子規と虚子、道灌山の失望
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201810010000/ 【子規と虚子、道灌山の失望】より
明治28(1895)年7月24日、看病を終え須磨療養所を後にする高浜虚子に、子規は「幸いに自分は一命を取りとめたが、しかし今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。……そこでお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めておる」(『子規居士と余』)と語りました。後継者となるために学問をするよう諭された虚子は、重い負担と窮屈さを感じ、うなずくばかりだったといいます。
道灌山は、江戸城を築城した太田道灌の住居があった場所です。江戸時代から明治時代にかけて、道灌山は秋の虫の音、花見、月見の名所として、多くの人々が集いました。
12月9日、子規は虚子を道灌山の茶店に誘いました。虚子は、須磨での後継者指名に虚子の思いを確認しようと「少し学問ができるかな」と聞いた子規に、「私は学問をする気はない」と答えます。子規は「お前を自分の後継者として強うることは今日限り止める」と怒りますが、虚子は「自分の性行を曲げることは私にはできない」と言って、この場を去りました。
この時、子規は道灌山の茶店の婆が出した大豆を飴で固めたような駄菓子を、虚子に「おたべや」と勧め、自分もひとつ口に入れたといいます。自らがつくった俳句を継承することは、駄菓子のようなものかもしれないが、食べてみなければわからないだろう。そんな子規の暗喩を感じます。
子規は、このいきさつを長文の手紙にしたためて、五百木瓢亭に送りました。「小生が心中は狂乱せり。筆頭は混雑せり。貴兄は気を落ちつけて読んでくれ給え」と記された冒頭文は、その後「吁、命眠は全くここに絶えたり。虚子は小生の相続者にもあらず。小生は自ら許したるが如く虚子の案内者にもあらず。小生の文学は気息奄々として命旦夕に迫れり。今より回顧すれば虚子は小生を捨てんとしたること度々ありしならんも、小生の方にては今日まで虚子を捨つる能わざりき。親は子を愛せり、子を忠告せり。然れども神の種を受けたる子は、世間普通の親の忠告など受くもあらず。子は怜悧也。親は愚痴也。小生は箇程にまで愚痴ならんとは自ら知らざりき。小生蕭然としていう。忠告を納れずとも、子は文学者とならぬとは限らず。我も絶交するというには非ず。ただ普通の朋友として交際し、今まで自ら許したる忠告の権利及び義務を抛棄すべし」と続き、子規の興奮と失望の大きさを伝えています。
後継者を拒否したものの、のちに虚子は子規の偉業を引き継ぎ、子規俳句の隆盛に寄与しています。それには、漱石が虚子との仲を取り持ったこともありました。さまざまな世評があるにせよ、子規は慧眼だったというべきでしょう。
明治32(1899)年、子規は人力車で道灌山を訪ねました。道灌山からの平野を一望し、「上りて見れば平野一望黄雲十里このながめ廿八年このかた始めてなり(『道灌山』)」と感想をもらします。そして、胞衣神社の前の茶店に憩い、柿を食べました。虚子との別れで駄菓子を買った駄菓子屋は、昔より荒れはてています。「この坂は悪き坂なり赤土に足すべらせそ我をこかしそ」という歌を詠みますが、それは後継者を失った思い出を「悪い坂」に託して詠んでいたのかもしれません
