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灰の水曜日

2022.02.28 20:00

2022年3月2日  灰の水曜日

第1朗読 ヨエル2・12-18

第2朗読 二コリント5・20~6・2

福音朗読 マタイ6・1-6、16-18

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。 はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 人間は、人間に興味があります。私たちの喜びも悲しみも、苦しみも慰めも、その多くは人間関係に由来します。良くも悪くも、私たちはその現実の中で生きているので、私たちが何をするにしても、人間関係から影響を受けるのは、実に避けがたいことです。ですから、何かの善を行うときに、それ自体を目的とするのではなく、人からの承認や賞賛を求めてしまうというのは、誰にでも心当たりがあるでしょう。この灰の水曜日から始まる四旬節において、私たちは祈り、節制、償い、愛徳のわざなどに励みながら、日々の生活を振り返り、過ちを悔い改めるように招かれているのですが、どうしても人の目を気にしてしまう傾向を、よくよくわきまえておく必要があるでしょう。それは、分かっていても避けられない落とし穴のようなものであり、主の受難と復活を迎える準備をするためには、少なくともそのことに気づいていなければなりません。

 そのような根深い傾向を持った私たちに、イエスは今日の福音で、隠れて善を行うように繰り返し教えておられます。そこでイエスがとがめる偽善者の態度に問題があることは明白なので、この教えを頭で理解することは、それほど難しいことではないでしょう。しかし、この教えを実行するとなると、それは急に難しいものに思えてきます。実際、どれだけの人が他者の目を気にしないで正義を行うことができるでしょうか。あるいは、自分が四旬節の営みに真面目に取り組んでいるそばで、いい加減な態度の人を見かけるとき、どれだけの人が心穏やかでいられるでしょうか。つい自分の方がよい信者だとみなして相手を見下したり、あるいは自分が我慢していることをあの人は全く我慢していないと、いらだちや怒りを、ときには嫉妬を覚えたりしてしまうのではないでしょうか。そこには無用な他者との比較や、相手の自由を尊重できない傲慢さが見え隠れしています。結局、善意で始めたはずのことがきっかけで、私たちの心の闇があらわにされるのです。

 人間ならば、誰もがそのような闇を心に抱えています。「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」(マタ9・13)に来られたイエスは、そのことだけで私たちを「偽善者」と呼ぶはずがありません。今日の第一朗読のヨエルの預言では、次のように言われています。

主は言われる。
「今こそ、心からわたしに立ち返れ
断食し、泣き悲しんで。

衣を裂くのではなく

お前たちの心を引き裂け。」(ヨエ2・12-13)

 ですから、「偽善者」と呼ばれるかどうかの別れ道は、闇を抱えたありのままの自分の姿を認め、イエスに心を開いて助けを求めるのか、それとも自分の本当の姿から目を逸らし、イエスに心を閉ざして自己正当化に走るのか、どうもこのあたりにありそうです。

 前者の道を歩むことには、苦痛が伴います。善を望みながらそこかれ逸れてしまう自分、義を行おうとしてもそれを自力ではなし得ない自分、そのような理想からかけ離れた惨めな自分の姿を直視しなくてはならないからです。その人にとって、額に灰を受けるときの「あなたは塵であり、塵に戻るのです」(創3・19)との言葉は、現実味を帯びて響いてくることでしょう。しかしその人は、自分の隠された心の奥の闇に分け入り、自分ではその闇を払うことができないと悟り、自分を救う力のある方に心からの必死に叫びを上げるのです。その叫びに、御父が耳を傾けないことなど、あり得るでしょうか?

 一方、後者の道を進むなら、自分自身の心の闇という、御父に呼びかけるべき場所に背を向けることになります。すると、その人は自分を支える何かを見つける必要に迫られて、表通りに出るしかなくなります。そのときなし得ることは、せいぜい書かれた掟を守ることくらいでしょう。至って真面目に、何なら人一倍熱心に、“善行”、 “施し”、 “祈り”、“断食”に励むのです。

 それらのわざは心の底からの叫びではなく、自分の正しさを確認するためのもの、他者からの賞賛という報酬を得るためのものなので、人目につく明るい場所で行わなければなりません。その人は賞賛が得られれば、しばらくは機嫌良く過ごすでしょうが、それが得られないと機嫌が悪くなり、そのことを不当とさえ言い始めるかもしれません。いずれにしても、一時しのぎにしかならない他者からの賞賛を求めて、その人は次から次へと忙しく立ち回ることになりますが、そんな自分を省みることだけはしないのです。それでは、いくら衣を引き裂いたとしても、独りよがりでしかありません。何よりそれは、御父との交わりに心を閉ざすことなのです。

 それに対して、神に立ち返り心を引き裂く人には、その傷つきながらも開かれた心の中に、憐れみ深い御父が訪れてくださいます。その人が味わうのは、祝された苦痛です。その人は、その痛みを通して、相変わらず闇にとらわれている自分、塵に過ぎないはずの自分が、神に命の息を吹き入れられて生きていることに気づかされるからです(cf.創2・7)。神との開かれた交わり、これこそがその人の報酬です。イエスが教えている通り、その人には御父ご自身が報いてくださるでしょう。

 そのように、自分で望む義を実現できない代わりに、心の闇に神を招き入れる人は、塵である「私」が、畏れ多くも、命の息吹を受けていることを体験的に知るようになります。また、そこまでして人を救おうとする神に触れられて、そのみ心に従って生きる者へと変えられていきます。闇に包まれていることを知る「私」が、あまねく人を救おうとする神のみ心に与るとき、「私」は隣人の闇をも受け入れるようになっていきます。さらにはその人々へ、神の息吹を運ぶことを望むようになるのです。そこで行われる善いわざは、もはや他者からの賞賛を求めず、単なる義務であることも越えて、神の善の溢れとして隣人のもとへ向かうのです。

 私たちがそのような歩みをするために、模範となり同伴してくださるのは、何と言ってもイエスです。イエスは、罪の闇こそ抱えてはいませんでしたが、人々の闇を引き受けて、たびたび一人で御父に祈りました。病者や悪霊に取り憑かれた人々を癒された後も、賞賛など全く求めることはなく、かえって彼らに厳しく口止めされました。イエスの生涯は、どこまでも御父のみ心を果たすために向けられていました。今日の福音でイエスが教えられた御父との隠れた交わりを、イエスご自身が生き抜いたのです。その生涯は、人を救おうとする御父のみ心の完全な現われになり、そのことは受難と復活において頂点を極めました。私たちがこのイエスの生き方を見つめ、四旬節の歩みを通して、自分たちの心の闇において神と交わり、神の救いのわざの現われになることができますように。

(by F.N.K)