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Okinawa 沖縄 #2 Day 166 (19/02/22) 旧真和志村 (12) Aja Hamlet 安謝集落

2022.02.20 09:45

旧真和志村 安謝集落 (あじゃ)


先日は浦添市の内間集落を訪れた。内間集落も安謝と呼ばれた時代があったそうで、一説には今日訪れる那覇市の旧真和志間切の安謝集落と最初は一つの村との説があった。それで、興味を持ち、今日は浦添市の集落の続きでは無く、旧真和志間切の安謝集落を訪れることにした。安謝集落だけで無く、安謝集落から分離独立した銘苅集落も訪れた。安謝では幾つか見つけられなかった文化財があるので、再度調べ直し再訪する予定。訪問2日間になるので、訪問後に、ここでは安謝集落のレポートにとどめ、再訪日した日のレポートを銘苅集落とする。



旧真和志村 安謝集落 (あじゃ)

安謝の名は、昔この地に按司が住んでおり、安謝橋近くの港を按司港と呼んでおり、「あじ」が訛り、「あじゃ」となったと伝えられている。

安謝集落の起源については不詳だが、12世紀~15世紀初頭の間のグスク時代と考えられている。研究者は「内間金満付近にあった多和田 (ターダ) マキョ、シグルクコダの居住者は農耕生活をおくっており、これが、内間、銘苅、安謝の起源」と推測している。

琉球千草之巻には「世立初 真和志大君の御子内間大主也所在根所、地組始 金満按司の御子真和志按司所在」とあり、琉球祖先宝鑑では、「百名大君 居所は玉城村仲村渠免登武と云う家也 此の大君は父を相続す 其人の長男百名世主二男真和志大神居所は同安謝村根屋比嘉と云う 其後は同多和田村嘉手納子が三男之を相続す。」とある。安謝集落を訪問した際の印象では内間集落とは安謝川で分断されているので、内間集落と安謝集落が同一の村とは考えにくい。研究者の説の様に、安謝と内間が創建される前は、同じ地域に住み、そこから、他地域に移り。内間集落から金満按司の息子か、免登武 (ミントン) の息子がここに移り住み安謝村をつくったのだろう。安謝誌では前者と後者のコンビネーションの説が記載されていた。根屋となった多和田 (ターダ) の比嘉家が村を起こし、それを多和田 (ターダ) 村の嘉手納が後を継ぎ村立てを完成させたとしている。多和田は安謝集落ができる前に住んでいた地域にあたる。昔、琉球王統時代には前安謝と呼ばれ、銘苅のシグルクガーからウサチユガー付近までが旧集落だったと思われる。(安謝集落訪問ログに集落の変遷をプロットした)

その後、宗家、根屋とされる比嘉 (多和田) と比嘉 (嘉手納 安謝から天久に移り安謝に戻る。中佐敷屋敷に入る)、知念 (前門、最大門中、大城按司 [真武?] の子孫で浦添内間に居住、浦添内間から600年ほど前に王府の命により、この地に移住、 内間に按司墓がある。一時期は天久も治めていた。) が安謝村を共同で造ったともいわれる。この時期に多くの門中も内間や勝連から移ってきている。安謝に複数の御嶽があるのは、それぞれの門中が其の守護神としての御嶽を設けたと考えられる。東ヌ御嶽 (大御嶽)の前には中佐敷家、中ヌ御嶽の南側には伊波小家、御嶽小の近くには前門家の屋敷があり、それぞれがその当該御嶽と関係があるのだろう。

安謝は元々は西原間切に属していたが、1673年 (延宝元年) に真和志間切に移管され、1689年 (元禄2年) に廃村となった銘苅を吸収。明治以降は真和志村、真和志市管轄下を経て、戦後、1954年 (昭和29年) に真和志市が那覇市と合併し、那覇市真和志支所管内となったが、1979年 (昭和54年) には本庁管轄に移管されて現在に至る。

