「ざあます」詞
今でこそ「○○ざあます」なんて言う言葉を使うご婦人は、聞きませんが、明治頃から、終戦後・昭和中期と、聞きおよんだ人も少なくないでしょう。
裕福な人のいる東京山の手でも使われたと言う事で、「山の手詞」とも称されたと言います。
この「ざあます」詞、何処から来たかと言えば、元は、江戸吉原遊郭でのことだと言います。
「ありんす」「あちき」「おさらばえ」「おいでなんし」など、遊郭でも、客のひいきが大きかった遊女は、ご存知の「花魁(おいらん)」という地位が高かった遊女。
「ざあます」も、あの独特の言葉のひとつと言います。
何が言いたいかと言うと、裕福な婦人たちに、何故この「ざあます詞」が使われたのかという事です。
郭詞と言うからには、身分差別からしても、明治の世に、上流階級と言うのであれば、使わないのではないか、です。
ちなみに、吉原は別名「アリンス国」の名称が有ったと言います。これは初耳ですが、ネット検索すれば有るので、私がただ知らないだけという事ですが。
ただ、言葉と言うのは、人類が文化をはぐくみながら生活の中で大切にし、未来へ継承してきた、非常に大切なもの。
それをめったやたらになし崩しにしてしまう様な文化になってはいけないと言うものです。
世界共通語として、かつてはエスペラント語の提唱が言われましたがいつのまにか消えました。それよりも、英語が世界共通語の様な時代です。
これはこれで素晴らしいし、英語は、外国語の中では、学習しやすい言葉の1つでもあると言われるのですから、これで然りと言えます。
しかし、「英語も話せる」と言うのと、「日本語をやめて英語をメインに」の様な考え方とは全く次元の違う話です。
一民族の使うことば。それは、その国の、その民族の宝です。
何処の国にも色々な国の人々が平和に生きかい、住めるような世界と言うのは理想世界の様に見えます。
しかし、そこには、独自の文化が多国籍の人の中で、様変わりしやすいのも事実です。
多民族国家を見ればわかるように、国家統一と言うのは、ストレートには行きません。
アメリカがいい例ですが、人種のるつぼが生み出す人種差別ばかりが永遠に続きます。
そして、例えば日本に外国の一民族が多くをどこかに占めて定住すると、初めは日本の法律を遵守しても、いつかは、自分たちの権利を主張しやすいものです。それは何処の国においても同じです。
それは社会秩序を乱す元です。
ことばも進化しますが、安易なことばの乱れは、社会に影を指すことも有ります。
一国の文化を維持継承していくのは、その国に住んでいる人々の義務であり、その為の方策を常に考えていくべきことです。
いとも簡単に、グローバル化を進展すればいいものでもないでしょう。
「そんな保守的な考え方では、世界が平和になれない」とか言う対象ではないはずです。
国を守ると言う事に対しては、基本とする考え方は、保守的であることが必要です。
「ことば」を守るのも、国民の義務です。
※「郭詞」を集めた本を宮部外骨(みやたけがいこつ・著作家)と言う人が書いているようです。宮部外骨著作集(河出書房)。