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一号館一○一教室

マイルス・デイヴィス演奏『死刑台のエレベーター』

2022.02.28 05:54

そのトランペットは
もうひとりの登場人物だ


368時限目◎音楽



堀間ロクなな


 ひとりのミュージシャンが映画の音楽を支えたケースとして、すぐさま思い浮かぶのは、キャロル・リード監督『第三の男』(1949年)のアントン・カラス(ツィター)、ルネ・クレマン監督『禁じられた遊び』(1952年)のナルシソ・イエペス(ギター)、そして、ルイ・マル監督『死刑台のエレベーター』(1958年)のマイルス・デイヴィス(トランペット)だ。もう半世紀以上も世界じゅうを魅了してきたこれらの傑作について、モノクロームの映像と織りなすかれら名手たちの音楽を抜きに語ることはできないだろう。



 ヌーヴェル・ヴァーグの先駆けとなった『死刑台のエレベーター』では、弱冠25歳の監督がシャンソン歌手ジュリエット・グレコの紹介で、大ファンだったモダン・ジャズの旗手と知りあったことがコラボレーションのきっかけという。そのころパリの「クラブ・サンジェルマン」で演奏していたマイルスは、グループのケニー・クラーク(ドラムス)、ピエール・ミシュロ(ベース)、パルネ・ウィラン(サックス、)ルネ・ウルトルジュ(ピアノ)とともに録音に参加して、その体験をのちに自叙伝でこう語っている。



 「ものすごく勉強になった。ラッシュ・フィルムを見ながら、即興で作曲するアイデアを得たからだ。殺人がテーマのサスペンス映画だったせいか、すごく古くて暗い、憂鬱な感じのする建物で演奏した。これなら音楽に雰囲気を与えてくれると思ったが、確かにそれは効果的だった」(中山康樹訳)



 実際、この映画において、マイルスの音楽はとりわけ重大な存在感を持っていると思う。もはやたんなるBGMではなく、ドラマのもうひとりの主要な登場人物として振る舞っているように見えるのだ。こんな枠組みの物語だ。あいつぐ戦火によってのしあがった軍需企業(かつての言い方では「死の商人」)の社長カララがさらなる事業展開のために、元・落下傘部隊将校のジュリアン(モーリス・ロネ)を腹心に迎えたところ、年の離れた社長夫人フロランス(ジャンヌ・モロー)はこの精悍な青年に激しい恋情を燃やして、ついに夫を亡き者にしてふたりで新たな人生へ再出発することを企てる。



 映画はその決行当日の土曜日の夕刻からはじまるのだが、ファーストシーンでは、フロランスがジュリアンと電話で計画の確認を行う。ピストル自殺に見せかけて社長を殺害することに、受話器の向こうのジュリアンがためらう気配を感じると、彼女は「臆病ね」と告げ、相手は「愛は臆病なのさ」と応じる。いかにもパリの男女にふさわしい洒落た会話だが、落ち着いて考えてみると、妻が愛人の会社のデスクに電話して、夫である社長を殺すことの打ち合わせをするなど不自然きわまりないだろう。ところが、観客の意識がそうと気づきそうになったとたん、マイルスのトランペットが入ってきて、肺腑をえぐるような響きにたちまち痺れて、不埒な恋人たちに感情移入しないではいられなくなってしまう。すなわち、その瞬間からわれわれも共犯者と化すのだ。



 他の個所でも、この作品のストーリーにはあちらこちらに不自然さが目立つ。穿った見方をすれば、それらは若い監督やスタッフたちのミスではなく、あえて意図的に用意されたもので、そこに音楽が重なるたびに、われわれは反社会的なふたりに対して共感をいや増していく仕掛けとなっている。その意味でマイルスのトランペットは、だれもが胸の内に秘める、この退屈な日常から脱出して、ほんの束の間であれ心情が燃えさかるような体験をしたいという、そんな願望をいざなうもうひとりの登場人物と見なせるのではないか。



 最大のクライマックスはラストに訪れる。社長殺害にあっさり成功したあと、思いがけない綻びがつぎつぎに生じて完全犯罪の計画が崩れていく。その果てに、フロランスが行き着いた写真現像用暗室で、パリ警察の警部(リノ・ヴァンチュラ)に促されて現像液の底を見やると、印画紙には彼女とジュリアンが満面の笑みで抱擁しあう姿が浮かび上がってくる。この殺人事件の動機を明かす決定的な証拠を前にして、裁判では陪審員から10年以上の刑を言い渡されるだろうと警部が伝えると、ジュリアンはそっとつぶやく。



 「10年…20年…無意味な年月が続く。私は眠り、眼をさます、ひとりで10年…20年…」



 この作品の主題が、砂を噛むような日常との相克であることを示してあまりあるセリフだ。さらに注目すべきは、フロランスとジュリアンがあけっぴろげに抱擁する姿を一体、だれが撮影したのか? という謎だ。これから完全犯罪を実行しようとする不倫カップルが、こうしたポーズを第三者の前で演じたと考えるのはあまりにも不自然だ。とすると、やはり同じ答えになるだろう。ふたりの無防備なありさまを受け入れたのは共犯者のわれわれの願望であり、ひときわ高らかに鳴りわたるマイルスのトランペットが、この写真に血肉の通ったリアリティを与えているのである。