戦前までは、民家の分布は以前からあった安謝集落地域に限定されていたが、戦後その範囲は拡大している特に安謝港地区は、米軍に土地接収された安謝住民や那覇の住吉と垣花の住民が移住して、人口が激増している。字安謝はその地域の南半分は米軍牧港住宅地区となっていたが、返還され1992年から2002年にかけて住宅地が造成され、多くの住民が転入し、字安謝の全域はほとんどが住宅地域となっている。

安謝の人口データは調べ切れなかったのだが、分散的に見つけたデータからも変遷の様子は見て取れる。戦前は911人と旧真和志村の中でも多い方だった。戦後、安謝港に米軍も土地を強制接収された住吉、垣花などの住民が移住して急増、一時期は1万人程だった。本土復帰後、徐々に土地が返還されて帰還が始まる。安謝、銘苅地区の土地も返還され、住宅開発が行われ、そこに移る住民も多くなり人口は減少するが、住宅開発が完了した後は、転入住民が増え現在は8,700人程になっている。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: スグロクノ嶽 (神名: 中西タケツカサ、コダガマノ御イベ  消滅)、多和田巫火神 (神名: 多和田マキウ、ネゴンコダマノ火   消滅)

安謝集落で行われていた年中祭祀は以下の通り。この内、現在も行われている行事がどれかなのかは調べられなかった。


安謝集落訪問ログ


まずは、集落の中心にある公民館に向い、そこを起点に集落内にある文化財を巡る。


安謝公民館

安謝の村屋は何度となく移動している。戦前は、伊波商店敷地内に置かれていた。そこからから、現在の知念小屋敷に移り、更に内間商店敷地内に移転し、最後にはこの場所に落ち着いている。ここは東ヌ小堀 (アガリヌクムイ) と呼ばれる池があった場所で、そこが埋め立てられて、公民館が建てられている。


中ヌ井戸 (ナカヌカー)

公民館の裏には中ヌ井戸 (ナカヌカー) と呼ばれた井戸跡がある。安謝集落の人口が増え、住民の生活用水確保の為に造られたもので、中ヌ御嶽のグサイ井泉という。井戸があった時の名残りなのだろう、その一部を残して拝所になっている。井戸があった場所には給水パイプが、吸い上げポンプに通っているので、現在でも使われているようだ。


砂糖屋跡 (サーターヤー)

公民館の前の空き地は、戦前に砂糖屋 (サーターヤー) が置かれていた場所。当時、安謝集落には前組、西組、中組、東組がそれぞれ12戸で四つの組の共同出資で、この場所を4つに区分してサーターヤーを持っていた。その中心の境界線には馬車道が通っていた。写真にある空き地は4分の1にあたる東組のサーターヤーのようだ。


前道 (メーミチ)

公民館とサーターヤー跡の間を東西に走る道が前道 (メーミチ) だった。この北側の丘陵の高台との間がかつての安謝集落だった。前道の北側には三本の道が並行して通っている。そのうちのひとつが中道なのだが、資料にはどれかは書かれていない。安謝集落はこの4本の路地が通る地域で、その間に民家が集中していた。


西ヌ井戸 (イリヌカー、普久原)

公民館から前道 (メーミチ) を西に進み、集落内の西の普久原に西ヌ井戸 (イリヌカー) があった。拝所となっているが、戦後、集落のある人 (知念) が拝む事を主張し、それ以降に拝み出したそうだ。戦前までは、この辺りは「シマグヮー」と呼ばれて、東ヌ御嶽付近の元々の集落からこの地に集落が広がったという。当時は、ここには、まだ住民は少なかったのでこのように呼ばれていた。


西ヌ井戸 (イリヌカー、上江洲)

普久原の西ヌ井戸 (イリヌカー) から、前道を更に西に進むと集落の西端の上江洲にも、同じ名前の西ヌ井戸 (イリヌカー) がある。先程の西ヌ井戸 (イリヌカー) よりも、昔から拝まれていた井戸で、御嶽小 (ウタキグヮー) のグサイ井戸になる。井戸の横に井戸の神が祀られている。


