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那須疏水

2022.02.18 05:00

https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=23&r=108 【那須疏水】より

那須疏水(なすそすい)

那須疏水は、福島県(ふくしまけん)の安積疏水(あさかそすい)、京都府(きょうとふ)の琵琶湖疏水(びわこそすい)とともに、日本三大疏水の一つに数えられます。

那須疏水の歴史は、那須野が原(なすのがはら)開拓の歴史でもあります。

那須野が原(なすのがはら)はどのようなところか

那須野が原は、那珂川(なかがわ)、熊川(くまがわ)、蛇尾川(さびがわ)、箒川(ほうきがわ)などの河川によってつくられた扇状地(せんじょうち)と呼ばれる地形です。

この地域は、厚い砂れき層におおわれています。

そのため、熊川、蛇尾川は山側に近い扇頂部で地下に水がしみ込んでしまい、伏流河川(ふくりゅうかせん)〔水無川(みずなしがわ)〕となります。

砂れき層が薄くなる扇端部では、水は再び地表を流れるようになり、しみこんだ水が湧き出るため、逆に水が豊富となります。

那須疏水はどのような歴史を刻んできたか

那須野が原(なすのがはら)の開拓が急速に進むのは明治(めいじ)になってからのことです。

明治政府は、富国強兵(ふこくきょうへい)と殖産興業政策(しょくさんこうぎょうせいさく)を進め、北海道(ほっかいどう)や那須野が原で大規模(だいきぼ)な開拓を始めました。

しかし、開拓を進めていく中で最大の障害は、水の問題でした。

【那須疏水関係年表】

明治(めいじ)9年

(1876年) 印南丈作(いんなみじょうさく)、矢板武(やいたたけし)が水路をつくる決意をします。

明治12年

(1879年) 印南丈作、矢板武が烏が森(からすがもり)で伊藤博文(いとうひろぶみ)、松方正義(まつかたまさよし)に水路を開くお願いをします。

明治13年

(1880年) 三島通庸(みしまみちつね)が肇耕社(ちょうこうしゃ)(三島農場)をつくります。

印南丈作・矢板武が那須開墾社(なすかいこんしゃ)をつくります。

明治15年

(1882年) 飲み水用水路が完成します。

明治18年

(1885年) 那須疏水の本幹(ほんかん)水路(約16.3キロ)が完成します。

明治19年

(1886年) 那須疏水の4本の分水路ができます。

明治38年

(1905年) 那須疏水の取り入れ口を上流につくりかえます。

大正(たいしょう)4年

(1915年) 那須疏水の取り入れ口を下流につくりかえます。

昭和(しょうわ)4年

(1929年) 那須疏水の取り入れ口に屋根をつけ、開け閉めできる水門に改修します。

昭和43年

(1968年) 国営那須野が原総合開発(こくえいなすのがはらそうごうかいはつ)がはじまります。

昭和48年

(1973年) 深山ダムができます。

昭和51年

(1976年) 那須疏水の新しい取り入れ口〔西岩崎頭首工(にしいわざきとうしゅこう)〕ができます。

昭和55年

(1980年) 赤田調整池ができます。

平成(へいせい)4年

(1992年) 戸田調整池ができます。

那須野が原開拓に関わった人々

印南 丈作(1831年~1888年)

日光市(にっこうし)に生まれ、那須野が原の開拓において、日本三大疏水(にほんさんだいそすい)の一つに数えられる那須疏水をつくりました。

また、那須開墾社という農場をつくり、初代の社長となりました。

矢板 武(1849年~1922年)

矢板市(やいたし)に生まれ印南丈作とともに那須疏水をつくり、那須開墾社の2代目社長となりました。

県会議員にもなり、那須野が原だけでなく栃木県(とちぎけん)のためにも尽くしました。

那須疏水

那須疏水はどのようにしてつくられたか

那須野が原の開拓を支えた那須疏水ですが、この疏水には、苦闘の歴史が秘められています。

今は分水にふたがかけられ、その流れを見ることはあまりできませんが、この疏水の流れは大運河建設の夢につながっています。

那須疏水は農業用水として引かれる前に、大運河構想がありました。

那珂川(なかがわ)の水を箒川(ほうきがわ)を通り、鬼怒川(きぬがわ)につなぐ構想で、印南丈作(いんなみじょうさく)・矢板武(やいたたけし)が推進役として力を尽くしました。

