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Okinawa 沖縄 #2 Day 184 (21/05/22) 旧真和志村 (16) Kohagura Hamlet 古波蔵集落

2022.05.22 13:43

旧真和志村 古波蔵集落 (こはぐら、クファングヮ)


連日、梅雨で雨が続いている。今日は少し小降りなので、近場の集落を徒歩にて巡る。那覇の集落見学は、遠出した帰りに時々立ち寄ってみている。今日はその中で、まだ見ていない文化財を巡る。古波蔵集落から始め、楚辺、樋川、壼川集落を巡る。




旧真和志村 古波蔵集落 (こはぐら、クファングヮ)

那覇泉崎の東南部に接し、奥武山と漫湖を見おろす丘陵地になっていて、一帯に亀甲墓や玻風墓が群がり松林があり、楚辺には馬場 (ウマィー) があった。丘上が旧部落で、真和志支所管内になている。漫湖寄りの埋め立て地の密集地は本庁管内に入っている。

古波蔵の村立ては、宮平姓、玉城姓、与儀姓、山内姓、宮城姓など27人がやって来て住みついたのがはじまりと伝わっている。古波蔵村は、もともとは、泉崎村の籍内にあった。

古波蔵村となった後、村有地や飛地が相当にあったが、扶地頭や掟がこの土地を那覇人に荘園地として売り、耕作地が減少により村が疲幣し、小作人が増えていった。集落住民は税を納められず、租糖も他村から購入して上納していた。この為、耕作地のある場所への移住を首里王府に願い、尚育王 (1845年) 時代に村を国場村西方の兼久原に移した。

往時の古波蔵村は宏大で現在の久茂地川畔を境に美栄橋、久茂地、 泉崎の一部も含めて古波倉楚辺原と呼ばれ、湧田も含め、更に辻町の一部の奥村渠も古波蔵村の管内であ って飛地になっていた。明治のころは、松尾、壷川、楚辺、二中前一帯は古波蔵村であった。明治42年に壷川、楚辺が分離し、大正5年には松尾が分離していった。

戦前は織物工場やアルコール工場、馬車修理、沖縄窯業があって、商業地として発達し、軽便鉄道の開通によって村はますます発展していた。戦後は離島や南部からの転入がふえて、人口はふくれ上っている。畑地だった場所は殆どが住宅に変ってしまった。

1880年 (明治13年) の人口を見ると、真和志間切の中で、識名に次いで人口の大い地域だった。これはまだ、楚辺、壷川、松尾などが分離独立前という事情がある。楚辺、壷川、松尾の分離独立後の人口は、旧真和志村の中では少ないグループに転落している。現在の人口もそれ程多くはなく、少ないグループになっており、人口の減少は続いている。漫湖沿岸を埋め立てた小波蔵地区 (三丁目、四丁目) は真和志区ではなく那覇本庁区管轄になるのだが、埋め立て前の小波蔵の人口とほぼ同じ人口規模の住宅地となっている。ここ数年は世帯数は増加しているのだが、人口は毎年減少傾向にある。

真和志間切 (真和志村、真和志市) の他の地区との人口比較では、明治時代までは、人口は識名に次いで2番目に多い地区だったが、戦前までに甚句は減少し、少ないグループに転落している。沖縄戦直後の小波蔵の人口は、戦没者や他の地域への転出者もあり、明治時代人口の4割程度からの再出発だった。 戦後、早い時期に立ち入り禁止地区から解放されたことや、漫湖河川沿岸の埋立で、工場屋住宅地が建設され、那覇市中心に近い事、戦後那覇港の工事などで仕事を求めて移住してくる人も多くあり、人口は急増している。

この埋め立て地区は本庁管轄にはなっているが、元の地域と本庁地区を合わせると、旧真和志村内では3番目に人口の多い地区に発展している。かつての古波蔵村の地域から分離独立した松尾、壷川、楚辺を含めると、2020年末では21,507人で最も多い。(那覇市の人口は31万人なので、旧古波蔵村地域は6.7%の相当する)


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

古波蔵で行われていた祭祀についての記事は見当たらなかったが、祭祀は楚辺の大阿母が管掌していた。


古波蔵集落訪問ログ


古波蔵村はかつては壼川、楚辺、松尾も含んでおり、古波蔵村に拝まれている拝所や、上記の村々が分離する前の史跡などがこの四つの字に散々している。この訪問記では現在の古波蔵地区内にある文化財を記載しており、他の三地区については別途レポートを作る予定。現在住んでいる国場から古波蔵大通りを古波蔵に向けて歩く。古波蔵大通りは真玉橋より那覇側は河岸沿いだった。現在はこの通りの漫湖側は埋め立てられて、住宅地と漫湖公園になっている。