獅子屋 (シーシヤー) 

次は、公民館から前道を東側に移動。東に1ブロックのところに獅子屋 (シーシヤー) の拝所があり、拝屋の前の石碑を拝んでいる。拝屋内部は二つに仕切られており、東に獅子加那志 (こちらはドアが閉まっていて中は見れなかった) と西に世の神が祀られている。西の方を格子戸から中を覗くと、世の神には五つの香炉が置かれている。向かって右から、玉城王を祀る玉城世 (タマグスクユー、居神 [イガン] の多和田が拝む)、玉城王の息子の大城按司を祀る大城世 (ウフグスクユー、根神 [ニガン]、大城中が拝む。玉城王の息子であればカヌシーのことだろう。)、大城按司の息子を祀る按司世 (アジユー、カヌシーの息子であれば汪英紫に滅ぼされた真武の事になる。)、大城按司以降の村の神を祀る村世 (ムラユー)、村に小 (子ヌファー)、中 (酉ヌファー)、前 (午ヌファー)、東 (卯ヌファー) の四箇所あった火の神を祀る火神 (ヒヌカン) とある。大城世、按司世、村世は三様世と呼ばれている。


村屋跡 (内間商店)

獅子屋 (シーシヤー) の前の前道の反対側には内間商店がある。この商店敷地内には現在の公民館に移る前に村屋が置かれていた場所でクラブと呼ばれていた。クラブと呼ばれているので、戦後間もない米軍の影響がはじまった頃の事だろう。


村屋跡 (伊波商店)

前道を更に1ブロック東に内間商店に村屋が置かれる前は知念小屋敷に村屋があったのだが、その前に村屋が置かれたのがこの場所で、以前は伊波商店があり、その敷地内に置かれていた。


東ヌ井戸 (アガリヌカー)

安謝集落には四つの村井戸があるが、この東ヌ井戸は 最初にできたもので、東ヌ御嶽のグサイ井戸とされる。井戸が二つあるのだが、東ヌ井戸は向かって右のもの。左の井戸は御先世ヌ井戸 (ウサチユーヌカー) を拝所としているもので、元々は現在の銘苅市営住宅内にあった。銘苅市営住宅建設に伴い、ここに移し、形式保存し拝まれている。ただ、銘苅市営住宅内にも祠が建てられている。


東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ)

東ヌ井戸付近では多和田から移住して集落が始まった地域と考えられる。安謝集落の御嶽の中で最初に造られた御嶽が東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ) で、大御嶽 (ウフウタキ) とも呼ばれる。この道路の右側に東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ) があったとされているが、空襲でに破壊を避けるため、御嶽小に移している。現在はここには御嶽跡はない。ただ、道路の向かい側の塀に香炉らしきものが置かれていた。東ヌ御嶽と何か関係があるのかもしれない。


根屋 (ニーヤ)

安謝村には複数の根屋がある。ここは屋号嘉手納 比嘉家の神屋 (ウカミヤー) 。多和田 比嘉家から、後を継いだとされている。向かって左端に部落火ヌ神があり、祭壇には右からウクヮンヌン、安謝腹 (タチクチヌールの婿家) へのお通し、根神 (嘉手納家先祖、タチクチヌール=元祖)、嘉手納家先祖が祀られている。安謝集落では、ここを根屋として拝んでいるそうだ。(安謝村の村立ては多和田 比嘉家とされているが、多和田 比嘉家の根屋については資料には記載されていない。)


新砂糖屋跡 (サーターヤー)

安謝集落の東端、かつての集落のすぐ外は安謝東原公園がある。場所ははっきりとはしないにだが、この辺りに新砂糖屋 (サーターヤー) があったそうだ。この辺りは東原でこの地域の人たちには、公民館側のサーターヤーまで遠く不便という事で、ここに新たにサーターヤーを作ったという。


龕屋 (ガンヤ)

