漱石、子規、虚子、碧梧桐
https://mnemosyneoforion.blog.ss-blog.jp/2021-09-23【漱石、子規、虚子、碧梧桐】より
この頃読んでいるのは、江藤淳著の『漱石とその時代』第一部で、驚いてしまうのは、そこに出てくる、まだ無名時代の漱石が関係した人物たちの多士済々ぶりだ。
もちろんある程度のことは知っていたけれど、関係性の濃密ぶりに誰もがきっと目を見張るだろう。
筆頭は正岡(常規)子規。
この明治期短歌俳句改革の旗手が漱石と交友があったことは多くの人が知っているだろうけれど、「親友」としか言いようがないほどの手紙や葉書でのやりとりの頻繁さと内容の濃さには驚きを禁じ得ない。
22歳、互いの第一高等中学校(一高)時代で、どう仲良くなったかは定かでないらしい。
ひとつの説に、二人とも落語が好きで、その縁かもしれないというのがあって、それはすばらしいなと落語好きの私なぞは思うのだ。
子規は松山藩士・常尚と妻・八重の長男で、弟子ということになる河東碧梧桐と高浜虚子も松山藩士の息子であって、いわば伊予国(愛媛県)のエリートたち、秋山兄弟をむろん筆頭に『坂の上の雲』での青春群像に登場する人々だ。
漱石は名主階級とはいえ町人、この辺り、子規となにかしらの<行き違い>がないかと常々思っていたが、やはりそういう件があって私としては少し興奮した。
漱石の、子規が思わず吹かす<士族意識>への反発は、漱石自身の町人コンプレックスの裏返しでもあったろうと私は思った。
まだまだ江戸時代が終わったばかりの頃のこと、なおさらだ。
漱石が福山藩士出で貴族院書記官長の地位にあった中根重一の娘・鏡子と結婚したのは、むろんいろいろな<行きがかり>があったのは当然として、それなりの地位にある官僚の岳父を得ることが、町人上がりの学士(当時学士と云えばすなわち東京帝国大学を出ているということだった)にとっては鼻が高いことだったに違いないと思うのだ。
後に漱石には、帝大教授への道も、文学博士への推挙も、どちらも拒んだ。
まるで森鴎外が栄誉や称号を一切拒み、「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」としたかのようなメンタリティーが育ったけれども(鴎外は漱石の5歳年長だが、亡くなったのは漱石より6年後)、若い頃(30歳だった)には、まだ自分が松山中学や熊本の五高教授で終わりたくないと思っていた漱石にとって、矢来に家があり、さらに虎ノ門の立派な官舎に住む岳父との縁をありがたく思わぬはずはないと私は観ている。
だからどうした、だけれど。
虚子が子規の頼みを聞き入れず、子規の「歌の道」の後継者となるのを拒んだことや、子規が碧梧桐を見限っていたことなど、興味は尽きない。
てなわけでした。
コメント 2
stma320
こんにちは。
記事とは関係ない内容になりますが、すみません。
私は統合失調症を患っているので、夏目漱石が統合失調症だった事に興味があります。
MNEMO様が、夏目漱石の統合失調症の事で知っている事がありましたら、教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。
mnemo
おはようございます、stma320さん。
漱石の「頭が悪い(by妻・鏡子)」ときの描写については、彼女が口述した『漱石の思ひ出』を読まれるといいと思います。漱石の無体な乱暴狼藉の第一の被害者は鏡子、そして子どもたちでした。ただの癇癪もちということでは済まないありさまだったようですが、むろん私のような者が病名を特定することは不可能ですし、当時の精神医学でも、たとえ病名特定しても現代の診断ではどうなのか、今やだれも知る由もないですね。
漱石の不幸な生い立ちはよく知られており、望まれず生まれた子として心を折々傷つけられたことは想像に難くなく、そういうときにはきっと、思春期やそれ以降、漢籍の勉強に勤しみ、特に漢詩の世界に逃避したのではないかと思います。そうでなければ、一高で子規と漢語満載の手紙をやりとりすることはできなかったはずですから。
彼の<探偵嫌い>はよく知られており、誰かが自分をつけている、監視しているという強迫観念があったことははっきりしています。帝大を出て、日本で当時指で数えるほどの英文学士になったのに、松山の、しかも中学教師になるため(せめて高校教師でなく)東京を去ったのも、<探偵>ばかりの東京が疎ましくなったからだというのも通説でしょう。
興味深いのは、鏡子によれば、「頭が悪」くなるのと胃を壊すのが交互であったことです。言い方を変えれば、胃が悪くなると、精神の病は後退するというのです。
