Okinawa 沖縄 #2 Day 169 (28/02/22) 旧浦添間切 (4) Ahacha Hamlet 安波茶集落
旧浦添間切 安波茶集落 (あはちゃ)
- 安波茶公民館
- 後小湾根屋 (クシクワンニーヤ)
- カマ根屋跡 (字仲間)
- 親安波茶
- 安波茶之殿 (字仲間)
- 御願山 (ウガンヤマ)
- 安守之塔
- 井戸跡
- 安波茶樋川 (アハチャヒージャー)
- クバ御嶽
- 犬井泉
- 新井 (ミーガー)
- 安波茶門
- 前ヌ井 (メーヌガー)
- 安波茶の神田
- 浦添市役所、浦添中央公民館
- 安波茶の馬場跡 (ウマィー)
- 友利御嶽 (トモリウタキ)
2月25日の経塚訪問に続いて、その隣の安波茶集落を訪れる。この安波茶集落についてはほとんど情報が無く、隣村の仲間集落の情報にこの安波茶集落についての記述があるのみだった。仲間集落内では文化財の案内が各スポットに置かれ、字誌も発行されているのだが、安波茶集落ではその様な活動はなく、対称的だ。
旧浦添間切 安波茶集落 (あはちゃ)
安波茶 (アハチャ) の由来については定かでは無いのだが、先日訪れた安波茶樋川付近で薩摩との戦いのときに血で染まって泡をたてていたのでアブチガーラと呼ばれ、それがアハチャの地名の始まりになったともいわれている。安波茶集落は元々は隣村の仲間集落の上部にあるクバサーヌ御嶽付近にあった。いつの時代かに現在の集落を区画整理をして移って来たと伝わっている。
第二尚氏の系図で安波茶按司が登場する。三代王尚真の長男であった尚維衡の三男 向弘瑞安波茶按司朝孝だ。父の尚維衡は家督争いで廃嫡されて浦添で隠遁していた。この向弘瑞安波茶按司朝孝がこの安波茶を領していたのでは無いだろうか。
明治時代の安波茶集落の人口は明治13年には103戸403人、その後、550人程に増加して旧浦添間切では真ん中ぐらいの集落だった。沖縄戦直前には、200人までに減少している。更に沖縄戦では集落の64%が犠牲となり、かなりの人口減少が起きていた。その後、少しづつ人口は増えていったが、1970年でも人口は428人で明治時代の人口には戻っていない。この時期に西側海岸に近い場所に浦添ニュータウンが建設され人口は急増している。2000年には4,500人までに増加している。ここ8年は人口の減少が続いている。
人口増加率は浦添市の平均を下回り、低い率だ。
民家の分布を見ても、拡張しているには1970年以降の丘陵麓の浦添ニュータウンがメインで、丘陵中腹の元々集落はあまり広がっていない。
- 御嶽: トモリ嶽 (友盛嶽、友利嶽 神名 大和ヤシロ船頭殿ガナシ)
- 殿: 中間村後上之殿 (安波茶ヌ殿)
安波茶集落訪問ログ
安波茶公民館
安波茶の情報はほとんど無いので、公民館で何か情報があるかと思い、まずはそこを訪れる。残念ながら、集落案内板もなく、人もいなかった。ここは元々の村屋だったのかは確認できなかった。
後小湾根屋 (クシクワンニーヤ)
カマ根屋跡 (後小湾門中神屋、在 字仲間)
現在の集落の場所に移住してくる前は、後小湾 (クシクワン) 門中の屋敷は仲間集落の上部にあるクバサー御嶽の東隣りにあり、屋号もカマといい、そこには根屋があったと伝えられている。この場所は発掘調査が行われた事があり、その時に隣のクバサー御嶽への階段がみつかっている。
親安波茶
後小湾根屋 (クシクワンニーヤ) の隣に親安波茶の屋敷跡があり、現在は民家になっている。安波茶仲間集落の上部から現在の集落の場所に碁盤型に宅地割りして移住させたのが親安波茶家といわれている。先程訪れた集合拝所に祀られているので安波茶集落の有力者だった。
安波茶之殿 (字仲間)
移住を先導した親安波茶の屋敷はかつての集落の最も上位にあった。そこには安波茶之殿と呼ばれた殿 (トゥン) があり、琉球国由来記の中間村後上之殿と推定されている。戦後個人に売却され、現在は民家となっており、その民家と隣の空き地が屋敷跡だそうだ。
御願山 (ウガンヤマ、拝み小)
安波茶集落の御願所 (ウガンジュ) は現在では一か所しかない。公民館の横の狭い通路を裏に進んだ御願山 (ウガンヤマ、シリー山) と呼ばれるかつては丘だった場所に置かれている。この場所は民俗地図には載っていたのだが、入り口がなかなか見当たらず何度にまわりを行ったり来たりだったが、やっとこの通り道を見つけた。元々ここには地頭火ヌ神が置かれ、拝み小 (ウガングヮー) と呼ばれていた。1960 年頃に集落内に点在していた拝所をここ拝み小 (ウガングヮー) に統合している。統合以前は、祭祀によって拝所も異なっていたが、今はすべて一か所で行なう。新しく建てられた祠の中には火水の神、西御嶽、東御嶽、クバ御嶽、安波茶之殿、親安波茶の六つの御嶽と殿の香炉が置かれ、合祀されている。火水の神が元々あった地頭火ヌ神だろう。