安謝集落の民家が集まっていた地域の北側は高台になっており、そこは聖域だったのだろう、御嶽や墓があった地域になる。集落の西の端、丁度、西ヌ井戸の北側に龕屋 (ガンヤ) が残っている。隙間から中を除くと、龕 (ガン) の骨組みのようなものが置かれている。集落では8月11日にここを拝んでいる。龕屋の側には墓があった。


墓地群

龕屋の細い路地沿い、高台斜面には幾つもの門中墓がある。


御嶽小 (ウタキグヮー)

墓地群の高台の上に御嶽小 (ウタキグヮー) があり、戦時中に集落にあった御嶽など拝所を、この御嶽小 (ウタキグヮー) に集めている。沖縄戦が近づいた際に、破壊される事を恐れて、1944年に、東ヌ御嶽 (大御嶽)、中ヌ御嶽 (伊波小) をここの御嶽小に集め合祀し、戦事中に日本軍が使用していた前ヌ御嶽も、戦後1957年に合祀されている。現在の祠は2008年に改修されており、中には左側に三つの香炉と左側には四つの香炉が置かれている。四つの香炉は集落内にあった四つの御嶽の名が刻まれている。向かって左から御岳小、中御岳、前御岳、東御岳とある。(前御嶽については資料に記載がないので、元々集落の御嶽では無く、日本軍の神棚だったのかも知れない)


竜宮神

御嶽小 (ウタキグヮー) の前には広場があり、そこには竜宮神が祀られていた。大漁祈願、海で遭難し亡くなった人を祀っている。元々は、国道58号線の西にあったものを、1982年に、ここに移設している。


安守塔

広場の中には戦争で亡くなった安謝集落の人たちの慰霊碑がある。安守塔といい、昭和57年に建てられ、安謝を守るという意味で名前がつけられている。ここには209柱が慰霊されている。集落では毎年6月23日に慰霊祭が行われている。安謝村の戦後は昭和22年に村に帰還してから、復興が始まったが、集落の一部を含め安謝小学校の北まで米軍住宅地として接収されて、返還されたのは沖縄が本土復帰した後で、これでようやく本当の戦後が始まったとも言える。


墓地群

安守塔の北側は高台が北に落ち込む斜面があり、ここにも多くの墓が密集している。


中ヌ御嶽 (ナカヌウタキ)

東ヌ御嶽から約70mの場所にあったと書かれていた。この御嶽も御嶽小に合祀されているので、何も残っていない。大体この辺りにあったと思われる。現在は統一教会の沖縄本部となっている。


土帝君 (トゥーティークン)

丘陵に北斜面の下、国道82号線沿いにサントリー株式会社があり、その敷地内に土帝君が在るそうだ。ここには、戦前、寿屋というブタノール製造の軍需工場があり、米軍の爆撃標的となり、空爆が開始され、集落住民は、この近く崖上にあった東ヌ御嶽と中ヌ御嶽の破壊を恐れ、御嶽小境内に移している。寿屋は昭和20年3月の空爆で焼失している。戦後は復興計画で工務関係の資材置き場として安謝資材集積所を作られ、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに規格住宅用の製材工場を造り、200名以上の作業員が移住して以来、関係者が次々と移住して岡野地区を形成するようになった。その後に、1960年頃に、サントリーが工場を建てた。ここにある土帝君を観るために、サントリーの受付に行くと、親切にも、現場まで案内していただいた。工場建設時には幾つか不発弾が出てきたと言っていた。土帝君の拝所はただ石積みが残っているだけで、ここに拝みに来る人もいないと言っていた。

サントリーがある丘陵の上には岡野自治公民館がある。現在のサントリーがある場所にあった資材工場で働いていた人たちがつくった地区になる。沖縄の村は門中中心のコミュニティーであることから、祖先を同じにしない人達が同化する事は難しかった。それで、ここに移って来た人達は、独立した自治を行っていたのだろう。現在の沖縄は人口が激増した事で、集落の外に住む人達は、村の門中のしきたりには縛られないのだが、村の中に住み、村に溶け込むには2-3世代はかかるという。


