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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 192 (18/06/22) 旧真和志村 (23) Makishi Hamlet 牧志集落

2022.06.19 11:16

旧真和志村 牧志集落 (まきし、マチシ)



もうすぐ梅雨が終わる様だ。天気予報では来週一杯は雨が続く様だが、それで梅雨明けとなるとなっていた。今日も予報では終日雨だったが、今朝の予報では晴天と変わっていた。沖縄の天気は気まぐれなので、途中で大雨になるかもしれないので、今日も近場を散策する。旧真和志間切の集落巡りも終盤に入っており、後もう少しで終わる。今日はその残りの一つ、牧志集落をめぐる。この牧志には、この日の後、6月20日、22日、24日にも訪れている。訪問した後、レポートを調べながら書いていると、見落としていたところや、もう一度確認したいこと、新たな興味を引くものなどが出てくる。それで何度か訪れることになる。これは他の集落巡りでもよくあることで、ほとんどの集落は、二回は訪れる。そうなるので、集落訪問は手前の村から巡り、見落としや確認したいときは、次の村を訪問する途中で立ち寄ることにしている。



真和志村 牧志集落 (まきし、マチシ)

牧志集落は、昔、真和志間切の中の村だった。 安里川をへだて、安里と対峙しているが、昔は二つを合わせて安里牧志と称した。1903年 (明治36年) に真和志村から那覇区間内に移され、現在は本庁管轄の地区になっている。昔は壺屋と牧志は隣接した町で那覇市の場末といった静かな町であった。 昭和のはじめ頃、松尾から安里八幡まで県道が開通して、 ガーブ橋、蔡温橋附近にいたるまで、ぽつりぽつり家が建った程度だった。昔はこの辺りは那覇の中心では無かく、松尾とともに戦前は那覇市の郊外になっていて、墓地と芋畑の多い湿地帯だった。終戦直後、この県道の中間に、アニーパイル国際劇場を開設されてから、劇場を中心に商店や靴屋、時計店、写真屋ができ自然発生的に街が誕生し、後に、いわゆる奇蹟の1マイルと呼ばれる地域となった。地図でも終戦後の1948年には現在の国際通りの北側に民家が集中しているのが分かる。

戦後、旧那覇市の都心一帯がまだ開放されないうちに、 壺屋と牧志が住宅建築の許可が降りたので、自然と避難所や外地からの引揚げ者がこの一帯に密集していった。この一帯の復興、発展の原動力は自然発生的な闇市場だった。当時は、未だ自由経済は許されず (自由経済の実施されたのは1948年11月) その購売品もすべて禁止品のアメリカ製品で、公然と販売し得る物品はなく、最初は約50名の露店商人により取締当局の監視の眼をくぐりぬけ取引が営まれていた。ただ、当局は取り締まると住民生活に影響が及ぶので、公設市場を設置した後に移転することを交換条件として黙認していた。1948年に牧志公設市場に移転時には500名が商売を行っていた。公設市場では非公式に任命の指導員を置き、使用者の共済会を組織し市場使用料にあたる徴収金を設け、これで、市場内の整地費事務費などをまかなっていた。その後、現在の国際通り沿いには、次々に商店が建ち並び、山形屋、松坂屋、並里百貨店、大越百貨店なども進出して一大商業地となっていく。更に、東宝館、国際琉映、グランドオリオン、桜坂オリオン、桜坂琉映、沖映など映画館も多く開業し、それに伴い娯楽を目的にした業者や飲食店街もできていった。