祠の隣には樋川、前ヌ川、新川、土帝君の拝所としての井戸などが合祀されている。資料に掲載されていた以前に民俗地図には新川と土帝君は載っておらず、どこに置かれていたかは分からない。集落内にはこれ以外に拝井では無いが、恩井、桃原井、犬井があったという。
安守之塔
御願山 (ウガンヤマ) の中に沖縄戦で犠牲になった安波茶集落住民の慰霊碑があった。安守之塔という。同じ名前の慰霊碑が旧真和志村安謝集落にあった。安謝では安謝を守るという意味で付けられた名と言っていた。この慰霊碑も同じように安波茶を守るという思いを込めたにだろう。この慰霊碑が建てられのは平成6年と比較的新しい。77柱は慰霊されている。
慰霊碑には77柱が慰霊されているのだが、この集落に於いての沖縄戦での犠牲者はもっと多く134名で、当時の人口の64%が亡くなっている。浦添市では最も高い戦死者比率となっている。約半分の世帯が家族全員が亡くなっている。98%の世帯が家族を亡くしている。最も悲惨な結果となった集落だ。
井戸跡
集落内に林になっている所があった。集落内はほとんどが民家で埋め尽くされているので、拝所があるのかと思う中に入ると井戸跡が残っていた。民俗地図には記載されていないが犬井に近い場所にあった。
安波茶樋川 (アハチャヒージャー)
集落の西の端、崖の上に安波茶樋川がある。この樋川は、古くから安波茶集落の人々に産水や若水にも使われ、大切にされた産井で、18世紀の中頃には存在していた。水道ができる以前は、この湧水を生活用水として使用していた。樋川から流れ出る水は人の体を育て、健康を保つセジ (霊力) があると信じられ、信仰の対象にもなり、現在でも拝みをする人が多いという。安波茶樋川の樋は四つの琉球石灰岩を継なげ約48mもある。
クバ御嶽
集合拝所に祀られているクバ御嶽があった場所。現在は民家となり、その面影は無い。戦前まではウガン所と呼ばれて、遠方各聖所へ の御通し (ウトゥーシ) だった。戦前からクバ樹があったので、戦後にクバ御嶽と命名された。
犬井泉
クバ御嶽のすぐ近くには犬井泉と呼ばれた井泉があったそうだが、現在は消滅し、駐車場となっている。
新井 (ミーガー)
御願山 (ウガンヤマ) に移設され香炉が置かれていた新井 (ミーガー) の跡と思われる。
安波茶門 (アハチャジョー)
新井 (ミーガー) の前の坂道を登った所には屋号 安波茶門 (アハチャジョー) があった場所で、集落内の有力者の屋敷跡。
前ヌ井 (メーヌガー)
安波茶集落の南に前ヌ井 (メーヌガー) が残っていた。もう使われていない様だがまだ水は溜まっていた。
安波茶の神田
集落から外れた南には安波茶の神田があった場所がある。かつてはここにはここで獲れた稲穂を供えた神田があった。この北側には仲間の神田だった。更にこの南の高台には尚氏の別荘の茶山御殿と茶畑があったそうだ。
浦添市役所、浦添中央公民館
この場所に浦添市庁舎が建つ前は、戦後の昭和21年4月に、当時の浦添小学校の残存校舎の一部に臨時庁舎を開設し、同年12月に現在の安波茶交差点付近に庁舎が建てられた。昭和25年には旧役所敷地(仲間)に新庁舎を建設して移転し、付属施設を増設していったが、その後、村の人口増加に伴い、増設用地確保が困難となり、市役所の敷地は1965年 (昭和40年) に現在地の安波茶に移転している。現在の浦添市役所は、行政棟が平成9年、議会棟は平成10年に建設されたもの。
市役所の前庭、屋上、所内には多くのオブジェが置かれていた。
安波茶の馬場跡 (ウマィー)
浦添市役所の裏手にはかつての馬場があった場所で、現在は道路になっている。
友利御嶽 (トモリウタキ)
浦添市役所がある付近には友利御嶽 (トモリウタキ) があったと記載されていた。琉球国由来記に記されている安波茶村の唯一の御嶽になる。林の中にある様だが、この御嶽の写真は書籍やインターネットで探しても見つからない。御嶽は小山にあり、上方の部分を東 (アガリ) 御嶽、下方を西 (イリ) 御嶽と呼んでいた。現在は集合拝所に祀られている。東御嶽の大岩根元に香炉、下方に墓があり、下方の西御嶽は残存していると書かれていたが、写真がなくわからない。東御嶽の墓は察度王のために鉄を供給したヤマトの商船の船頭の大和船頭ガナシが葬られていると伝わるそうだ。西御嶽では海に向い旅や航海安全を祈ったという。山の斜面をぐるりと周りそれらしきものを探すが、木々が深く山の中に入ることは断念。
家に着くと、久しぶりの晴天で夕焼けが見られた。多分二月では夕焼けが見られたのは今日が最初だろう。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- 字誌なかま (1991 浦添市字仲間自治会)