多和田 (タータ) ヌン殿内 (銘苅祝女殿内) [未訪問]

多和田には多和田 (タータ) ヌン殿内 (銘苅祝女殿内) があったのだが、土地接収後、寄宮に移設されている。そこには二つ神屋があり、西側には千手観音、東世 (ウサチミントゥン)へのウトゥーシ、中山城へのウトゥーシ、今帰仁城へのウトゥーシ、多和田のウグヮンス、火の神が祀られ、東側には、ノロ火の神、クニグサイ、タキグサイが祀られている。近くには、土帝君も置かれていると書かれていた。サントリー敷地内にあった土帝君がこれではないかと思う。移設されたのだろう。この拝所については情報が無く、寄宮の場所も分からない。もう少し調べて、訪問する予定。



ビジュル

集落の北の丘陵地の北の端の港原高台に美人神 (タキグサイの神) とも呼ばれているビジュル (霊石) の拝所がある。この拝所については記載が無かった。元々は別の場所にあったそうで、ここは移設された場所。


ミートゥンダガー

次は、集落から東に外れ、安謝集落が造られる以前に住んでいた多和田 (ターダ) があった付近に移動する。安謝川の辺りに造られた県営安岡市街地住宅 (130戸) の前、道路沿いに金網で囲まれた場所がある。

この辺りにはミートゥンダガーがあると、資料にあったので、近くをあちこち探すが、これ以外にそれらしきものは見当たらなかった。後で、再度調べると、やはりここがミートゥンダガー跡だった。昔の安謝村落の人達が使っていた井戸だそうで、現在も拝んでいるとあるが、香炉などは見当たらなかった。県営住宅建設のために周辺が埋め立てられて、井戸は金網で囲まれ、入り口は施錠されて中には入れない。中には下に降りる梯子があった。この穴の底に井戸があり、香炉が置かれている。(図書館の資料で写真があった)


御先世ヌ井戸 (ウサチユーヌカー) 

東之井戸に移設された御先世ヌ井戸 (ウサチユーヌカー) はこの銘苅市営団地内 (1982年、160戸 155 世帯、335人) にあった。団地建設時に埋められてしまった。ここには井戸の形式保存と祠が置かれている。祠には「前安謝」と書かれた石柱が置かれている。安謝はかつては前安謝と呼ばれていた。


安謝市営住宅、安謝第一市営住宅

安謝橋の近くに人口増加で、住宅を確保するために1982年に建設された団地で、140戸 3LDK (61m2) 360人 (128世帯) が住んでいる。

すぐ側にも変わったデザインの高層住宅がある。安謝市営住宅で、老人擁護施設や児童館も併設されている。更なる人口増加に対応するために建てられている。1997年に建設された団地で、151戸 1DK (37m2) ~3KDK (80m2) 234人 (142世帯) が住んでいる。字安謝内には三つの市営団地、県営団地が一つある、合計で約1200人が住んでいる。字安謝の人口が7120人なので17%が公営住宅住民となり、かなり高い率に思える。


ナナユヒービラ

安謝から天久に至る坂をナナユヒービラといった。現在の国道58号線の一部だった。戦前まで往来する荷馬車には辛い急坂だったという。この名前は、近接する「七与平利田」と称する田んぼに由来している。遺老説伝に七与平利田についての逸話が記載されている。

  • かつて、広い田畑を有する者が天久村に居り、身売りした7人の主人として、彼らにその田畑を耕作させていた。ある時、主人は、安謝村にある私有の田んぼを7人に与えた。彼らは、これまでにも増して主人の仕事に精を出し、また、時間を作っては自らの田んぼを耕し、収益を上げ、ついには、借金を返済したという。近隣の人々は、大いに感心し、7人に与えられた田んぼを、「七与平利田」と称したという。 