現在では国際通り沿いには、各商店街が並び、この通りが、沖縄のメンストリートとして繁栄し、この牧志が那覇都心部となっている。 

牧志の人口については1890年以降1959年までのデータが見つからなかった。もっと探せば見つかるのかもしれないが、これに時間はかけたくないので、大まかな傾向が判れば良しとする。那覇市中心部の集落情報は非常に乏しい。これは那覇市の文化財に対する方針と戦前でも早い時期に他の集落とは異なり、寄留民の割合が非常に高く、沖縄集落伝統の門中中心の血縁集団組織が崩れていったことにあると思える。那覇市中心部にあった集落の村誌、字誌は非常に少ない。それを編集作成するには昔からの集落住民の行動が必要だが、その地域内で元住民の割合は天然記念物化している。この字誌の作成にはこのように元住民の意欲と、それに加え、行政の指導、支援が必要だが、那覇市はマクロ的な歴史編集には関心はあるが、集落単位での歴史、文化財に対しては他の行政に比べ力が入っていない。少し残念に思う。時間が経てばたつほど、当時を語れる人は少なくなるので、今後も期待できないだろう。人口データが見つかった中では1961年が18,000人とピークになっている。世帯当たりの人数も4人で少なくなってはいるが、家族単位で移り住んでいるのが判る。それ以降人口は減り続け現在はピーク時の三分の一の5,500人で横ばい状態になっている。世帯当たり人数も1.7人となり、大都市特有の現象がみられる。多くの土地は商業施設となり、地方からやhん度から仕事で転入した単身者の割合が高くなっているのが背景にある。

明治時代はこの牧志は那覇の中心ではなく、郊外に当たり人口も380人程で小さな村だった。戦後、旧那覇市中心は米軍により立ち入り禁止となり、いち早く帰還が認められたのが壺屋と、この牧志だった。現在の国際通り中心に闇市が発生し、那覇市第一の繁華街に発展していく。1972年の本土復帰時は人口が減り始めたころだがそれでも旧真和志村の中では三番目に人口の多い地区になっている。その後も人口は減り続け、現在では5,500人で旧真和志村で人口は真ん中ぐらいに位置している。

旧牧志集落で、どのような祭祀が行われ、現在ではどのように維持されているのかについての文献は見つからないのでわからないが、牧志では相撲行事が続いている。祭祀的要素も残ってはいるのだが、それ以上に地域住民の娯楽性の高い祭りとして続けられているようだ。

琉球王統時代は西之御嶽が集落の守り神として崇められており、牧志村の祭祀は安里ノロによって執り行われていた。


牧志集落訪問ログ


まずは元々牧志集落があった、国際通り北側、安里川に近い地域をめぐる。この地域は、国際通りからそれ程離れていないのだが、戦後建てられた民家と商業ビルが混雑している。



牧志東之御嶽 (マチシアガリヌウタキ)

牧志駅や蔡温橋の近くにある牧志公園内に牧志東之御嶽 (マチシアガリヌウタキ) がある。牧志西之御嶽 (マチシイリヌウタキ) と共に牧志御願 (マチシウグヮン) と呼ばれている。鳥居を潜った階段の上に琉球瓦葺の祠があり、その中にヤガノ森コバノ御イベと刻まれてた石が置かれている。

御嶽前は広場になっている。ここはかつては闘牛場だったそうだ。現在では闘牛は行われていないが、この広場で広場では、毎年5月の第4日曜日に「牧志ウガン奉納大角力大会」が行われている。沖縄の角力 (相撲) は本土の相撲と少し異なり、道着、紅白の帯、鉢巻きを身に付け、決められた形で右四つに組んで勝負を始め、相手の背中を地面につければ勝ちとなる。この大角力大会の優勝者の名前は鳥居の前の塀に刻まれている。この牧志ウガン奉納大角力は300年以上の歴史を持つが、一時中断していたのを、1993年に復活している。


竜宮神井 (リュウグウシンガー)

東之御嶽の祠の右横に、龍宮神井 (たつみやかみい、リュウグウシンガー)の拝所がある。ここを流れている安里川は、今は埋め立てで面影は無いのだが、かつては海からの入江になっており、川幅も広く船も入ってきていた。その為に住民生活は海との繋がりがあり、龍宮神を祀っていた井泉があった。ある資料では、東之御嶽はこの龍宮神井を祀ったものという。本来の牧志御願は西之御嶽という。