古波蔵公民館

1956年に小高い丘に公民館と遊び場 (アシビナー) が設置さ、現在では遊び場は古波蔵児童公園となり、公民館は古波蔵むつみ会館となっている。

ここでは2016年から子供食堂が運営されている。那覇市ではこの様な子供食堂が、那覇本庁区では18ヶ所、真和志区では18ヶ所、首里区では4ヶ所、小禄区では5ヶ所ある。沖縄県は小学校数に対する子ども食堂の割合が全国で最も高い。沖縄では貧困率が全国的にみても高く34.8%と全国平均の18.3%を大きく超えている。特に子どもの貧困率は29.9%となっており、全国平均が16.3%なので2倍近い。平均所得が低いのに対して、生活コストが割高であることが原因とされている。沖縄の最低賃金は714円と全国で最低、ワーキングプア率は18.3%で全国平均の9.7%の倍近い。ボランティアや自治体がこの問題に取り組んでいる。那覇市の子ども食堂は食事に提供は行うのだが、子どもの孤独に対してや、将来に対しての活動も重要視している。ただコロナ禍でこの様な活動は制限され、食事も弁当形式となり、子どもがコミュニティの中で大人と友達との触れ合いが失われているのが目下の課題となっている。


古波蔵拝所

公民館の敷地内に鳥居が置かれた拝所がある。當地聖烈鎮守善神と刻まれた石が祠内に納められている。この拝所についての詳細は見当たらなかった。


ウシジャーの神の井戸 (ウシジャーヌシンヌカー)、火の神 (ヒヌカン)

古波蔵児童公園の前の道を少し降った所、丘陵の斜面にいくつもの祠が並んだ拝所地がある。入り口にはコンクリートで蓋がされた井戸がある。ウシジャーの神の井戸 (ウシジャーヌシンヌカー) という。ウシジャーの神とは何の神かと思い調べると、古波蔵の湧き水で作っていた豆腐を古波蔵ウシジャーと呼んで、かつては人気食で、ほとんどの家庭で作っていたそうだ。この地に移住してくる前からウシジャー作りがされていたとあるので、19世紀初頭には作られていた様だ。また、公設市場近くで販売していたという。そのウシジャーの神を祀っているそうで、豆腐作りに使われた井戸なのだろう。井戸の隣の祠には火の神 (ヒヌカン) が祀られている。豆腐作りには水と火が不可欠なので一緒に祀られているのかも知れない。の拝所の隣にある。


兼久原之嶽 (カネクバルヌタキ) 

この辺りは兼久原 (カネクバル) と呼ばれる地域で、1845年 (育王11年、弘化2年) に、元々住んでいた城岳の南から、耕作地を求めて移ってきた場所になる。元々の古波蔵村は、那覇に接近している事から、土地の大部分は那覇士族の荘園地となり、百姓地が次第に少くなっていった。王府に納める税の租糖が生産できず、他村から購入して上納する状態にあった。その為、古波蔵の百姓は1845年に首里王府に願いでて、国場村瓦葺原に隣接する兼久原に遷す事になったという経緯がある。井戸から中に進んだ所に拝所があるが、資料によっては古波蔵之嶽 (クファングラヌタキ) と紹介されているものもあるが、古波蔵之嶽は古波蔵村の西側にあったとされているので位置関係が合わない。また、その御嶽は楚辺の城岳に合祀され祠があるので、ここではないだろう。古波蔵村には兼久原之嶽 (カネクバルヌタキ) があったと記載した資料もあった。それ以上の情報は無いのだが、ここが兼久原 (カネクバル) なので、この拝所が兼久原之嶽 (カネクバルヌタキ) と思われる。ここには四つの祠 (拝所は五つの様だ) があり、それぞれが何を祀っているのかは分からない。手前の二つは火の神 を祀っている様で、三つ目の祠 (写真右中) がウシジャーの神を祀っている。その脇には大豆を潰した臼が置かれている。そうすると、一番奥の祠 (写真右下) が兼久原之嶽 (カネクバルヌタキ) かも知れない。

