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竹内レッスン

2022.02.22 13:52

Facebook今野 哲男さん投稿記事

名著『ことばが劈かれるとき』(竹内敏晴・著、思想の科学社、1975年)の刊行に前後して始まった、所謂「竹内レッスン」の一端をわかりやすく伝えるユニークな絵本が出た。

タイトルは、『竹内レッスン! からだで考える』(竹内敏晴・文、森洋子・画、藤原書店)。

本書に一文を寄せている竹内さんの愛娘・バレエダンサーの米沢唯氏が書きつけた、「『その場を生きる』ことこそ、からだで考えるということ」という言葉の意味するものが、無理なく伝わってくるまたとない貴重な本だ。

レッスンを絵にした森洋子氏は、「子供の頃の記憶をもとに1960年代の東京の路地を舞台にして、おもに鉛筆と赤鉛筆で絵を制作している」画家で、「竹内レッスン」には、2004年から2009年まで参加したという。その彼女の「あとがき」にこうある。

「『竹内レッスン』で行われた、人になって立ち上るレッスンは、私にとって当たり前のように立ち歩く日常から、あらためて世界を前に真に立つことを厳かに体験するレッスンでした」と。

「人になって」「世界を前に立つこと」とは具体的に何を意味するのか? 竹内さんの文と彼女の画によって紡がれた物語には、読者のこの疑問に応える、具体的で深い説得力がある。


https://note.com/moonpalace26/n/n7ba3441c63b4 【【読書メモ】竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(1975年)】より

私たちが普段意識することなく使っている「ことば」と「からだ」の関係性を、著者の経験をもとに省察し、人間が本来持っている可能性を劈く方法を書いた半自伝的な本です。真木悠介の『気流の鳴る音』以来、久しぶりに衝撃を受けました…。今回は様々なエピソードをごっそり抜いて、論旨だけを簡単にメモします。

1.内容抜粋

ことばは、本源的に、まず話しことばである。文字による文章表現は、良くいえば高次の、悪くいえば枝葉のことであり、話しことばができないということは、人間のコミュニケーションにとって本質的な障害であり、人間として大きな欠落がある、ということである。

話しことばの把握の仕方

(1)話しことばはこえの一部にすぎない。人間の発する音にはたくさんの種類があり、ためいき、うめき、叫び、うなりなどとともに、整序されたものとしてことばもある。だから話しことばは、まずこえを発する衝動がからだのなかに動かなければ生まれない。

(2)話しことばは、まずなによりも他者への働きかけである。相手に届かせ、相手を変えることであって、たんなる感情や意見の表出ではない。

ほんとうに全身が動いてこえが出るときは、こえを出そうと意識してはいない。なんとなく楽にしゃべれたとか、相手が近くに見えたとか、からだがひろがったとか、感じるだけである。これは、からだが世界へ向かって自己を超えることであり、それを著者は「からだが劈く」と言う。からだが真に働くのは、からだが忘れられ、からっぽになったときである。

われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラとしゃべれる者は、健康という虚像にのって踊っているにすぎない。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだを劈こう、とする努力ーそれがこえであり、ことばであり、表現である。

ことばは行動である。ことばには、意見の表明もあれば、感情の隠蔽もある、命令もあれば哀訴もある。だが、基本的には対象(他者)に働きかけ、その行動、あるいはイメージとか意見とかを変えることが、ことばの働きである。例えば手によって肩を叩いたり、一緒に車を引いたり、あるいは殴り合ったりするのと同じことで、「おい」という呼びかけから、数時間にわたる大演説まで、みんなこえによる、「他者」に対するからだの働きかけである。

自分のからだを流動体として感じることを通して、からだと世界の「既成概念こわし」が進行していった。メルロ=ポンティのことばを借りれば「内から存在すること、それから知覚すること」であって、「自然的自我=自己の発見」ということになる。「からだ」とは、意識(精神)に指揮使役される肉体ということではない。からだとは世界内存在としての自己そのもの、一個の人間全体であり、意識とはからだ全体の働きの一部にすぎない。

話しことばの基本的な問題

(1)話しかけるということは相手にこえで働きかけ、相手を変えることである。ただ自分の気持ちをしゃべるだけではダメなのである。一般にはことばは感情の発露だと考える傾向が多いけれど、それは自分のからだが閉じられている場合である。言うだけ言えばいい。相手がどう思おうと、言いっぱなし、という場合が多いのは、からだが他人(他者)に向かって劈いていないのだ。だがことばが他者との間に成り立つときには、まず働きかけ(行動)として機能する。働きかけることは、感情を忘れること、対象にふれようとすることだ。