牧志ヌ東ヌ井泉 (マチシヌアガリヌカー)

東之御嶽から坂道を登り西に向かった所に東ヌ井 (アガリヌカー) がある。牧志集落の村井 (ムラガー) だった。今は蓋で塞がれているのだが、綺麗な石積みの井戸で、今でも湧水がある。


牧志西之御嶽 (マチシイリヌウタキ)

更に西に進んだ所に牧志北公園があり、ここにもう一つの牧志御願の拝所がある。牧志西之御嶽 (マチシイリヌウタキ) で、神名ヤガノ森コバノ御イベを祀っている。祠は二連構造になっており、右側が西之御嶽になる。左側は土帝君を祀っている。この土帝君は、移設されたもので、移設前には、国際通り付近にあり瓦職人が拝んでいたが、国際通り整備の際にここに移されている。


牧志ヌ西ヌ井泉 (マチシヌイリヌカー)

牧志西之御嶽 (マチシイリヌウタキ) の近くには西ヌ井泉 (イリヌカー) がある。先程は東ヌ井泉があったので、この二つの井戸の間が村の中心だったのだろう。


拝所

牧志ヌ西ヌ井泉 (マチシヌイリヌカー) のすぐ近くに拝所があった。井戸だった場所の様に思える。


牧志ヌ後道ヌ畑ガー(マチシヌクシミチヌハルガー)

東之御嶽から安里川を北側に進んでマックスバリューの北側のアパートの通路奥にも井戸跡がある。この井戸についての情報は見つからなかったが、名前から推測すると、このあたりは畑でその中にあった井戸ということなのだろう。


玉御嶽

国際道りの北側の国際通りのれん街 (旧HAPiNAHA、旧沖縄三越)裏に玉御嶽の祠がある。この辺りもかつての牧志集落があった場所になる。この拝所の情報は見つからなかった。祠の前の香炉には「御井」とあり、そのとなりには泉水と書かれた筒がある。井泉を模しているのだろう。祠への階段の下にも泉水の筒がある。この拝所は御嶽とは呼ばれれいるのだが、どうも井泉を祀っているのではと思う。

戦後、1951年から1953年まで、ここには大宝館という映画館があった。火災で焼失壕、國場幸太郎に経営権が移り、東宝劇場と改称し、1963年まで営業していた。その後は沖縄三越、HapiNahaを経て、現在は国際通りのれん街となっている。


緑ヶ丘公園

牧志集落があった場所の西側の外れに緑ヶ丘公園がある。ここに張獻功と渡嘉敷三良の墓が残っている。


渡嘉敷三良の墓

公園内には古墓があり、国場に関係のある渡嘉敷三良の墓になる。16世紀に中国からやってきた瓦づくりの職人で、永住して妻を迎え国場村に住み、その近く瓦屋原に窯を設けて瓦を焼いていた。字国場では、今日でも瓦工の祖として唐大主 (トウウフシュ) として敬われている。


張獻功の墓

公園の北の外側にもう一つ古墓がある。これも国場に関係のある張獻功の墓になる。張獻功は丁酉再乱の時、薩摩に捕らえられた高麗人陶工で沖縄に陶磁器技術を伝播した人物。真玉橋付近の国場の瓦屋原 (カラヤーバル) に住んで、陶舎を建て、焼き物を製造し、湧田窯の創始者となった。帰化し、仲地麗伸の和名で国場村の12の門中の上嘉数門中の始祖といわれている。


天日井 (ティーラガー)

緑ヶ丘公園の南に外れた所に、天女伝説が伝わる天日井 (ティーラガー) がある。沖縄には幾つもの天女伝説がある。ここに伝わる天女伝説がどの様なものなのか、宜野湾真志喜の森之川 (ムイヌカー)、銘苅のスグルガー、南風原の宮城の御宿井 (ウスクガー)、西原町我謝の烏帽子ガー、与那原の親川 (ウェーガー) と同じ伝説なのだろうか?


