私X
「私」と言えることが不思議である。「私が」と言えるためには、「私」が何者かであることを知っていなければならない。また、「私」と言うためには、「私」が無限であってはならず、統一性をもつまとまった塊のようでなければならない。だが、「私」という存在らしきものは(まとまったものしか存在と名づけることができない)、統一性を持ち秩序のあるまとまった個であるというよりは、寧ろ掴みどころのない混沌とした無秩序の要素のほうが強く感じられるし、意識の仕事である秩序(統一性)に向かっての努力は、ほんの微々たること、ほんの些細なことのように思える(十分になされていない)。「私」の言動のほとんどは、意識の関与なしに実行されているのは、よく分析すれば容易にわかる。「私」は整頓されていない乱雑に散らばった状態にありながら、ごちゃごちゃのまま思考したり動いたりする(内面的には特に)。書くときにも明瞭な意識を保持している自信はない。勢いとか慣れでやっているとも言いがたい。
このように常に気に懸かっているのは、私(ここでは意識)の統一性についてである。「私」は自己を分析するとしよう。自己の外のあるようにみえる対象よりも、自己自身を対象として内に向かって綿密に調べようとする。何故かといえば、ジャン・コクトーの言葉を借りれば、困難な存在としての「私」であるからだ。何が困難かというと、大抵の問題は、私自身が保有していているので、出発点である「私」の問題を解決に導くことから始める必要があるからで、そうすると、わざわざ新しい問題を与えられるに及ばずかえって邪魔である。すなわち問題は、すでに「私」のなかに内包されているのであるから新しい問題など二の次になる。これは「私」に限った話ではなく、誰でも同じである筈だが、自分自身の内界に没入するという作業は普通なされないのだろうし、自己対話とか内省とか、心の声に耳を澄ますなどの思索行為を徹底的にやろうとするのは、あまり一般的ではないだろう。電気の例を持ちだすなら、抵抗(Ω)が強いのは自己の内界においてであって、外界にではない。内界の抵抗を通り越して外界に達するまでに大きなエネルギーがいる。一挙に対象に向かうわけにはいかない。注意の重心は内心におかれている。
「私」の統一性があやふやであることは、このような自己内対話あるいは自問自答という作業を強力に推し進めた結果、ゆっくりと判明する。真理のほうに近づくならば、私たちの意識の統一性は曖昧であるのが了解できるが、真理というものは必ずしも常識的なものではないどころか、かえって常識から乖離したものとして映る。真理の周りを回るのが普通で(中心の真理を無視して)、真理そのものの探究は常識的なものではない。お喋りとか日常会話などは真理とは無関係なものであるが、真理と対極にあるもう一つの真理ということもできる。つまりお喋りとか日常会話の側からみえる真理もある。
ここまでで初めの問題についての理解が得られると思う。意識の統一性の不思議である。「私が私である」ということの不思議である。ひとつだけ明らかなことがある。「私は私自身を完璧に了解することはできない」ということ。少なくとも私自身についてほんとうに知るためには、無意識レベルまで調べなければならないが、それは当然ながら不可能だ。しかも、調べる主体の意識が常に無意識と関係をもちながら働いているから、主体が何かを了解したと言っても、この「私」と呼ばれている主体すら無意識の曖昧さと謎の深淵さに結びついて一時も離れられないのである。「私」がこのような謎をつねに伴侶としている限り、「私」がほんとうに「私」であると確信するとしたら、それはちょっと問題である。「私」は秩序付けている存在であると同時に、秩序が破壊されている世界をも包摂した存在なのだ。「私が〜」と話し始めるとき、この「私」は常にグレーな存在である。白と黒の中間色であることを前提としながらはじめて「私は〜」と話すことができる。なぜなら「私」とは、決して限定された存在ではないのだし、あらかじめ決定されている存在でもないからである。身体は一個の塊のように思えるが、あくまで外見ではそのようにみえるだけの話で、身体が心や魂などの無限を含んでいることには納得されて頂けると思う。
「私X」の意味するところは、次のようなことである。すなわち、一般に私と呼ばれるとき、明確な枠に収まった個としての私を意味するだろうが、実はそうではなく無限と謎(X)を抱えこみかつ背負っている存在であるから、単に「私」と示すだけでは、「私」という狭く固定された意味が生じてしまう。これでは誤解される余地が大きく、本質をうまく表現していない。「私X」と書いたほうがより正確になるであろう。「私」はいつもXという得体のしれない深淵と共にあるから「私X」である(厳密な意味はなく唯の記号表記)。これを踏まえたうえで、再度「私X」→「私」と書きなおしてもいいが、「私」には隠されたXを内包しているしている事実を忘れないようにしたい。「私」=「私X」と記憶しておけば、私が取り乱したり、矛盾したり自己嫌悪に陥ったとしても、その原因が「私」に従属しているXのためと考えることができるので便利である。「私」が分からないというとき、「私」に常に従属しているXの存在を無視しているからそのように言うのである。