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Okinawa 沖縄 #2 Day 188 (01/06/22) 旧真和志村 (18) Sobe Hamlet 楚辺集落

2022.06.02 07:12

旧真和志村 楚辺集落 (そべ、スビ)


梅雨の真っ最中に今日は曇予報となっている。昨日は記録的大雨で避難警報まで出ていた。今日も多分雨は降ると思うのだが、明日からはまた雨予報が続いているので、思い切って、まだ少し未訪問の文化財が残っている楚辺集落を巡ることにした。まだ降り始めていないが、多分降るだろうから折り畳み傘を持参して徒歩にて出発。



旧真和志村 楚辺集落 (そべ、スビ)

楚辺は古波蔵部落の先住地附近から那覇の泉崎に接する近郊で主とし那覇系統の寄留人集落になる。城岳を水源地とする江樋川 (樋川部落)、王井 (オウガー) 湧田川など泉井が多い。 古波蔵馬場跡に小学校、その近くに無線局が建設され、城岳近くには大正8年に県立二中 (現那覇高校) が嘉手納から、沖縄刑務所が那覇港南岸から刑務所が移って来て、急速に賑やかになった。1909年 (明治42年) に古波蔵から壷川、楚辺が分離独立したが、当時は、隣接していた湧田 (泉崎)、古波倉、松尾とその区別も判然しなかった。戦前は農事試験場敷地であったのを戦後、楚辺 (開南停留所附近) が軍通信隊用地として接収されたので、楚辺の住民は、この試験場内に住むことを余儀なくされた。井戸がなかったので、水タンクを設け簡易水道をひいていた。

1936年 (昭和11年) には第二中学校周辺 (湧田瓦屋) が、二中前として分離独立している。第二中学校が移ってきた1919年 (大正8年) 頃は銀行員や役員の住宅が5-6軒程だったが、その後、学生向けの文房具店や、食堂、その他の商店も増えて、人口も増加していった。この二中前は那覇市になってから、大部分が泉崎1丁目、楚辺1丁目、松尾1丁目に組み込まれ、残ったのが小さな三角形をした区域で、この地域も2011年 (平成23年) に字二中前は泉崎2丁目に編入され、消滅した。


戦後、120世帯だった人口は、その後、元の楚辺が解放になってからは帰郷する人が増加したが、楚辺出身は元の半数にとどまっていた。離島や北部からの転入者の増加が著しかったという。


戦後地域が解放され、人が戻ってきてから1950年代は著しく人口は増加している。特に二中前地区は那覇中心地に近く楚辺よりも増加は多かった。1960年をピークにその後は人口は減少に転じ、現在でも世帯数は増加傾向にあるが人口は微減傾向にある。

旧真和志村の他の地域の比較では、沖縄戦の直前1944年では二中前の人口が二番目となっている。首位の壷川、3番目の松尾はm理事以降にできた地域でそれぞれが隣接して那覇に近い位置になる。沖縄戦後の1945年は、沖縄戦での戦没者、立ち入り禁止地区となり転出者も多く登録人口は激減している。1960年以降人口が減り始めてからは、旧真和志村の中では人口ランクは徐々に下がり、現在では明治時代に比べれば7倍にはなっているものの、少ないグループになってしまった。


楚辺は1909年 (明治42年) に古波蔵から分離独立しているので、琉球国由来記には古波蔵の拝所として以下が記載されている。 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 古波蔵の嶽 (神名: アヤフト御イベ)、城嶽 (神名: アヤクヒヤ御イベ)
  • 殿: 涌田之殿 (王之殿)

古波蔵では楚辺ノロが管轄内の祭祀を行っていた。楚辺は明治以降の地域なので、小波蔵ノロでなくなぜ楚辺ノロがこの地域を管轄していたのかの疑問があったのだが、この地域は琉球王統時代は楚辺に本家を持つ王農家が広範囲に領地をもったかなりの有力豪族だったので、その一族からノロを輩出していたことによるのだろう。楚辺の祭祀もこの楚辺ノロによって執り行われていたが、どのような年中祭祀が行われ、現在も続いているものが何かについては資料には見当たらず。