兼久原之嶽がある丘陵地斜面には幾つもの古墓が残っている。この丘陵地の斜面下に村が広がっていたので、この丘陵地の上部は集落の聖域となっていたのだろう。


日本陸軍熊本鎮台沖縄分遣隊駐屯地跡

丘陵を登った所は、現在では住宅街になっている。明治維新後、新政府が、日清両属体制をとる琉球国の領土確定を図るため、処遇問題に着手し、1872年 (明治5年)に琉球国国王を廃し、琉球藩とした。1875年 (明治8年) には、琉球藩内保護の名目で熊本鎮台分遣隊を派遣して、真和志間切古波蔵村周辺18,603坪余を駐屯地敷地とし、兵舎練兵場等が設置された。1879年 (明治12年)に、処分官松田道之とともに分遣隊2個中隊400名余が那覇港に到着し、沖縄県を設置して、 首里城明け渡し等の処分を断行し、一個中隊が首里城に入城。翌年、陸軍は駐屯地を首里城と定め、古波蔵駐屯地は使用されなくなった。日清戦争後の1896年 (明治29年) には、分遣隊の沖縄派遣が終了し、古波蔵駐屯跡地は農事試験場用地となった。1909年 (明治42年) 真和志村が敷地の払い下げを受けたが、1928年 (昭和3年) 改めて約4,000坪余を陸軍へ提供し、在郷軍人の演習等に使用された。これ以降、付近住民は一帯を兵隊屋 (ヒータイヤー) と呼んだ。沖縄戦後、この一帯は米軍の貯油施設 (ガソリンタンク) として使用されていたが、1972年 (昭和47年) 沖縄の本土復帰とともに返還され、区画整理事業の実施 (1971 ~ 1991年) により、住宅地となった。 一帯は現在でもタンク跡と呼ばれている。


行田谷原之嶽 (ユクタヤバルヌタキ、古波蔵神社、行田谷原産土神社)

日本陸軍熊本鎮台沖縄分遣隊駐屯地跡から坂道を北側に降りた所は行田谷原 (ユクタヤバル) という地域になる。ここに赤い鳥居の神社がある。行田谷原之嶽 (ユクタヤバルヌタキ) で、古波蔵神社と呼ばれている。入り口の右側にこの地名の行田谷原、左側に鎮守の杜と記載されており、古波蔵の古い地名の行田谷原の土地の守護神である産土神  (うぶすなかみ) を祀る神社だそうだ。


漫湖公園

真玉橋から那覇方面の干潟の漫湖の両岸に埋め立てられた地域は住宅街となっており、その中に広大な敷地の漫湖公園がある。

かつて琉球王国の時代には、この地は干潟でなく、満々と水をたたえた水辺であり「大湖」と呼ばれていたが、1600年代半ばに琉球を訪れた中国の冊封使が沢山の水を湛えた風景に感銘を受け、「漫湖」と名付けたと伝わている。1960年代からの埋め立ての影響で、泥の広がる干潟へと変わってしまっている。干潟にはマングローブが生い茂り、国内でも有数の野鳥飛来地となっており、ラムサール条約に日本で11番目に登録されている。古波蔵側の公園は、対岸の豊見城の公園よりも規模は小さいが、テニスコート、野球場、ジョギンスコースがある。ジョギングコースの両脇は桜並木になっており、春には桜が咲き誇っていた。

蘇轍林がある。雌花 (写真中) と雄花 (写真右) が咲いている。

変わった形の木が植っている。何という植物だろう?

沖縄の公園は猫が多い。耳に切り込みがあるので、避妊処理がされている。公園を訪れる人から餌をもらっているのだろう。人懐っこい。那覇では野良猫はこのように優遇されているのだが、野良犬は見かけない。保健所が朝、日が登る前に駆除しているそうだ。

公園内には何種類もの花が咲いている。色々な色のハイビスカスが咲いている。

漫湖公園の中に「ちょうちょガーデン」がある。この施設は温室になっていてオオゴマダラという珍しい蝶を見ることができる。街中でも時々飛んでいるのを見かける。オオゴマダラは、マラダチョウ科に属し、白い羽に黒い模様のある大型の蝶で、日本の蝶としては最大級。ゆっくりと羽ばたきフワフワと滑空するような飛び方をするため、南国の貴婦人と呼ばれる。また、飛び方と羽の模様が新聞紙が風に舞っているように見えることから、新聞蝶と呼ばれることもある。沖縄や東南アジアに分布している。警戒心があまり無いのか、体の側をすり抜ける様に飛んでいる。以前は葉っぱに停まっているのを簡単に摘めた事もあった。


この古波蔵集落の後、樋川、楚辺などを巡った。訪問記は別途。



参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい (1989 那覇市教育委員会文化課)