長虹堤

安里橋からは、1451年に、琉球王国によって伊辺嘉麻 (威部竈、イベガマ、那覇市松山付近) まで全長約1キロメートルの堤防と7つの橋からなる道路が建設され長虹堤と呼ばれていた。かつての那覇は浅い入り江とその入口をふさぐように横たわる浮島と呼ばれる島から成っており、中国王朝からの使者はこの浮島 (旧那覇) に上陸し、浅い海を渡って首里へと向かった。この時には琉球王府は使者を迎える際に国中の船を集めて舟橋を設置していた。1450年 (景泰元年) に第一尚氏五代王尚金福 (1398年 - 1453年 在位1450年 - 1453年) が当時の宰相懐機に下命して建設させた。

建設された堤は、当初、浮道と呼ばれていたが、1633年に来琉した冊封使の杜三策に付き従って琉球を訪れた胡靖が「遠望すれば長虹の如し」と述べたことから「長虹堤」と呼ばれるようになった。長虹堤の建設によって浮島と首里とを隔てていた浅い海に土砂の堆積が進み干潟が形成された。この長虹堤により、交通の便が良くなり、那覇への人口集中が進み住宅用地が不足するようになったので、第二尚氏13代尚敬王の時代、1733年頃から干潟を埋め立て住宅用地となった。


1756年に14代尚穆王の即位の儀式の為に冊封使として琉球を訪れた周煌による「琉球国志略」に収められた絵図の中山八景の一つの長虹秋霽に長虹堤の様子 (図左)が描かれ、この絵図を元にした葛飾北斎の筆による浮世絵「琉球八景」(図右) も制作された。


長虹堤が伸びていた地図があるので、そのルートに沿って探索することにした。


宗元寺橋 (安里橋) 跡

1451年の長虹堤築造当時に架けられたらしい。何回か損壊し架け替えられ、石橋から木橋に、そして、約72mの三連アーチの石造橋となる。崇元寺で冊封使が諭祭行う際には、国王がこの橋のたもとで冊封使を迎えた。1945年 (昭和20) の沖縄戦の際、米軍の進攻を遅らせるため日本軍により爆破。戦後、元あった場所より50m程上流に崇元寺橋として架け替えられた。崇元寺橋の欄干は、戦前の安里橋の欄干がモチーフになっている。今は工事中で、橋は見えない。下の写真は3年前に写したもの。


牧志長虹橋

かつての長虹橋の遺構は現存していないのだが、安里橋 (崇元寺橋) の所で安里川からその支流となる久茂地川を渡る橋がある。それが牧志長虹橋 (マシチチョウコウバシ) と呼ばれている。この橋は平成15年3月竣工で、長虹堤の一部でもないのだが、長虹橋の名だけは残っている。元々の安里橋はこの牧志長虹橋を横断する方向に架かっていた。


十貫瀬ヌ前 (ジックヮンジヌメー)

かつての崇元寺橋 (安里橋) から美栄橋の間の通りは、かつての長虹堤跡の通り道で、現在は十貫瀬通りと呼ばれている。十貫瀬通りと呼ばれ、戦後は神里原や桜坂に続いて発展した歓楽街として知られた十貫瀬社交街があり、ラーメン付きで1ドル売春宿が立ち並んでいたそうだ。現在は住宅街となっており、数年前まであった社交街の名残は完全に消滅している。下の写真はまだ社交街の名残があった頃のもの。旅館が多かったが、その旅館が実は売春宿だったそうだ。

この通りに、こんもりとした林がある。この道はかつての長虹堤だったので、浅瀬の海にあった小島か岩礁だったのだろう。この林の中にある岩は十貫瀬の前 (ジックヮンジヌメー) といわれた。これはある人が岩の上に十貫の銭を置き忘れたが、五~六年後、戻ってみると元の通り岩の上に残っていたので、この岩を「十貫瀬」と呼ぶようになったという。岩があるのだが、これが十貫瀬の岩なのかは定かでは無い。強引に林の中に入ると墓があった。

