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EMET

年間第8主日(C)

2022.02.25 20:00

2022年2月27日  C年 年間第8主日

第1朗読 シラ27・4-7
第2朗読 一コリント15・54-58

福音朗読 ルカによる福音書 6章39~45節

イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

 先週の福音の続きの中で今週の福音も語られています。その流れの中で今日の御言葉も受け止めていきたいと思います。先週の福音では「敵を愛しなさい」(6・27)ということが語られていました。自分を憎む者、悪口を言う者、侮辱する者…、そのような者に対しても親切にし、祝福を祈りなさい。頬を打つ者にはもう一方の頬をも向けなさい、とイエスは語ります。自分に危害を加える人に対してそこまで、と私たちは考えます。しかしイエスは、「敵を愛し、ゆるす」生き方によって、私たちも裁かれることなく、ゆるされると語っているのです。果たして、本当にそのような生き方が私たちに可能なのでしょうか。これがただの理想ではないとすれば、そこにはどんな意味が含まれているのでしょうか。

 この福音を、この世を生きるための知恵や処世術として受け止めるならば失望することでしょう。この世はそんなに甘くはないからです。イエスはそのような意味でこれを語ったのではありません。それは、人間同士のことではなく、神との関係において語られていることなのです。ここでイエスが伝えたかったことは、「そうすればあなた方も神によって裁かれることがない。そうすれば、あなた方も神からゆるされる…」ということでした。(先週の福音6・27以下参照)

 「そうすれば…」という言葉で約束されているのは、「いと高き方の子となる」ことでした。つまり神に愛され、守られ、養われ、神との良い関係を生きる者となれる、そのことが私たちに約束された恵みなのです。いと高き神は、情け深い方です。実際、イエスは私たちに代って罪人とされ、十字架につけられ、死んで下さいました。このイエスの十字架によって私たちは救いに与ります。そこから溢れてくるイエスの力によってイエスと同じように私たちも敵を愛する者にならせて頂ける…、そのような恵みの話しをしているのです。イエスが語っていることは「立派な人間になれ!」という戒めではありません。私たちがイエスによってすでに与えられている恵みに信頼して生きるならば、あなたもイエスと共に神の子にふさわしい歩みをさせて頂ける、ということなのです。「敵を愛する」とは、イエスと共に神の子とされた者に与えられる新しい力であり恵みです。

 これを踏まえて、今日の福音では、39節以下にある盲人の道案内、弟子と師について、そしておが屑と丸太の話が語られます。それぞれのたとえは、「見る」あるいは「見える」ということと関係して語られています。私たちは日常生活の中で、本当に見るべきものが見えていないということがよくあります。自分は盲人ではないから道案内ができる、導くことができると思っているのです。

 しかし、本当の意味で見えている目とは、イエスによれば 人を裁かず、罪人だと決めつけず、ゆるし、与えようとする人…、そのような人こそがよく見えている人間なのです。もし私たちが、人を裁き、罪人と決めつけ、ゆるさず、人の苦しみや悲しみに対しても気付かずにいるなら、その人の目は塞がれ、見るべきものが見えていないということです。逆に、人の苦しみや悲しみに気付き、そこに手をさし伸べているなら、私たちの目は 本当に見るべきものを見ているということなのです。

 「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになる…」と語られているように、私たちは自分の目からこの丸太を取り除かなければなりません。しかし、それは自力ではできません。それができるのは、イエスお一人です。イエスはそのことを、十字架によって実現して下さいました。私たちは、十字架において肉を裂かれ、血を流し、死んでくださった御子の姿を通して、自分の本当の姿を知ります。そこで神の愛の大きさ深さを知り、神のみこころに生きるために必要な力を与えていただくのです。神の独り子イエスが、ご自分の命を犠牲にしてこの丸太を取り除いて下さったこと、この事に気付かされることよって、私たちの目は初めて開かれるのです。

 それが、人を裁くことのない目、人を罪人だと決めつけることのない目、自分に罪を犯す者をもゆるすことのできる目です。そのように、本当の意味で開かれ見えるようになった目で、隣人と接することができるようにと、イエスは願っておられるのです。それは何も、「人の罪など一切問題にする必要などなく、どんなことでもゆるせ」と言っているわけではありません。地上を生きる私たちの歩みには、残念ながら罪があり、正されなければならないこともあるからです。弟子たちに委ねられた使命は、それを、人の粗探しをして断罪することで終わらせるのではなく、ゆるしの恵みによって生かされるよう導くということなのです。

 果たして、私たちが通り過ぎた人生の後に残るものは何でしょうか。信仰は、自分の思いで 自分なりに、ただ一生懸命に頑張れば良いというものではありません。大切な事は、私たちが通り過ぎた後に何が残るかです。私たちの目から丸太が取り除かれ、私たちの生き方が自己中心的な善い行いからも解放され、イエスを証しする香り高い信仰の捧げものとなりますように…。その恵みを日々、祈り求めていきたいものです。

(by the Spirit of EMET)