(2)どう変わってほしいのかがはっきりしないと相手は変わらない。さまざまに言い方を変えても、相手は動かぬ。そして相手にとっては、まさに、私に、話しかけられているこえを聞くのである。それは名前によって判別したりするのでない、まさに自分のからだをめざし、ふれ、突き刺し、動かしてくる彼のからだを受けるのだ。

からだが劈いていく段階

(1)世界は私のためにある、自=世界が未分化な幼児的状態。

(2)その幸福な合一が破れて、世界が非自として現れ、自分を奪う。なんとかこれを理解し、納得しようと努力するも失敗する。傷ついた自分は、なぜ失敗したのか全く理解できず、ますます自閉へ逃げ込もうとする。

(3)「他者」がのからだが姿を現したとき。「他者」は完結し、凍結して入り込むことのできぬ世界であり、不可触の世界である。この場合、「他」にふれようとする「自」は、自らを他者の眼にとって受け入れられやすいだろうと予期される姿としてそこに立たせる。「自」を「他」と同質のものに化けさせて、「他」に近づかせようとする「自と化した他」であり、仮装の「われ」、にせの「われ」である。

(4)私のからだがただ主体であるだけでなく、私にとっても相手にとっても「もの」(三人称視点)として出現するとき、私のからだと相手のからだのふれあいが成り立つ。そして働きかけが相手のからだを動かすとき自分の動きが相手のからだにうつる。そして相手のからだの動きがまた私にうつってくるとき、私と相手とのからだが、同じ歪み、緊張を持ち、それをとりのぞこうと闘っているからだの姿勢を了解しあったとき、理解ということが始まる。

(5)あらゆる段階を飛び越して、自他が融合するときがある。一緒に仕事をする、闘う、あるいは遊ぶなど、とにかく日常の生活から飛び出して一つの場を作り、極度に集中し、すばらしく解き放たれ、自も他も忘れているとき、これが起こる。そして人間と人間とがふれあうとは、本来このことなのではあるまいか。

(6)(5)の状態は長続きしない。人はそこからふたたび目覚める。だが、(4)に戻るというよりはもっと新しいものとして。

2.コメント

僕が学生時代に読んでめちゃめちゃ影響を受けた真木悠介の『気流の鳴る音』は、平たく言うと「既成概念を壊すレッスンによって、新たに自己をつかみ直す」という内容でした。けれどもその議論は、現代社会を生きる僕たちにとってあまりに概念的で、「知る」という段階の先に行けていなかった。それが「生きる」という次元、すなわち「行動(実践)」という具体的な次元にまで根を下ろしているのがこの本なのかなという気がします。真木が自分の生きる「世界」を溶かし、異なる「世界」ないしは<世界>の存在を教えてくれたとすれば、この本に書かれているのはひとつの方法論に他なりません。デカルトが「事物の真理を探求するには方法が必要である」と言うまさにそのことですね。

本書の理論は著者の経験をもとに構築されたもので、本書にもいろんなエピソードが散りばめられていて、自分のことを言われているような、ドキッとさせられる箇所がいくつもありました。特に、ちくま文庫版の165ページにある青年のコンプレックスのエピソード。「おれはドモリだという劣等感こそ、かれの生のいちばん痛切な感覚であり、それを感じることが、かれにとって生きていることであった」という箇所です。コンプレックスと不自然な社会生活によって生じる「からだの歪み」は、人を悩ませ、同時に「生のいちばん痛切な感覚である」だなんて、こんなに苦しいことありますか、と。けれどもそれこそが自己表現の衝動、ひいてはからだを劈きたい!という強い衝動を生むんですね。

余談ですが、真木の『気流の鳴る音』をはじめとする諸著作、カール・ロジャーズの理論、そして本作は、人間のコンプレックスや「歪み」という「生きる次元においての障害」をベースにして有機的な深いつながりがあるような気がします。そんな研究がしたい。

さいごに、お気に入りの言葉を引用します。

「本当の道はこっちかもしれないけれども、しかし、自分には、今はこれしか見えない、という暗闇に一歩踏み出して行く、その決断にドラマがあるのではなかろうか。」(竹内敏晴)

では、そんなところで。