この後訪れる七つ墓のある七星山の岩山の一部が十貫瀬といわれているのだが、ここから七星山までは少し距離がある。そうであれば、岩礁というよりは小島の方がイメージとしては妥当だろう。


七つ墓 (ナナチバーカー) 

緑ヶ丘公園の北側にはガーブ川があり、その対岸に小高い丘が見える。この丘については中国皇帝の冊封使の記録に七星山としての記載が見られる。屏風絵には長虹堤の側にこの丘が描かれている。長虹堤はこの側を通っていた事が分かる。という事は、この丘の向こう側、北側は海だった。この丘には七つ墓 (ナナチバーカー) が並んであったといい、子どもの為にアメを買う幽霊の伝説が残っている。岩山で幽霊伝説がある。「昔、この岩山近くのお店に子供のお菓子を買う女性がたびたび現れた。その女性が置いていくお金が翌日には紙銭 (カビジン) に変わるので、不思議に思った店の主人が、ある日女性の後をつけていくと、墓の中に入っていった。墓の中を覗いてみると、驚いたことに死んだ母親の側で赤ん坊がアメをしゃぶっていたという。子供を思う母親の気持ちが現れた幽霊話だ。」墓が残っているのか興味が沸き、近くまで行ってみると、丘は柵で囲われていたので、柵の外から見ると斜面にいくつもの墓があった。7つ以上あるようだ。ここで会ったおじいから幽霊の伝説の話を聞いた。


美栄橋跡

十貫瀬通りを旧那覇方面に進み七つ墓を越えると、かつての長虹堤の7つの橋の一つである美栄橋がかかっていた場所に着く。ゆいレール美栄橋駅前広場には新修美栄橋碑が建っている。長虹堤建設後、那覇が発展して行くに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまった。そこで、川を浚え、橋を架け替えることになり、1735年 (雍正13年) に着工し、翌年に竣工しました。その経緯を記してあるのが、この新修美栄橋碑だ。碑文にはエ事に要した費用などが記載されている。その後、美栄橋は1892年 (明治25年) に改修されたが、沖縄戦で破壊されてしまったが、この碑は消滅を免れる、現在地に移して保存されている。元々の橋は美栄橋駅の那覇方面に少し行って所にあった。


伊辺嘉麻 (イビガマ、チンマーサー) 跡

せっかくなので、牧志ではなく松山地区に入るのだが、長虹堤の端まで行ってみる。長虹堤は美栄橋で現在の久茂地川をわたり、国道58号線を渡った所、松山交差点の手前辺りが長虹堤の那覇側起点になり、ここにはイビガマがあったそうだ。チンマーサー跡ともいわれているので、住民が集う広場があったようだ。現在ではその名残はなく、どこに伊辺嘉麻 (イビガマ) があったのかは不明のままで、資料によって、その場所はまちまちだった。国道58号線から北側に少し入り、今では存在しないのだが、琉球王統時代に美栄橋からの道沿いにあった様だ。

別の資料ではアパホテルの駐車場入り口辺りとしている。


ここまでは国際通りの北側の旧牧志集落があった地域を巡ったが、次は国際通りを南側に渡った地域を散策する。



水神ガー

希望ヶ丘公園からアーケード街への路地の途中に水神ガーと呼ばれる拝井があった。井戸は使われていない様だが、井泉にいると信じられていた水神を祀っている。


希望ヶ丘公園

国際通りから南へ伸びる桜坂中通り沿いに小高い丘があり、そこは希望ヶ丘公園となっている。それ程大きな公園ではなく丘の周りと丘上へは遊歩道が整備されて、一画には子供の遊び場があった。公園入り口には那覇大綱引きで使われた綱が雄綱と雌繋がカヌチ棒で結ばれたパートが展示されていた。三年前にはこの那覇大綱引きに参加したが、かなりの盛り上がりだった。今年は開催されるのだろうか?

