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中村鏡とクック25cm望遠鏡

伊達英太郎氏(2)

2022.02.23 05:47

 伊達英太郎氏(1912-1953)の晩年?の写真だと思われます。伊達氏が遺された膨大な資料を見る度に、几帳面な立派なお人柄が偲ばれます。

 季刊「星の手帖」1986年夏号、『特集:惑星観測』の中に伊達英太郎氏についての詳細な文章を見つけました。著者は、村山定男氏(1924-2013、天文博物館五島プラネタリウム館長、国立科学博物館理化学研究部長)です。

(季刊 星の手帖,阿部昭,星の手帖社,1986.8.1,P44-46より抜粋。)

「火星観測の想い出 村山定男

 伊達英太郎先生のこと

 1939年の大接近が終わると、東亞天文協会機関紙「天界」に遊星面課長伊達英太郎氏によって詳細な「火星協同観測結果報告」が発表された。(1940年2月〜6月)

 東亞天文協会(現在の東亜天文学会)の遊星面課は1933年末に新設され、会長の山本一清博士が課長、木辺成麿、伊達英太郎氏が幹事で、火星、木星、金星などの観測が活発に行われていた。特に火星は1935年の接近期にはじめて多くの課員(報告者は19名)が参加して協同観測がはじめられ、1937年にはいっそう充実した観測が行われていた。この頃の主要メンバーは木辺、伊達両氏に大分県の渡辺恒夫氏(後の佐伯恒夫氏)、京都市の前田治久氏を加えて、いわば四天王的な存在であった。

 1939年の大接近には、渡辺、前田両氏が戦地に出征していて不在であったが、何しろ大接近というので新顔も急増し、参加者は27名にものぼった。その中には私が今日まで親しくお付き合いを願っている坂上務九大名誉教授や、星図で有名な中野繁氏などの名が見えている。

 私はこの伊達氏の報告を熟読し、次回にはぜひ仲間に入れていただこうと考えたが、何しろ当時はたいへんに内気?な少年だったので、伊達氏に宛てて恐る恐る手紙を書いたのは次の1941年の接近期も終わろうとする頃であった。

 前回の接近にも観測をしたことをのべ、報告の様式などについて質問したのだったが、待望のお返事はすぐに返ってきた。こうして私が火星ばかりでなく望遠鏡や天体写真などまでを含めて最大の師と仰ぐ伊達先生との出会いがはじまったのであった。その頃は郵便事情も次第に悪くなって、大阪からのお手紙が東京に着くのに3日もかかっていたが、質問の手紙を差し出すと1週間後にはほとんど間違いなく丁寧なお返事をいただいた。ということは私の手紙を受け取られると、必ずすぐに返事を書かれたことになる。

 今から見ると拙劣なと思うような私のスケッチを褒めちぎってくださり、1941年の協同観測報告には新進の観測者として過分のお褒めにあずかった。この時に名を連ねた仲間には冨田弘一郎、保積善太郎などの方々もあった。

 後で知ったことであるが、伊達氏が通信で懇切に指導されたのはけっして私だけではなくて、どなたにも同じように事細かに返事を書かれていたのである。今日の私などはとかく筆無精で各方面に失礼しているが、その言い訳に何しろ昔に比べて天文ファンの数がたいへんな増え方で・・・などと言ってしまう。しかし当時の伊達さんが指導された全国の観測者の数も恐らく100名には達していたろうと思うと敬服するほかはない。また、特に印象深いのはその流麗な達筆で、まだ30歳そこそこの方にしては、その多方面の教養とともに一体どこで修業されたものか今でも不思議な気がする。」(続く)

 和三郎のサインがある、伊達英太郎氏の似顔絵。

 A4サイズの印画紙に焼き付けされた、伊達英太郎氏の写真です。写真の腕前も一流のように思います。

(参考文献)

季刊 星の手帖,阿部昭,星の手帖社,1986.8.1,P44-46

村山定男,Wikipedia ,2022.2.23閲覧

(写真・資料は全て伊達英太郎氏保管)