しかし、すでに運河の時代ではなく、近代化の代表である鉄道・国道が幅をきかす時代となっていました。

飲用水路づくりの後を受けて、那須疏水は明治(めいじ)18年(1885年)4月15日、烏が森(からすがもり)で起工式が行われました。

5か月後の9月15日、那須疏水の堀に水が流れました。

5か月という工事期間は、モッコとクワしかない当時にとっては、驚異的なスピードでした。

そこには、移住者たちの水へのこだわりがありました。

また、多くの囚人達が疏水工事に働かされたことも、忘れてはなりません。

そして、分水は翌年、第一分水から第四分水まで完成します。

しかし、その水利権は各農場のもので、移住民・農民の手に移るまでには長い年月を必要としました。

(那須疏水の取入口)

昭和4年改築の取入口

昭和4年改築の取入口

昭和51年に改修された頭首工

昭和51年に改修された頭首工

那須疏水の取入口は、3回改築されています。

明治18年(1885年)に通水したときの最初の取入口は、水門が取入口の出口のところにあったために、まともに土砂が取入口の中に入り、使えなくなったことがたびたびありました。

そのため、明治38年(1905年)に、位置を変えてつくられました。

しかし、その取入口も川床の変化などで使えなくなり、大正(たいしょう)4年(1915年)、最初の取入口の下流につくり、取水がとても良好となりました。

この取入口の水門開閉設備は、洪水の場合破損することが多かったので、水門入口につくり替えました。

これが、取入口としてよく知られている昭和(しょうわ)4年(1929年)の取入口です。

いかに取入口の維持が大変だったかが分かります。

現在は、昭和43年(1968年)より始まった国営那須野が原総合開発事業の一つである改修工事によって、昭和51年(1976年)、近代的な西岩崎頭首工(にしいわざきとうしゅこう)に生まれ変わりました。

この頭首工付近には、1回目と3回目に改築された旧取入口や導水路(どうすいろ)の跡などが、保存され改修されました。

明治18年(1885年)以来、多くの人々の苦労とともに、那須野が原を潤わせ続けた那須疏水の歴史の重みを知ることができます。


https://suido-ishizue.jp/kindai/nasu/06.html 【日本三大疏水のひとつ 那須疏水の完成 - 水土の礎】より

いよいよ、有史以来一度も鍬が入ったことのない土地に、開拓の狼煙が上がることになりました。しかし、水がないことに変わりはありません。土壌や気候条件も過酷でした。地表をおおう火山灰、夏期の雷、日照時間も少なく、冬は北西の激しい季節風に見舞われます。乾ききった土地にまいた種は、土ごとに吹き飛ばされ、もともと薄い表土層は、ますます薄くなっていきます。それに水がなくては、開拓者の生活も家畜の世話もままなりません。

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 とりあえず、運河の開削よりも飲用水路の開削の方が先決だということで、三島、印南、矢板らは、飲用水路として小規模な水路開削の計画を政府に願い出ましたが、県の直轄工事として明治14年10月の着工。途中、資金不足などで中断の後、翌15年の11月には約15kmが完成しました。政府の認可が下りなかった背景には、大蔵卿・松方正義による有名な「松方デフレ」(緊縮財政)があげられます。

 その後も、この水路は破損を繰り返し、毎年改修を余儀なくさせられました。関係者らの悲願は、なんと言っても灌漑用水路の開削です。

 印南、矢板らの猛攻とも言うべき嘆願活動が始まります。上京すること6回。滞在期間は延べ238日。ありとあらゆる上級官職に面会し、辛抱強く説得を続けます。太政官では、重要案件は11名の参議によって合議されますが、賛同しない参議の家に毎朝訪れ、7日目に賛同を得たなどという話も残っています。

ついに明治17年7月6日、国費開削を前提とした試削工事の許可が下ります。

 そして、試削工事がほぼ完了した同18年4月、灌漑用の那須野原疏水工事が国の直轄工事として実施されることが決定したのです。

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■南一郎平

この工事には、安積疏水を担当した南一郎平、同じく実際の開削工事を請け負った大分県の石工集団150人が乗り込んでいます(大分の石工技術に関しては、当サイトの「水土の巧」を参照)。

 こうした優秀な技術者集団の尽力もあって、工事は着工式の明治18年4月15日から、ちょうど5ヵ月後、延長16.3kmの幹線水路が完成、同年9月15日に通水式を迎えるという驚異的なスピードで完了しました。

幹線水路から各農場へ配水する分水路も官費で行われることとなり、同19年、第一分水から第四分水が完成、その後、縦堀、西堀の追加工事もあって、分水路の総延長は96kmに達しました。

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■那須疏水の採取の取入口(西那須野町郷土資料館提供)

 こうして、日本三大疏水のひとつに数えられる那須野ヶ原疏水は、5年に及ぶ地元の壮烈な請願運動と、わずか5ヶ月という短期間の工事で完成を見ることになりました。

その後もこの那須疏水は、発電などに利用されたり、黒磯駅では蒸気機関車の給水源になるなど、地域の発展に計り知れない恩恵をもたらしました。

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■那須疏水本幹水路