この公園も野良猫の縄張りになっている。餌を持ってきてあげている人を見かけた。近くにはアーケード街の食堂や飲み屋が多くあるので、食うには困らないのだろう。全く逃げない。居心地がいいのだろう。皆んな桜耳になっているので、避妊処理は終わり市民権を得ている様だ。


陣地壕跡

公園内に洞窟跡がある。沖縄戦で住民の避難壕、そして旧日本軍の陣地壕として使われていたそうだ。桜坂中通りにも壕への入り口 (写真右下) がある。丘の下は壕で繋がっているそうだ。公園内の壕入り口には香炉が三つ置かれていた。拝所になっている様だが、その経緯は見当たらなかった。墓だったのか、ここに避難し助かった事への感謝の意味なのだろうか。


明天宮

公園内にある子供の遊び場の隣に祠があった。鳥居があったようで朱塗が剥げた日本の柱が建っていた。この拝所についても情報は見当たらず。


国際通り

那覇市の県庁北口交差点から安里三叉路までの約1.6kmの県道39号線は那覇最大の繁華街の国際通りと呼ばれている。この通りの始まりは、1933年 (昭和8年) に旧那覇市中心部と首里市を最短距離で結ぶ県道の新県道、または、牧志街道と呼ばれ、郊外の一本道で人家も少なく畑や湿地帯が広がっていた地域だった。沖縄戦後、那覇の中心部はこの牧志街道周辺から復興が始まった。

ここには1948年に建設されたアーニーパイル国際劇場があったことから国際通りと呼ばれるようになった。アーニーパイルは世界的に有名な米国従軍記者で、沖縄戦にも従軍したが、1945年に伊江島にて戦死した。米軍の強い要望でこの劇場をアーニーパイル国際劇場と命名された。1953年には牧志街道が大幅に改修され、戦後の焼け野原から目覚しい発展を遂げたこと、長さがほぼ1マイルであることから、「奇跡の1マイル」とも呼ばれている。

数ヶ月前まではコロナ禍で閑古鳥だったが、観光客も少しだが戻り始めている。ただ、シャッターを閉めたままの店も目立つ。

以前はアーニーパイル国際劇場があったてんぶす広場でイベントが行われていたのだが、この夏は再開されるだろうか? 下の写真は三年前に撮った国際通り。この様な活気がいつ戻るだろう。


水上店舗市場本通り

国際通りの中心地からアーケード商店が何本かある。その一つに少し変わった地形になった所がある。この辺りには来る時はいつもここに自転車を停めていた。この場所だけが堤の様に一段高くなっている。

ここはかつてむつみ橋があった場所で、ここにはガーブ (我部) 川が流れていた。このガーブ川の東が牧志で西側は松尾になる。これからめぐるアーケード街は牧志と松尾にまたがっているが、この牧志訪問記に含めておく。

戦後、この橋の両岸に闇市がたけのこの様にでき、大いに賑わっていた。那覇にはこの様な露天店が至る所にあった。

ただ、ガーブ川の両川岸は高さが異なり、大雨では、片岸の方に水が溢れていた。この対策として、ガーブ川を暗渠化して、その上に商店街が整備された。水上店舗と呼ばれる様になった。この堤状になっているには暗渠にした場所でこの下にはガーブ川が流れているのだ。


市場本通り

ガーブ川の暗渠上に造られた水上店舗の両側、つまりかつての川岸に市場本通りとむつみ橋通りの二本のアーケード街がある。まずは市場通りに入る。数ヶ月前に来た時より、観光客が増えている。外国人も多く見かけた。隣のむつみ橋通り、平和通りへの通路は暗渠の堤を越える様 (写真右下) になっている。


むつみ橋通り

市場本通りに並行して走っている通り、国際通りから入った所は幅が広かったのだが次第に狭くなり、市場本通りと平和通りへの分岐点に出る。この所では一段高くなった暗渠跡がよくわかる。この通りと市場本通りの間が水上店舗第一街区になる。


