祇園城
1. 城のデータ
[所在地] 栃木県小山市城山町
[築城年] 1148年
[築城者] 小山政光
[遺 構] 土塁、堀など
[別 称] 小山城
[形 状] 平山城
[登城年] 2015年5月3日
(※トップ写真:祇園城・本丸北側の空堀と祇園橋)
2. 城の歴史
祇園城は1148年、藤原秀郷の流れをくむ太田(小山)政光が築いたと伝えられる。政光の子孫は小山氏を称し、下野最大の武士団の棟梁となった。1337年、南朝方の北畠顕家により城は陥落している。その後も1380年の小山義政の乱、1440年の結城合戦と、小山氏はたびたび戦乱を繰り広げている。
しかし、1576年に北条氏の攻撃を受け、18代秀綱は降伏に追い込まれる。豊臣秀吉の小田原平定により、関東の名門・小山氏は滅亡した。小山氏の旧領は結城氏に与えられ、本多正純の所領となり、1619年に本多氏が宇都宮に移ると、廃城となった。
3. 城の見どころ
祇園城は、鎌倉時代初期に下野の武士団の棟梁・小山政光により築かれたと言われる。思川が西側に流れ、東側を大手、北側を搦手とした、南北約1.2~1.5km、東西約0.7~1.5kmという、台形をした広大な平山城であった。南北に曲輪を並べた連郭式の城郭で、西側を流れる思川に侵食された河岸段丘の崖の高さは約20mもあり、天然の要害であった。
(下写真:思川対岸より城を望む)
各曲輪間には幅広の空堀が二重、三重に巡らされている。関東地方の城郭らしく、石垣は一切使われず、深い空堀と高い土塁によって構成された土の城であった。現在は南から北へ本丸、馬出、二郭(仮称)、三郭(仮称)などの曲輪が良好に残っており、城山公園として整備されている(※祇園城の各曲輪の呼称は諸説あるため、ここでは仮称としている)。
(下写真:城山公園・本丸跡入口 )
一番の見どころはやはり本丸北側の空堀であろう。本丸と北側の曲輪(二郭)を東西に分断する堀切で、幅は約20mにも及び、堅固な守りがなされている。堀底は舗装等がなされていて、通路状になっているが、かつてはここが最大の防衛線であったことを彷彿させる。ちなみに、曲輪間をつなぐ朱塗りの橋は祇園橋と呼ばれており、この城山公園のメインスポットだ。
(下写真:本丸北側の空堀)
本丸の北西側には馬出と呼ばれる小さな曲輪があり、L字状の空堀が巡らされている。このような角馬出については、北条系城郭の特徴であり、北条氏支配時代の名残であることが推測されている。二郭、三郭も同様に土塁と空堀によって守られている。
(下写真:三郭東側の空堀)
三郭のさらに北側は、小山氏の菩提寺である天翁院があり、小山氏歴代の墓所がある。江戸時代には本多正純が寺領を寄進して保護したという。この天翁院の本堂の裏手にも、かなり大規模な土塁が現存しているので、あわせて確認しておきたい。
ちなみに、現在は小山市役所となっているあたりが、祇園城の御殿であったといわれる。この御殿こそが天下分け目の関ヶ原の戦いの引き金となった「小山評定」の場となったところだと伝えられている。さらに、その南方には長福寺城、鷲城があり、東方にあった中久喜城とともに祇園城の支城網を形成していた。
4. 城のポイント
①思川の断崖を利用した土造りの城 ⇒下野最大の武士団・小山氏の居城
②本丸北側の空堀 ⇒幅、深さともに圧巻の規模
③各曲輪間の空堀、土塁