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信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・53(十河一存の死、尼子晴久の死))

2018.01.04 00:00

永禄4年3月、伊達家との停戦に成功した最上家は、すぐさま南部家との決戦を決定した。


永禄4年3月、花輪親行隊は一戸に侵入していた南部家の部隊の迎撃に出陣した。


永禄4年4月。

三好家・長慶居城ーー

ある日、弟・十河一存が病を患ったという報せが三好長慶のもとに届いた。

病はそれほど重いものではなく、一存は湯治に向かうと聞き、長慶はすっかり安心していた。

しかし、その数日後ーー


兵士:殿、一大事にございます。一存様が、お亡くなりに・・・・・・

三好長慶:な、なんだと!?病は重くないと聞いたが・・・・・・

兵士:それが、湯治に向かう道で落馬されたとか。

三好長慶:馬鹿な!いくら病とはいえ、あの一存が落馬などと、あり得ぬ!

兵士:しかし、久秀様はそのように・・・・・・

三好長慶:久秀が?

兵士:はい。久秀様も一存様と共に、湯治においでになっていたとか。

三好長慶:・・・・・・


十河一存は松永久秀の手により、謀殺されたのかと疑われたが、真相は明らかにならなかった。

真相はどうであれ、三好家にとって、軍事の中心たる一存が失われたのは大きな痛手であった。


永禄4年4月。

尼子晴久が死去した。

その父・経久の代には中国地方最大の大名となった尼子家だったが、その後継者・晴久の代では、領土は縮小した。

晴久の後は、尼子家は嫡男の義久が継いだ。



永禄4年4月の最上家の評定。

本拠地を角館城に移したことにより、最上家の支配圏は一気に大きくなった。

南は山形城から、北は石川城まで拡大した。

そしてその全領土に、院政を敷いた義守が指示を出した。

そして蝦夷地では当主・義光が領土経営を学ぶために、義守の政治を確認していた。



それと同時に、義光は朝廷工作を再開していた。

伊達家との停戦はわずか6か月間した約束されておらず、その後に再び窮地に陥る恐れもあったために、朝廷への金の輸送は怠ることはしなかった。

また徳山館では氏家守棟に、天守を二層天守への改修を命じた。


一方で伊達家は、最上家と停戦したものの、警戒を解くことは全くなかった。

南部家と同盟を結び、停戦明けには最上家を挟撃する準備を進めた。

永禄4年4月。

最上家の花輪親行隊兵1000は、一戸の地に侵入していた南部晴政隊兵2300に攻撃を仕掛けた。

南部家からしたら、一戸の地は南部家の九戸城のすぐそばであり南部家の領土であるという見解だったが、陸中国は本城の高水寺城を支配する最上家が、その領内経営のために通行自由というのが当時の考え方であり、最上家が一戸に留まる南部家の部隊を攻撃するのには、正当性があったのだ。

戦力的には圧倒的に不利な花輪親行隊であったが、そもそも勝とうとは考えておらず、最上家からすれば、開戦の口実を見つけただけで手柄だった。



永禄4年4月。

武田・今川連合軍の松平家への猛攻は続き、松平家の吉田城も、北畠家の松平家への救援も来ていたが、風前の灯となっていた。


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