どういうメカニズムかよく分かりませんが、彼と7人もの子を生した最も近い人間の観察ですから、確かでしょう。
漱石山房に「木曜会」で集った弟子筋の俊英たちなどにはずっと親切親身だった彼が、家族にはon-offはあっても過酷無比なほどつらく当たっていた二面性は、どういう精神医学上の説明や特定ができるのか私には皆目わかりません。
なにしろ彼の小説には彼の「頭の悪」くなったときの思考過程や、そのときの<頭の中>がどのようであったかが窺い知れる描写が処々にあります。
私としては『行人』に最もそれが表れているように思いますが、もちろん異論もあるでしょう。
よろしければお読みになってください。
https://www.library.pref.nara.jp/publications/untei/untei71/untei71_P7.html 【高浜虚子と奈良】 より
今年は当館が開館九十周年ということで、開館当時に奈良と関わりがあった高浜虚子にスポットを当ててみた。
俳句の高浜虚子と言えば、全国にその名をとどめているが、当館が開館した当時は小説家虚子が誕生していた頃である。
彼は明治七年に愛媛県の松山市で生まれている。本名を清という。
河東碧梧桐とは、私立伊予尋常中学校で出会い、同人誌への協力を彼に求めたのが明治二十二年のことだった。その後、将来の師である正岡子規とは、碧梧桐を介して句作の指導を乞うようになった。この頃は「放子」と雅号をしていたが、子規に雅号の命名を依頼し、「虚子」と命名された。その命名の仕方が清という字と虚と言う字は殆ど同義であること、「きよし」を詰めていえば「きょし」となるということだったそうである。文字上の洒落であったらしい。
明治二十八年十二月に虚子は子規の後継者になることを拒否した。その頃の虚子は小説家への道を目指していた。実は子規も小説家を目指していたが断念しているという事実もある。ただし、彼らは始めから小説家になることを目指したのではなく、元々は、「写生文」にみがきをかけることが主であった。
明治三十三年六月に『ホトトギス』に、小説と銘打って、「丸の内」を発表している。その後、結局虚子は、『ホトトギス』を継承したが、俳句誌というより文芸誌として発展させようとして、明治三十八年には、漱石の「我が輩は猫である」を掲載したのを始めとして、寺田寅彦、碧梧桐、伊藤左千夫らが小説を発表した。その事で虚子はますます小説に傾いていった。
その後、虚子が本格的に小説に身を傾けていくことになったきっかけとしては、明治四十一年秋から明治四十三年秋にかけて、吉野左衛門の勧めで一時国民新聞社へ入ったのがきっかけである。
虚子は自伝の中で次のように回想している。「突然私に国民新聞の社会部長にならんか、といった(略)私は色々と考えた末、社会部の仕事は僕には出来ないが、文学に関する仕事ならば(略)」ということで、国民新聞に文学欄を新設してもらったという。
なぜ、虚子が奈良を舞台に小説を書いたのかというと、明治三十八年四月に京都奈良を訪れ、その時に法隆寺界隈の風景が残っていたからのようである。
明治四十一年一月に出版された初の短編小説集『鶏頭』に「斑鳩物語」がある。
「斑鳩物語」は、法隆寺夢殿前の旅館大黒屋が舞台となっている。「余」という登場人物の視点から見た旅館の手伝いのお道と若い僧の了然との恋が菜の花の咲く春の斑鳩を舞台にして綴られている。
明治四十二年十二月出版した小説集『凡人』に「興福寺の写真」を掲載している。
「興福寺の写真」は、父親が娘に興福寺の写真を持っていないのかと聞かれて、かつて自分は、大和路に屍を埋めたいと思っていたことを思い出し、成長した子どもと歩く姿を想像して「名状し難い一種の満足と哀愁を覚える。」と記しており、虚子自身の複雑な心を表現しているのではないだろうか。
明治四十五年に虚子は、休止していた『ホトトギス』の雑詠選を復活し、翌年、俳句界へ復帰した。
虚子は、昭和十八年三月二十二日に阿波野青畝の案内で長谷寺を訪れた。青畝は、虚子が奈良を訪れたときは、いつも案内役を務めたという。この時に虚子が詠んだ句の中に「花の寺末寺一念三千寺」、「はな咲かば堂塔埋もれつくすべし」というのがある。
後に虚子は俳句に花鳥諷詠詩と名づけたが、現在では、虚子の俳句の形を花鳥諷詠論としており、彼が俳句界に及ぼした影響は計り知れない。
奈良に関する句は、『五百句』などにも掲載されている。
<参考・引用文献>
浦西和彦編『奈良近代文学事典』 (和泉書院 1989)
高濱虚子『定本高濱虚子全集』 (毎日新聞社 1973~1975)
清崎敏郎『高浜虚子』(俳句シリーズ人と作品5)(桜楓社 1971)
田中昭三編『俳人の大和路』(Shotor Travel)(小学館 1999)