結城城
1. 城のデータ
[所在地] 茨城県結城市結城
[築城年] 14世紀後半
[築城者] 結城氏
[遺 構] 空堀など
[別 称] 臥牛城
[形 状] 平城
[登城年] 2015年5月3日
(※トップ写真:結城城・実城と西館間の空堀)
2. 城の歴史
結城城は治承年間(1177~1180))に鎌倉幕府の有力御家人であった結城朝光が築いたとされる。1440年、結城氏朝が鎌倉公方の遺児・春王・安王を擁立し、1年に及ぶ結城合戦を引き起こすが、結城城は落城し氏朝は子の持朝とともに戦死する。その後、再興した結城氏は戦国時代を生き残り、1591年、徳川家康の次男・秀康を養子に貰い受け、家名の存続をはかる。
1601年に結城氏が越前北ノ庄(福井)へ移ると、結城城は一時廃城となる。しかし、1700年に水野勝長が1万8000石で入部し、結城藩は再興され、その後10代水野氏が続き、明治に至る。
3. 城の見どころ
結城城は、結城市街地の北東に位置する高さ約5mほどの台地の上に築かれた城である。旧本丸の方から城を望むと、若干高い位置に城があることがわかる。また、城の北・南・東の三方を湿地帯に囲まれ、北から東側へかけては、田川が流れるという天然の要害の地であった。現在でも城の周囲を歩くと、低湿地帯(田畑や沼)となっており、戦いの際には実に守りやすい城だったことがわかるだろう。結城合戦の際に、1年にわたる抗戦が可能だったというのも頷けるのではないだろうか。
(下写真:旧本丸から城を望む)
城の縄張については、城の北東に本丸にあたる実城、西側に西館、実城の南側に中城、そのさらに南側に東館という4つの曲輪で構成されていた。曲輪は互いに寄り添っており、戦時には曲輪どうしが補完しあうようなつくりであったようである。
(下写真:実城跡)
(下写真:東館跡付近)
各曲輪間には広く深い空堀が巡らされていた。ほぼ直線的な空堀であり、屈曲部はほとんどみられず、それほど技巧的ではないが、幅と深さについてはなかなかのものだと感じる。特に実城と西館を隔てる空堀は必見である。現在は緩やかな傾斜がついた野原のような状態になっているが、それでも深さは6~7m、幅は20~25mという大規模なものである。中世に築造された城郭としては大きい。また、この他の場所にも同様の曲輪間を分ける空堀が残っているが、現在はほとんどが竹藪などが生い茂った状態となっており、保存状態はあまりよくない。
城の主郭である実城は現在「城跡公園」として整備されており、市民の憩いの地となっている。また、一角には結城藩・水野氏初代勝成を祭神として祭った聡敏(そうびん)神社が鎮座する。
(下写真:実城跡に建つ聡敏神社)
4. 城のポイント
①結城合戦の舞台となった城 ⇒1年におよぶ戦いに耐えた城
②実城と西館を隔てる空堀 ⇒幅、深さともに大規模なもの
③周囲が低湿地帯と川に囲まれた天然の要害