楚辺集落訪問ログ



王之殿

16世紀頃、楚辺から奥武山あたりまでを領地とした王農大親 (オーヌウフヤ) という豪族がおり、その屋敷跡が王農大親を祀った王の殿で祭祀場となっている。涌田神社とも呼ばれていた。琉球国由来記によると、王農大親の娘の真世仁金 (マゼニガニ) は尚清王の夫人の大按司志良礼 (うぶあんししられ) で、その子の読谷山王子が大親の後を継いだとある。この場所で近所のおばあが話しかけて来て、同じ様な話をしてくれた。この王農大親の娘が尚清王の夫人になった事の逸話がある。尚清王から、娘を宮中に迎えたいとの要請に対しては、王農大親は当初断っていたが、尚清王は諦めきれず、「承諾してくれれば、望むものは何でもかなえる」と言うと、王農大親は「この丘から見える土地を全部欲しい」と答えたという。それでこの王農大親は広大な土地を手に入れたと伝わっているそうだ。おばあは話好きな様で、その後も長い時間世間話に費やす事となった。 


王之殿の王川

王之殿のすぐ近くには王川があり、王樋川 (樋川地区にある) と同様に王農家の井戸だった。井戸の規模や石積みの技法から、この地域の実力者のものでることがわかる。口は小さく中央部から底にかけて広く石積みされ、水はいつでも豊富にあったという。前面は、石が敷かれ、背部はやや高く石積みをした古い型をそのまま残しているが、今はその前に手押しポンプを設置している。5・6月の稲の大祭 (ウマチー) の時は、子孫である玉川御殿から祭品を供え、楚辺の大阿母 (おおあむ) が主祭して、近隣の農村から多くの参拝者がきてにぎわったといわれている。井戸の周りは花壇になっており、地元民が常に手入れをして大切にしている。


石応和尚墓碑

沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫 街歩きマップにこの史跡が地図に載っていたので訪れた。確かに墓が幾つかあるのだが、周囲も探すが石応和尚墓碑は見つからなかった。この街歩きマップは地図に場所だけが示されて、殆どが写真も解説もない。沖縄県立図書館が作成しているとすると、あまりにもお粗末な仕上がりだ。何のためにこの資料に作ったのだろうか、貴重な文化財を知ってもらう目的であれば、解説などをつけなければ意味が無いのではと思う。別の資料には、ここにある墓群の右から5つ目とあるにで、多分この墓だろうが、石碑は撤去されたのか見当たらなかった。


楚辺三丁目拝所

王川の西側は楚辺3丁目になる。壷川地区に隣接して、高台に長く伸びている。ここに拝所があった。楚辺集落の拝所として紹介されている資料はなかった。インターネットでヒットしたのは1件だけで、それには与儀八三会で5月ウマチー、6月ウマチー、ウガンブトゥチ、初ウガミで拝まれていると書かれていた。与儀八三会は与儀集落の自治会で、昔からの門中が中心となっている。このかつての古波蔵村内だった楚辺に与儀の拝所があることは、特別な事では無いのだが、なんらかの関係があった事は確かだろう。与儀の門中の腹 (分家) がこの地に移って来ていたのかもしれない。


古波蔵馬場 (クファングァ ウマウィー)

この地は、かつて幅10m前後、長さ200mほどの古波蔵馬場があり、古波蔵村が、近郷の国場村、与儀村と、月に一度、宮古馬でい、早足 (足組す、アシクマスン) で馬勝負 (ンマスーブ) をしていた場所。勝った馬は、島尻郡の大会や、那覇の潟原 (カタバル) で年に一回行われた全県大会に出場していた。馬場跡には、馬のオブジェが置かれている。これは昔あった像を、当時の写真を元に再現しているそうだ。歩道には那覇市の景観資源として保全されている大きなガジュマルが残っている。


楚辺尋常小学校跡

馬場跡沿いに城岳小学校があるのだが、戦前は昭和15年に開校した楚辺尋常小学校 (昭和16年に楚辺国民学校に改称) だった。戦時中は日本軍の野戦病院として接収され、沖縄戦でアメリカ軍の激しい攻撃で焼失してしまった。碑が立っており、「楚辺小学校は摩文仁にて再建後、移転を重ね終に現与儀小学校に留まり、学校名は永遠に消滅」と書かれている。