第一牧志公設市場

この三本のメイン通りの分岐点の場所、市場本通りに面した所に第一牧志公設市場跡がある。このあたりは戦後間もない頃の自然発生的に闇市が集まっていた。ガーブ川氾濫の被害や、無秩序な闇市で治安の悪化や衛生面の問題もあり、1950年 (昭和25年) に牧志公設市場を建設して開設された。那覇の大市場 (ウフマチ) として、マチグヮー (商店街) のシンボルとなった。開場した後に、土地所有者とのトラブルが発生し、新たな移転先として第二牧志公設市場を開設し、ここは第一牧志公設市場通り名称を変更した。第二牧志公設市場は、通りから少し離れていることから、店舗の移転は進まず、第一牧志公設市場は取り壊されず存続した。しかし、何十年も経ち、建物や設備の老朽化により、平成26年度に「第一牧志公設市場再整備合意形成推進事業基本構想」、平成28年度に「那覇市第一牧志公設市場再整備事業基本計画」を策定し再整備事業に着手した。

令和4年4月の開場を予定していたが、令和5年4月頃の開場予定と遅れている。


仮設牧志公設市場 (第二牧志公設市場跡)

新牧志公設市場の工事中は近くに仮設市場を設置して営業をしている。この場所は1969年に第二牧志公設市場が開設されていた場所。この第二牧志公設市場は2001年に閉鎖され、にぎわい広場となり、個人の起業家などの小規模店舗を集めていた。下の写真は仮設市場が設置される前のもの。

第一牧志公設市場建て替えの為に2019年にこの場所に仮設市場を建設した。仮設市場では一階は店舗、二階は食堂になっている。以前営業していた店舗全てがここで仮営業をしているのか? 案内図では、生鮮・乾物・その他食品店舗が41、鮮魚店舗が16、精肉店舗が12、食堂が16と全部で85の店があるが、コロナ禍なのか、閉まっている店も多い。


パラソル通り

むつみ橋通りは、先程の分岐点からパラソル通りになる。写真左上の右側の二階建ての建物が水上店舗第二街区だった。左側が雑貨部と衣料部があった所。以前は広場になった所に通行人が休憩できるよう、1998年ごろにパラソルのあるテーブルと椅子が設置 (写真右上) されたので、いつしかパラソル通りと呼ばれるようになった。この場所は那覇市が民間から土地を借りていたが、昨年末で借地契約が終わり、ここにあった衣料部・雑貨部も閉鎖となり、市が現状回復の為、パラソルなどは撤去されてしまった。今は殆どの店舗は店を閉めている。ちょっと寂しい地域になってしまった。


八軒通り

パラソル通りの途中から平和通りに向かって八軒通りがある。看板には「日本一短い商店街、僅か歩いて24歩のストリート!」とある。残念ながら開いている店はほとんどない。


えびす通り

パラソル通りを進むと、今度はサンライズ那覇商店街に通じるえびす通りがある。国際通りから外れて距離もあるので、寂れてしまっており、開いている店は数えるほどだ。


うりずん通り

えびす通りと交わって、浮島通りと平和通りに繋がる通りがうりずん通りになる。服、かりゆしウェア、ボタン、生地、雑貨などを扱う店舗が軒を連ね、飲食店入り混じった通りとなっている。


市場中央通り

パラソル通りに並行して水上店舗第二街区の反対側が市場中央通りで、先程の市場本通りから続く商店街がある。お土産品店、衣料品、日用品雑貨など販売する店が多い商店街。


肉市場通り

市場本通りから工事中の第一牧志公設市場沿いが肉市場通りになる。名前から想像していたのは肉屋が立ち並んでいると思っていたのだが、肉屋は一軒あった。実は肉屋はこの通りに面した第一牧志公設市場内にあったのだ。工事中のせいか、店舗はそれほど開いておらず、活気は失われている。


