大田原城
1. 城のデータ
[所在地] 栃木県大田原市元町
[築城年] 1545年
[築城者] 大田原資清
[遺 構] 土塁、堀など
[別 称] 龍城、龍体城、前室城
[形 状] 平山城
[登城年] 2015年5月3日
(※トップ写真:大田原城・本丸と二の丸間の堀跡)
2. 城の歴史
大田原城主・大田原氏の祖は、武蔵七党の一つ・丹党に属する阿保氏であるとされる。康清の代に武蔵から下野那須郡に移り、那須氏に仕えた。康清の孫・資清は1545年に大田原城を築き、大田原氏を名乗った。1590年、豊臣秀吉の小田原平定の際、大田原晴清はいち早く参陣し、領地を保障されている。
1600年の関ヶ原の戦いには東軍につき、大田原氏は1万1400石の大名として幕末まで存続することになる。外様の小藩ながら、幕府との関係は良好であったが、1868年の戊辰戦争の際、新政府側についたため、会津藩の攻撃を受け、占領されている。
3. 城の見どころ
大田原城は、蛇尾川の西岸に位置する河岸段丘上に位置する平山城である。蛇尾川沿いに細長く伸びる丘陵は高さ25mほどであるが、眼下に蛇尾川を望み、那須連峰を遠望することができる。龍体山に築かれているため、別称・龍城とも呼ばれる。現在城跡は「龍城公園」として整備され、桜やツツジなどが植えられており、春には花見の名所として市民に親しまれている。
城の縄張は、丘陵の最高所に東西約40m、南北約65mの規模を持つ本丸があり、本丸の北側に二段の北曲輪が、南側に空堀を隔てて二の丸を配置していた。さらに、北曲輪の西側に西曲輪が、二の丸の西側に三の丸が配置された。
大田原城の一番の見どころは、本丸の周囲に築かれた土塁と原地形を活かした切岸であろう。本丸周囲の土塁の高さは約4mを超え、東側には蛇尾川が流れ、残る三方はまさしく絶壁の切岸である。関東地方の城郭らしく、石垣こそ一切使われていないものの、かなりの急勾配である。特に北曲輪から本丸側を見た切岸は実に迫力がある。本丸へ上がる道は、二の丸側からのルートと、北曲輪からのルート(裏手)の2つあったようだ。
(下写真:北曲輪から見た本丸土塁)
本丸と二の丸間は、空堀で分断されていた。空堀は北曲輪の北東角から本丸周囲をめぐる形で築かれている。二の丸から本丸へ至る虎口である台門跡付近の空堀は特に深く、ここが戦闘時における最終の防衛拠点であったことが想像できる。
(下写真:本丸跡 )
あと、大田原城で確認しておきたいのが、西曲輪から北曲輪に至る虎口である坂下門跡だ。ここは土塁造りであるが、枡形虎口を確認することができる。また、坂下門跡のすぐ西側には三日月堀も一部ではあるが、現存している。
(下写真:三日月堀)
そして、城から少し離れた大田原市の山の手に、大田原氏の菩提寺である光真寺がある。この寺院の総門は、江戸時代中頃に大田原城の大門を移築したが、1825年に焼失再建されたものとされる。この門の屋根の上部には、大田原氏の家紋である朧月紋が刻まれている。また、境内には大田原氏の歴代城主(7代・扶清、13代・富清、14代一清)の墓所がある。
(下写真:光真寺総門・再建大門)
4. 城のポイント
①中世から幕末まで存続した城 ⇒300年間続いた大田原氏の居城
②本丸周囲の土塁、切岸、空堀 ⇒北曲輪から見た本丸土塁、切岸は圧巻
③光真寺の総門と大田原氏墓所