城岳 (グスクダケ、ジョーガク)

楚辺の北の端に城岳 (グスクダケ) という標高33.8mの沖縄最低峰がある。かつて、この一帯は古波蔵村管内で、城岳は古波蔵村の聖域として拝所があり、通常の祭祀のほか、旱魃時には雨乞いの祈願が行われていた。松や樹木が生い茂る景勝の地としても知られ、1756年に中国から来琉した冊封副使周煌が琉球国志略の球陽八景図に城嶽霊泉 (左図) として城岳と旺泉 (汪樋川) が描かれている。江戸時代には葛飾北斎 (1760 - 1849年) がこの挿絵を元にして浮世絵 (右) を描いている。当時江戸では琉球ブーム真っ只中だった。

大正時代には、城岳周辺に第二中学校、沖縄県庁、沖縄刑務所等が移設され、住宅が建ち並ぶようになり、様相が変わり、昭和初期には、林は宅地や畑地になっていた。1945年の沖縄戦中は、山部隊の那覇守備隊陣地壕として使われ、5月には城岳周辺で激しい戦闘も繰り広げられた。終戦後、城岳の山頂部は削り取られ、1951年 (昭和26年)、新世界という遊園地が開園し、回転飛行塔、メリーゴーランド、電気豆汽車や小動物園、映画演芸場、食堂・売店なども置かれ、那覇の一大名所として賑わったという。1961年 (昭和36年) に、経営難のため、敷地は那覇市に売却され、閉園となった。

1971年 (昭和46年) から、城岳公園として整備が行われ、平成に入ってからは、周辺の墓は移転している。幾つかの古墓は今でも残っていた。

丘は、遊歩道も設けられ、公園らしく整備も行き届いている。


殿・南無志や加如来碑

城岳へ南側から入ったところの民家の敷地内に殿・南無志や加如来碑がある。拝所が二つありその脇に碑が立っている。古波蔵之嶽と何らかの関係があったと考えられる。城岳は聖域なので神官以外は立ち入れなかったので、一般の住民はここから御願していたのかもしれない。この文化財も沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫 街歩きマップに場所のみ地図で示されているが、解説は無い。


城岳嶽

城岳の中に城岳嶽の祠がある。600年ほど前に進貢船の舟子たちが建立し、この辺りの住民の守護、海上安全を祈願する拝所で、毎年旧3月、6月、8月作物豊穣や旱魃の際の雨乞い祈願を行っていた。祠の中に石が置かれ、そこには城岳嶽乃守護神、あやくのひやおいべ、あふらいのおいべ、てんごのおいべ、ともよしおいべと刻まれているので、四つの威部が祀られていたのだ。琉球国由来記にはこの御嶽の威部はアヤクヒヤ御イベとあり、4つの威部のうち「あやくのひやおいべ」にあたる。残りの3つの威部については詳細は分からなかった。この拝所は、新世界遊園地の閉鎖後、1962年 (昭和37年) に再建されたもの。


古波蔵嶽

城岳嶽の隣には古波蔵嶽が置かれている。アヤフト御イベと古波蔵村の火の神を祀っている。ここは楚辺になるのだが、かつては古波蔵村で、ここは古波蔵村の聖域で、この拝所は古波蔵集落の御嶽だった。3月、6月、9月には祭礼が行なわれ、また旱魃時には雨乞いの祈願も行われていた。現在の古波蔵嶽も、新世界遊園地の閉鎖後、1962年 (昭和37年) に再建されたもの。 


