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中村鏡とクック25cm望遠鏡

伊達英太郎氏(3)

2022.02.26 07:14

「火星観測の想い出 村山定男

伊達英太郎先生のこと

 伊達さんは大阪の履き物で著名なてんぐ履物舗という老舗のご長男で、お住まいにも身なりにも豪商の風格が漂っていたが、さぞかし厳しく育てられて成人されたのであろう。小柄なほっそりした方で、結核を患われながら熱心に星を見続けられた。「医者に止められているのに観測をした罰でまた少し発熱しています・・・」などというお便りを再々いただいては心配したものである。

 私が直接お目にかかったのは、たまたま私が属していた教室の戦時研究で温泉水から希元素を採取するため、疎開もかねて兵庫県の有馬温泉に滞在するようになった頃であった。

 伊達さんは阪急電鉄の宝塚の少し手前にある雲雀ヶ丘の別邸に住んでおられ、その庭前に当時我々の憧れの的であった26cm反射赤道儀(木辺鏡、西村製)が据えられていた。

 空襲がひどくなって有馬から神戸に出る電車は不通だったので、私は有馬から神戸に出る山道をテクテクと歩いて下り、そこで阪急電車に乗るのであった。帰途もまた同じ道を歩いて帰った。曲がりくねった細い山道を歩くのはのどかでもあったが、途中大雷雨にあったりもした。

 堂々たる門構えの伊達邸ではじめてお目にかかった時、「天文仲間は皆共通なところがありますね。だいたい身体があまり丈夫でなくて、写真や音楽が好きで神経質で・・・」と言って苦笑されたのが印象に残っている。当時の私もその部類であったが最近の星仲間を見ているとずいぶん変わったなあとおかしくもなる。終戦前後にかけて何度かお訪ねしたが、当時としては実に広範に内外の文献を揃えておられ、それを拝見するのも楽しみだった。「この論文おもしろいですよ」などと差し出される洋書を、理学部学生だった私も何度か読み返さないと理解できなかったのに、伊達さんは易々と読みこなしておられたようで敬服した。

 戦争が終わって東京に帰る前に一緒に火星を見ようと言われて泊めていただいたことがある。1946年はじめの小接近を迎えようとしていた火星は、明け方の空にまだ視直径6秒ほどだったが、待望の26cm反射をのぞかせていただきスケッチをとった。気流が悪くてどのへんが見えているのかよく分からず、2人で考え込んだりしたのも懐かしい思い出である。奥様は有馬温泉の大旅館の令嬢であったので、私はその裏の空き地に自分が担いでいった望遠鏡を置かせていただいたりもした。

 戦後しばらくは交通事情も悪くお目にかかる機会もなかったが、1948年頃から毎年1度は関西に旅して、大阪の佐伯恒夫氏のお世話になったり、草津の山本天文台、野洲の木辺氏邸(真宗木辺派本山錦織寺)などをお訪ねするようになった。佐伯先輩のお伴をして山本天文台に山本一清先生をお訪ねし、カルバー作の46cm反射鏡で火星を見せていただいたりしたのも懐かしいが、これは本誌Vol.-6「日本の天文学者」の特集の時に書いた「天文の先生方」の記事とも重複するのでここでは省く。伊達さんはこの頃次第にご容態が悪く、ご病床にお訪ねしたことも何度かあった。それでも毎回火星や木星や望遠鏡などについて熱心に語られ、いろいろ教えていただいた。

 1953年8月3日の夕方、私は佐伯さんからのお葉書をいただいて愕然とした。伊達さんが8月1日に亡くなられたというのである。たまたま私は扁桃腺を腫らして3日ばかり39度あまりの高熱にうなされていた。31日から1日にかけての夜は特にひどかった。何か虫の知らせでもあったのであろうか?

 こうして私は本当に手を取るようにして教えを受けた師匠の伊達さんを失ったのである。今思い出しても言いようのない悲しみに襲われるのを止めることができない。

 一昨年(1984年)であったか、東亜天文学会賞が故伊達英太郎氏に追贈され、受賞式には奥様が出席された。30年ぶりにお目にかかった私は本当に懐かしかったが、奥様は品の良い老婦人になっておられた。」

(季刊 星の手帖,阿部昭,星の手帖社,1986.8.1,P44-46より抜粋)

 伊達英太郎氏のお父様でしょうか。祭礼の時の記念写真かもしれません。

 全て伊達英太郎氏の作品です。

 婚礼用の品々の中に、履き物制作「伊達俊一郎氏」の名前が見られます。上の2枚の写真は、ガラス乾板からの反転写真です。

(写真は全て伊達英太郎氏保管)