『自分は後継者ということを常に考えている。せっかく自分の遣りかけた仕事も後継者がなければ空になってしまう。……そこでお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めておる』……こんな意味のことであった。……かくの如き委嘱は余にとって少なからざる光栄と感じながらも、果たして余にそれに背かぬような仕事ができるかどうか。余はむしろこの話を聴きながら身に余る重い負担を双肩に荷わされたような窮屈さを感じないわけにはいかなかった。(『子規居士と余』)
小生が心中は狂乱せり。筆頭は混雑せり。貴兄は気を落ちつけて読んでくれ給え。
拝復致候。いよいよ解隊と相定まり候よし、めで度存候。御申越の金子のこと、陸翁へ申候えば承知致し候様申居候。明日中には御送金可致候。小生病気大分よろしく、本月初より出社致し病後といい多忙のため逆上甚だしく、一昨日来半狂の心持にて奔走致候。それらのため御返事おくれ申候。
ここに一つ御報道可致事出来申候。単刀直入にては相分りかね候に付、はじめより敍を逐て可申上候。小生が貴兄及非風と交際致居候際、貴兄よりも非風の方文学上の才能ありと思い居候ことは僅かの間にて、非風はややその正体を現わしかけ候故、貴兄に遠く劣り候は勿論、さてもものにはなれ図とて一朝見すて申候。
それと同じく碧梧虚子の中にても、碧梧才能ありと覚えしは真のはじめのことにて、小生は以前よりすでに碧梧を捨て申候。しかし虚子は何処やりとげ得べきものと鑑定致し、また随てやりとげさせんと存居、種々に手を尽し申候。小生の身命は明日をもはかられぬもの、小生の相続者は虚子と自ら定め置候。しかもこの相続者のたしかなることは、小生自ら人を鑑定することの明を有せりと自ら恃み居りし心にて、相分り可申。小生はどこまでもこれを信じ、貴兄はじめ誰人も能くこれを信じ申され候ことと存侯。
しかし人間の智慧程はかなきものは無之候。小生は今日只今二人となき一子を失い申候。小生をして人を観るの明なからしめたるものは実にこの一窮措大高浜虚子に有之候。最早小生の事業は小生一代の者に相成候。三十有余年だに保ち得べからざるこの一代にて相終り可申候。小生は纔かに創業の功を奏したる俳句類題全集とともに、その運命の短きを歎じ申候。小生頭脳中に葬られ卒りし幾多の文学思想は水子ともならで闇から闇へ行き可申候。
今さらの繰り言は誠に笑種に過ぎざれども欝ばらしに可申上候。
小生須磨にありし時もしみじみと忠告する処あり。且つ我が相続者は君なりとまで虚子に明言いたし候。虚子もやや決心せしが如く相見え申候。小生潜かに喜んで、心に文学万歳をとなえぬ。先月帰京してつくづく虚子の挙動を見る。またこれ旧時の阿蒙のみ。小生が彼に忠告せし処は、事問のニ字に外ならず候。学問という語が小生の口を出て虚子の耳に入りしこと、数百度以上なるべし。須磨にての忠告は実に最後の忠告なりし覚悟也。而して虚子依然たり。小生呆然として詠(なが)め居候。
頃日多忙なり。碧梧は入社早々醜聞を流し、おまけに無学の評あり。新聞の益にはたたず、小生は独り悶悶たる折柄、歓迎会送別会と暇なきを以て自分の仕事は一歩も進まず、やや気違いじみたる折柄、最早堪えがたく相成、昨夜寒風凛々たるをものともせず虚子を訪い候いしに虚子不在なり。小生の気はいよいよいらちたり。直に手紙を発して今朝来れと命ず。今朝起きて待てども待てども虚子来らず。きょうはやけになって分類に従事致居候えども、虚子のことのみ気になりて捗取り不申。やがて虚子の来りたるは十一時頃なりしならん。それよりともに午餐をとうべ、社へは不参の趣届置、虚子を携えて道灌山に到り申候。小生未だ歩行に馴れず、行程十町三四十分を費す。ようように茶屋に腰掛けて、手詰の談判をはじめたり。
君は学問する気あり否や。
千問万答、終に虚子は左の如く言ひきり侯。
文学者になりたき志望あり、しかし身後の名誉は勿論、一生の名誉だに望まず。
学問はせんとは思えり。しかしどうしても学問する気にならず。