ナナユヒービラは、沖縄戦以前は、中・北部と那覇を結ぶ主要道の一部で、製糖期には、砂糖樽を積んだ馬車が、那覇の港に向かって列をなしていた。沖縄戦の後、米軍により道幅が広げられ、軍道1号線となり、ベトナム戦争際には、沖縄は前進基地として軍港と基地を結ぶ軍道1号線は連日米軍の戦車が通り、さながら軍用道路の態をみせ、住民を再び戦争への不安にかりたてたという。

1972年 (昭和47年) の本土復帰後は、沖縄を縦断し、奄美大島、種子島を経由して鹿児島に至る国道58号となった。1991年 (平成3年) に、坂の途中から浦添市勢理客にかけて、高架橋が開通した。


安謝トンネル

戦後、米軍が旧県道 (現国道58号) を所によっては10mほどもかさ上げして、軍道1号線を建設した際には、安謝集落から港に行くには大きく迂回しなくてはならず、安謝集落が東西に分断されてしまった。部落をつなぐ必要からこのトンネルが造られた。昔のトンネルは幅が狭く車が一台通れるくらいで、トンネルの両端で車が立ち往生していた。結局、車は通行禁止となり、トンネル内にマチヤグヮー (雑貨店) ができて賑やかだったそうだ。

トンネルを西に抜けると、かつての安謝港の地区になる。安謝港で漁をする安謝の漁師は数軒で、多くは糸満からの30-4人程の漁師がここに4-5軒の家を借り、安謝部落にウミガネー (海の使用料) を払い、漁の期間に住んでいた。

字安謝の南側は1953年 (昭和28年) に米軍が米軍牧港住宅地区の建設の為、強制接収したため、安謝小学校の南側などに居住していた人々が、この地に移り住みはじめ、商店街が形成した。また、同じく米軍に土地を接収された旧那覇市・垣花・住吉町の人達が、この安謝の海岸一帯に移住し部落を作っていた。旧村の名称のまま、ここを住吉区と呼んでいた。港区と住吉区の自治会があった。住吉区の自治会内には垣花の集会所も併設されている。垣花と住吉は那覇港の南岸にあった集落だが、現在でも米軍那覇軍港で住民は未だに帰還できず。現在、元住吉集落では人口はゼロ、元垣花集落には70人しかいない状態だ。未だぬ戦争に翻弄されている地域だ。


安謝劇場跡

この住吉区も、岡野地区と同じく、1946年の復興計画で、大規模に工作隊の移住が行われた。那覇中心部は未開放、那覇と泊の両港が民間使用できなかった事でに対策でもあった。この開発で、安謝は戦後、大いに繁栄した。この安謝港の住吉区の市場や繁華街に安謝劇場が建てられ、住民の娯楽の中心となっていた。


恵比寿神社 (平敷屋朝敏処刑地)

安謝港、住吉区の中に小高い丘があり、その上には恵比寿神社がある。この神社は戦後に作られ、琉球八社の一つ、沖宮の末社で先代が沖宮の宮司で戦後、ここに神社を建てたという。この恵比寿神社の本殿には祭神の天照大神が祀られている。拝殿の中は本土の神社と変わらない。拝殿の隣には脇殿がある。拝殿の中央に仏様がある。神社で仏を拝んでいる。右側は神様で、左側は祖霊神を祀っているそうだ。沖縄では、宗教に対してはかなり寛大で、祖先崇拝、琉球神道、日本の神道、仏教、風水などがミックスしている。明治時代の国家神道政策で御嶽が神社に帰られたが、住民は形にはとらわれず、天照大御神も元々のイビも拝んでいる。当時は神仏習合の時代で神社には必ず仏教寺院があり、住民はすんなりと受け入れ神と仏を区別せず拝んでいた。戦後、神仏分離となったが、沖縄では相変わらず、神も仏も神社で拝んでいる。拝殿になっている。脇殿の裏には稲荷神社があり、その傍らにも仏像がある。

