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KANGE's log

映画「 ウエスト・サイド・ストーリー」

2022.02.20 02:03

【悲恋の歌から移民の歌へ、古典の名作のアップデート】

1961年のロバート・ワイズ版は、リアルタイムの世代ではありませんが、ずいぶん昔に観て、もう30年ぐらいは観ていませんでした。舞台も観ていません。もちろん、話のベースがロミオとジュリエットなので、大筋は結末まで含めて知ったうえでの鑑賞です。

まず、すでに61年版が名作ミュージカル映画と評価されているにもかかわらず、「なぜ今?」「なぜスピルバーグが?」という疑問が、どうして頭に浮かびます。

もちろん、61年版はプエルトリカンの役を白人俳優が演じていただとか、本来スペイン語で話すべきセリフも英語だったりだとか、役を演じている俳優の歌唱ではなく吹替だったりだとか、現在の映画作りのスタンダードに合っていないところをアップデートするという意味はあるかと思います。でも、名作と言われる映画が山ほどある中で、本作である意味は何なのかというのが、鑑賞前に感じていた疑問です。

その点で、今回、最も印象的だったのは、ヴァレンティーナです。61年版には存在していなかったキャラクターです。演じるのは、61年版でアニータを演じ、本作の製作総指揮にも名前を連ねる、リタ・モレノ。

ヴァレンティーナはプエルトリコ人でありながら、白人のドクと結婚し、彼のドラッグストアを受け継いで、刑務所から出てきた主人公トニーを雇って面倒を見ているという人物です。ある意味、対立する両陣営のセンターラインにいるとも言えます。きっと彼女は、白人と結婚し、この地で暮らしてきたことで、いろいろと苦労をしてきたことでしょう。

彼女の存在は、次元を超えてやってきた61年版のアニータの60年後であり、またマリアのあり得たかもしれない未来の姿の1つとも言えるのではないでしょうか。

ヴァレンティーナのように、人種の違いを乗り越えて、人生を送ってきた先人がいるにもかかわらず、街の人たちは、いまだにその場所を奪い合うように衝突を繰り返している。そして、同じように、60年後の今の社会も、分断がなくなるどころか、それを煽るような風潮さえ見られます。当時よりも酷くなっていないか?と。

そのヴァレンティーナが歌うのが、「Somewhere」です。「いつか、どこかで、新しい生き方が見つかる、赦しあう道が見つかる」。決して許されることのない関係のトニーとマリアの悲恋の歌が、移民たちの「それでも、私たちの場所を求め続ける」という、より普遍的な歌に昇華されたのだと感じました。

これこそが、本作をリメイクした意味なのでしょう。

61年版を観たときには、当時の私の理解が追いついていなかったこともありますが、人種や格差の問題よりも、アメリカの若者のカッコ良さ、女性たちの華やかさの印象の方が勝っていた気がします。不良グループたちの衣装も、61年版では、けっこうカラフルでしたが、本作では控えめになっていました。裕福ではないはずの彼らのリアリティでしょう。

一方で、女性たちの華やかさは変わらず、という気もしました。それでも、まだアメリカに希望を持っている女性たち。スピルバーグ自身が、女性たちにこそ希望を持っているということなのかもしれませんね。

もともとのウエスト・サイド・ストーリーが、夢や希望にあふれた華やかなミュージカルの世界に、「分断とそれによる悲恋」というシリアスなテーマを持ち込んだという点でエポックメイキングだったのだと思います。本作では、歌やダンスの華やかさはそのままに、そのシリアスなテーマが強調され、古典的な名作を現代の私たちの手元に引き戻してきました。

ただ、ちょっと気になったのは、そのシリアスさに、演技・演出が追いついていたかというところ。特に、ラストの展開、アニータからマリアのことを聞かされたトニーの言動は、なんだかフワフワしているように感じました。もっと、地獄の底に突き落とされたような状態のはずです。「それも、若さゆえのリアリティ」と言われれば、そうなのかもしれませんが…。全体的に、トニー&マリアよりも、アニータ&ヴァレンティーナが持って行ったという感じがあります。