人が野心名誉心を目的にして学問修業等をするも、それを悪と思わず。然れども自分は野心名誉心を起すことを好まず。
つまり、一言にしてつづめなば、文学者にならんとは思えども、いやでいやでたまらぬ学問までして文学者になろうとまでは思わずとの答なり。小生いう、
それならば予と我と到底その目的を同じうする能わざるものなり。
虚子いう、
厚意は謝する所なり。しかし忠告を納れて、これを実行するだけの勇気なきを如何せん。
吁、命眠は全くここに絶えたり。虚子は小生の相続者にもあらず。小生は自ら許したるが如く虚子の案内者にもあらず。小生の文学は気息奄々として命旦夕に迫れり。今より回顧すれば虚子は小生を捨てんとしたること度々ありしならんも、小生の方にては今日まで虚子を捨つる能わざりき。親は子を愛せり、子を忠告せり。然れども神の種を受けたる子は、世間普通の親の忠告など受くもあらず。子は怜悧也。親は愚痴也。小生は箇程にまで愚痴ならんとは自ら知らざりき。小生蕭然としていう。忠告を納れずとも、子は文学者とならぬとは限らず。我も絶交するというには非ず。ただ普通の朋友として交際し、今まで自ら許したる忠告の権利及び義務を抛棄すべし。
正直なる者は最後の勝を制す。子にして野心なくんば却て無上の栄誉を得んも測られず。しかし野心ある者の勝を制すること少からむも、また俗世間の常態なり。子にして野心泣くんば零落して乞食非人ともならぬとは限り難し。
然れどもそれ不遇なり。世間の悪気なり。子は悪きに非ず。子は何処までも高尚なり。我らの及ぶ所に非図。我は飽くまで人物の上に於て子を崇拝す。仮令我をして無上の栄誉を得せしめ、子をして物のあわれに零落せしむも我は尚人物の上に於て君を崇拝せん。
しかし我は文学者たらんと欲するなり。他日我が栄誉を得たる時は、これ文学者樽を得し時ならん。その時に子をしてもし零落し尽さしめば、胸中に如何の文学思想あるも、最早世上のいわゆる文学者に非るなり。この時……この刹那……子は人物の上に於て我を笑わん……我は文学の上に於て子を冷笑せん。
咄談話は途断えたり。夕陽うしろの木の間に落ちて遠村模糊の裡に没し去り、ただ晩鴉の雁群と前後して上野に帰るあるのみ。
一語なくして家に帰る。虚子路より去る。さらでも遅き歩は更に遅くなりぬ。懐手のままぶらぶらと鴬横町に来る時、小生が眼中には一点の涙を浮べぬ。今後虚子は栄ゆるとも衰うるとも我とは何等の関係もあらず。去れども涙は何を悲んでか浮び出たる。鳴呼正直なる者は涙也。義理づくにて久離きりたりとも縄かけられる子が可愛うのうて何としょう。虚子はどこまでも紳聖也。この後どこまでも紳聖なるべし。彼は文学者となるには余り神聖過ぎたり。彼は終に文学者の材料となり卒んぬ。
小生の文学は実を結ばずして草頭の露と消え去らん。虚子は終に小生をして人物の上に崇拝せしむべし。虚子は零落すればする程、益神聖に益高尚なるべし。小生は虚子が益高尚に益神聖になるを望むと同時に、一点の愁涙は相浮ぴ申候。もし零落して後、神聖にも高尚にも無くば、虚子は小生をして再び人を見るの明なきを證せしめたるものに可有之候。非風去り碧梧去り虚子また去る。小生の共に心を談ずべき者、唯貴兄あるのみ。前途は多望なり、文学界は混乱せり。源語は読了せしや如何。俳句は出来しや如何。小説は如何。過去は如何。現在は如何。未来は如何。一滴の酒も咽を下らず、一点の靨(えくぼ)もこれを惜む。今まででも必死なり。されども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり。死はますます近きぬ。文学はようやく佳境に入りぬ。書かんと欲すれば紙尽く。喝ツ。(明治28年12月 五百木瓢亭宛て書簡)