフが一丸となって利用者さんの回復を目指していくとのこと。

▲訪問時に使用する道具たち


お祖父さんの失語症をきっかけに言語聴覚士の道を志した有江可奈子さんだが、10年以上にわたる病院勤務の経験を経て、訪問看護に携わり3年が過ぎた。諸外国に例を見ないスピードで高齢化が進む現在の日本社会にとって、有江さんが実践されている住み慣れた自宅で、療養される人に寄り添った在宅看護のあり方から学べることはとても多いと感じた。