拝殿の奥に本殿がある。

本殿裏には岩山があり、多くの拝所があった。一つの拝所 (写真上) には航海の守護神の表筒男御神(うわつつみおのみこと) 、琉球神道の三兄弟の長男で子の干支の龍神で海上交通の護り神の天風龍大御神 (あまふうりゅうおおかみ)、子乃初子方神が祀られている。隣の拝所 (写真中) には恵比須大明神、混比羅大明神、大国大明神と馴染みにある神様を祀っている。その他にもコンクリートブロックを香炉として何かを祀っているのだが、字が消えて良く分からない。

その右側には地頭火の神が祀られている。これは沖縄独特の拝所だが、地頭火の神というからには、この地に赴いていた地頭が拝んでいた火の神だろう。元々ここにあったのだろうか? 

岩山の上には、老師とも見える銅像が置かれている。沖縄の天、地、底を守っている三人の長老の一人の土地長老を祀っているそうだ。本社の沖宮では天を守る御天長老を祀っている。

恵比寿神社の下に龍神と呼ばれる洞窟があり、海に繋がっていたそうだ。沖縄戦当時は避難壕として使われ、戦後幾つかの遺骨が見つかっている。洞窟の前に引き取り手がいない遺骨の慰霊塔 (三本の棒が建っている) が置かれている。この前の広場は琉球王統時代の処刑場跡 (タカシー) と言われている。ここで処刑された人の中に木田大時 (むくだふとぅち) がいる。玉城村の前川集落にある木田大時の屋敷跡を訪れた訪問記にその際の死に至るエピソードを知った。そのほかに処刑された有名人として組踊 手水の縁 の作者で文学者の平敷屋朝敏 (ヘシキヤチョウビン) がいる。当時の三司官の蔡温の政治に不満を抱き、1734年、薩摩の那覇在番奉行に王府を批判する投書をし (平敷屋・友寄事件)、それが王府により発覚し、友寄安乗ら和文学の仲間とともに15人が捕らえられ、この地で処刑された。何を批判したのか投書の内容は不明のままだ。王府はでっち上げで。政府の転覆をはかったとしているが、もみ消したところを見ると、でっち上げとは思えない。祭温は傑出した有能な政治家とされている。多くの改革を行ったが、その実行には多くん犠牲も伴っていた。すべてが万人の幸せつながるわけではなく、多くの矛盾も内包していただろう。その強引なやり方に不満を持ったのかもしれない。ある説では、華僑の久米村出身の祭温と国学の平敷屋派との抗争とするものもある。この処刑の状況が架かれている資料がある。友寄と朝敏は、磔の中でも、とくに重刑の罪人に適用される串刺しにより行われた。朝敏は60人にとがった木で体を貫されたが、それでもなかなか落命しないので、最後は母とともに立ち会うことが許されていた長男の朝良がとどめを刺したと伝えられている悲惨な処刑だった。

洞窟入り口にはいくつもの拝所がある。それぞれが何の拝所なのかは分からない。

洞窟の中にもいくつも拝所があった。洞窟は奥に続いているが、ここで多くの人が無くなったと思うと、好奇心だけで中に入っちくのはためらわれた。



これで2日間の安謝集落訪問は終了。琉球王統時代から沖縄戦、戦後の集落の変遷の歴史をたどることができた。何日か図書館にも通い、調べ物もしたので、自分の中では消化できたように思える。

一日目は久しぶりの晴日で、少し汗ばむくらいだった。集落へ行きには、若いころ聞いてた Eric Claton が昨年リリースしたアルバムをかけながらバイクをこぐ。アコースティックギター中心で、しぶい曲が多い。Cream 時代を思わせるような曲もあり、気に入った。帰りは Yes のボーカリストだった Jon Anderson が昨年に発表した作品。Yes 時代のProgressive Rock ではなく、メロディカルな曲が多じかった。二人とも75歳を過ぎているが、いまだに健在で活動しているのには脱帽だ。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 安謝誌 (2010 安謝誌編集委員会)
  • 沖縄の古代部落マキヨの研究 (1977 稲村賢敷)