惣菜通り

市場中央通りに並行して外側にもう一本通りがある。惣菜通りと呼ばれている。数軒総菜屋が並んでいる。安い弁当やおかずが売られている。この惣菜通りでは、何か映画の撮影が行われており、そろそろフィルミングする様な気配だったので足早に通りすぎる。


かりゆし通り

惣菜通りには外側へ名前は付いていない2本の通りと内側の市場中央通りへのかりゆし通りがある。どれも飲み屋街になっており、何軒かで、この昼間から盛り上がっているグループもあった。かりゆし通りも名前がついたのは2007年で、「めでたいこと」と言う意味の「かりゆし」にしたのだそうだ。残りに2本のスージーも名前はついているのだろうか?


浮島通り

えびす通りを抜けた所に車道になっている浮島通りが通っている。かつては、この通りに浮島ホテルがあったことが通りの名前の由来だそうだ。ここを超えると水上店舗第三街区に入る。


新天地市場本通り

市場中央通りから、水上店舗第三街区に入ると新天地市場本通りになる。国際通りから離れているので、観光客向けの土産店は無く、住民向けの衣料品の店舗が多く、乾物屋や飲食店も多くある。


新天地市場中央通り

新天地市場本通りと並行して、水上店舗第三街区を挟んで新天地市場中央通りがあるのだが、現在は店舗もほとんどなく通りとしては消滅してしまっている。


サンライズ那覇商店街

新天地本通りと平和通りを結ぶ通りがサンライズ那覇商店街でアーケード街の中では一番道幅が広い。この通りは名前から比較的新しいのかと思っていたら、意外と古く、戦後の復興期にできたマチグヮーで、闇市から始まり、店が多くなり新栄通り商店街と言う名前だった。この通りの端は開南地域で、那覇の中心が国際通りに移る前はこちら側が栄えていたそうだ。


太平通り

新天地本通りは太平通りに繋がり、水上店舗第四街区になる。ここを抜けると開南地区となり、観光客はここまでは来ない様だ。店舗は地域住民向けの八百屋や惣菜屋、喫茶店から日用品店などで、地元住民の台所といった感じだ。多くのおばあ達が買い物に来て、賑やかだ。弁当は150円から300円ぐらいの値付けで、那覇での平均単価が300円から400円なので、格安で提供している。この地域の店舗の店員さんや工事作業などが弁当を買っている。結構繁盛している。


平和通り

太平通り、サンライズ商店街を通り、平和通りを通って、国際通りに戻る。国際通りに近づくにつれて、観光客向けの土産物店がぎっしりと密集している。


グランドオリオン通り

てんぶす広場から国際通りを牧志駅方向に進むとグランドオリオン通りという路地がある。

ここにはグランドオリオンという映画館があったのでそう呼ばれている。この映画館も沖縄那覇復興期の1955年 (昭和30年) 末にオープンして2002年まで営業していた。那覇でも有名な映画館だった。

再開するといううわさもあったが、実現されず、跡地は屋台村となっている。


竜宮社交街

グランドオリオン通りの隣の路地は竜宮社交街と看板が出ている通り。グランドオリオン通りからは屋台村で繋がっている。社交街とあるので歓楽街だったのだが、今は寂れてしまっている。


桜坂劇場

この場所で、1952年に開業した芝居小屋の珊瑚座が開設され、1953年に映画館として桜坂琉映館に変わる。1986年に桜坂シネコン琉映として改装し、主に松竹や東映系の作品を中心に3スクリーン(スカラ座、ロキシー、キリン館)で営業していたが、2005年に閉館。 同年に桜坂劇場として再スタートしている。変遷はあったのだが、この地域では那覇復興時から続いている唯一の劇場だ。



今日は、今年一番の暑さだそうだ。熱中症対策で買った帽子をかぶっていたせいか、気分尾悪くならず無事終了。梅雨は来週いっぱいであけるそうだ。再来週からは、暑さと、スコールとの戦いになるのだろう。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)