二中健児之塔

1990年 (平成2年) に、奥武山公園 (護国神社裏山) から二中健児の塔が移設されている。この慰霊碑では沖縄戦で犠牲になった二中の学徒185名と職員9名を慰霊している。沖縄県立第二中学校の前身は、1910年 (明治43年)、沖縄県立沖縄中学校の分校として開校、1911年 (明治44年) に独立し 沖縄県立第二中学校となった。1945年 (昭和20年) 2月下旬、二中は金武国民学校へ移動することになり、3月には中等学校生徒の入隊の軍令が発せられ、鉄血勤皇隊を結成、通信隊は第六十二師団司令部通信隊へ入隊。勤皇隊は食糧難などで解散し、約15名の生徒が北部へ向かうことになり、4月2日、八重岳で独立混成第四十四 旅団第二歩兵隊 (宇土部隊) へ入隊となっている。通信隊は、その後、6つの部隊に分散配置され、 暗号班の生徒は浦添村の仲間、沢岻の部隊に派遣されている。勤皇隊は命令により多野岳へ撤退するがを開始し、米軍の攻撃を受け、東村山中に撤退した。5月には、米軍の進撃で、 仲間、沢岻の通信隊は首里へ移動し、さらに部隊は南部への撤退を開始し、糸満市の東辺名、波平、福地、山城に移動している。6月下旬、東辺名や摩文仁の壕が米軍 の激しい攻撃を受け、多数の死傷者を出している。


ぬしちゃー御願所 (ウガンジュ)

城岳の北側かの麓に拝所がある。ぬしちゃー御願所 (ウガンジュ) とあるが、この拝所についての情報は一つだけあったが、単に火ヌ神と書かれてあっただけだった。


防空壕

1945年の沖縄戦中は、城岳の地下には、ここに点在していた墓を入り口 (13ヶ所) に利用して、全長500m、3重構造の坑道が掘られ旧日本軍の陣地壕、地域住民の避難壕として使われていた。10・10空襲以来、那覇無線通信所の本拠地となり山部隊那覇守備隊陣地壕として使用され、後に空襲が激しくなってくると警備本部や食料営団本部が壕へ移ってきている。米軍の艦砲射撃や空襲が激しくなると、沖縄県庁職員がこの壕に移り県庁業務を行っていたが、その後、壕は海軍により使用されることとなり、県庁は真地の県庁警察壕へ移動している。5月にはこの城岳周辺で激しい戦闘も繰り広げられた。この壕では2003年に発掘調査が行われ、入口になっていた古墓には地上戦でのおびただしい弾着痕が残り、壕内には斬り込みに行く兵が置いていったと思われる軍靴や雑嚢、水筒、空缶瓶、機械片、弾片などが大量に残されていたそうだ。


曝書山房跡 (バクショサンボウアト)

城岳の西の麓に沖縄学の父とされる伊波普猷の別荘跡がある。城岳を背にし、地域のウブガー (産井) を含む2,500坪が伊波家の畑地だった。普猷の幼少の頃には、ここで昆虫や草花の採集に興じたと記している。沖縄県立図書館長時代の1914年、持病の療養のため、敷地内に12坪ほどの瓦葺きを建て日々を過ごした。 屋内には、尚泰王の第4子尚順松山王子の筆による 「曝書山房」の扁額が掲げられていたので、こう呼ばれていた。この別荘はでは、沖縄研究の会が開かれ、また、キリスト教の組合教会運動の拠点ともなっていた。大正末期に伊波の上京後に、人手に渡っている。


壕跡

曝書山房の奥、城岳の斜面下にも壕跡が残っていた。先程見た丘の反対側に入り口があった陣地壕と繋がっているのか、別の壕なのかは分からなかった。


ヨカツガー

曝書山房跡近くヨツカガーがある。詳細は不明。


屋慶名産井 (ヤケナウフカー) (未訪問)

曝書山房の敷地内には屋慶名産井 (ヤケナウフカー) と呼ばれる井戸があったそうだ。多分この辺りだろうが、見つからず。


沖縄刑務所跡

城岳の公園を東に出た所の南北に走る通りは、かつては刑務所通りと呼ばれていた。今は裁判所通りと名は変わっているのだが、電信柱に当時の刑務所通りの名残が見える。

この通りは楚辺と樋川の境界線になり、東が樋川、西が楚辺になる。通りの東の樋川地区には沖縄刑務所があったが、1979年に知念の具志堅に移転している。

その跡地は現在、中央公園と裁判所、那覇第一合同庁舎、沖縄拘置所の敷地となっている。



この楚辺には何回か訪れており、今日は残りの文化財や興味がある場所を巡った。これで楚辺集落見学は終わり、楚辺と関係が深い隣の樋川地区を続けて見ていく。樋川集落訪問記は別途記載する。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい (1989 那覇市教育委員会文化課)