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人はなぜこんなに孤独なのか

2021.02.28 13:30

Facebook兼井 浩さん投稿記事  ■『尾崎豊の言霊』…彼が残した言葉です。

なんとなく暮らしやすくなった、みたいに思うかもしれない。だけど、そういう暮らしやすさに妥協して、本当に大切なもの、失くしちゃいけないものを、失っていく怖さみたいなものを、僕はいつも感じている。

僕らにとって大切なことは「誰が悪い」じゃなく、「自分たちはどうすべきで、どこへ向かうべきか」なんだってこと。わかってたけど、その答えがみつからなかったから、僕らは敵を作って、攻撃することで、その場をごまかしてた。そんな気がします。

裏切られるのが怖いのなら信じることから始めてみよう。

裏切られても信じることから、奪われても与えることから、寂しくても分け合うことから、悲しくても微笑むことから、明日が平和でなければ誰にも生きる意味がない。心をいつでも輝かしていなくちゃならない。気をつけてまっすぐ歩いてほしいよ。

どんなウマが合わない人間であっても、やっぱりその人の笑顔を捜してゆくのが大切なんだってことを言いたくて。

小学校の頃に考えたんだけど、一度でいいから、全人類が、ある一瞬、一秒間でもいい、みんながホントに幸せだって思えるその瞬間が現れることを期待していて、ずっとそんなことを考えているんだけど……。

世界平和っていうんじゃないけど、世界中の人間が笑ってる瞬間っていうのを作り出していきたいなと思ってる。

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尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日 - 1992年4月25日)は日本のミュージシャン、シンガーソングライター。破滅的で体当たりなパフォーマンスや自己の内面を抉り出すような赤裸々な歌詞の中で、真実の愛や夢、生きることの意味を追い求め、学校や社会の不条理に立ち向かう心の叫びのようなその音楽の世界が1980年代から1990年代初頭にかけての若者を中心に 多くの人から共感を呼び、カリスマ的存在となる。


https://mainichi.jp/articles/20210424/k00/00m/040/300000c 【「人はなぜこんなに孤独なのか」語り合い答え探した須藤晃さん】より

 尾崎豊さんの曲を聞くたび、いつも疑問に思うことがある。「なぜこれほど激しく自分の内面をさらし、向き合い続けたのだろう」と。インタビューの後編は、デビューアルバム「十七歳の地図」(1983年)などを手がけた音楽プロデューサーの須藤晃さん(68)。須藤さんが見た「尾崎像」とはどんなものだったのか。【江畑佳明/学芸部】

変化した音楽業界

 私が須藤さんと向き合ったのは、パソコンの画面越しだった。いわゆる「オンライン取材」である。実は数年前、取材で須藤さんに何度かお世話になったことがあった。久しぶりにお会いしたかったのだが、オンラインにしたのには理由があった。

 須藤さんがプロデュースしたアーティストは、尾崎さんだけでなく、村下孝蔵さん(故人)、浜田省吾さん、玉置浩二さんらそうそうたる面々。最近は尾崎さんの息子、裕哉(ひろや)さんのコンサートの音楽監督を務めている(公演情報はhttp://billboard-cc.com/classics/huwie-hiroya/)。

 だが昨年、東京の事務所や住まいを引き払い、故郷の富山に居を移した。「昨年母が亡くなりましてね。自分の生まれ育った家を処分する気にはなれない。墓守もいない。だったら住もうか、となったんです」と打ち明けた。

 コロナ禍も理由の一つだった。

 須藤さんも新型コロナウイルスの影響で仕事が少なくなった時期があった。それほど大きな影響ではなかったが、「これならば富山でも仕事はできる」と思った。仕事のマネジメントを担当している玉置さんに相談すると、「あと2、3年は元のような仕事は難しいだろうから、帰ってもいいんじゃない? それほど遠いところじゃないんだし」と賛成してくれたという。

 IT業界などでは東京から地方への移住がみられるとは聞いていたが、音楽界でも……。須藤さんは「そもそもこのコロナ禍で人々の価値観が変わったといいますが、さまざまなスタイルが変化したと思うんです」と言う。

 音楽界では、ライブをオンラインで配信するなど、これまでになかった状況に一変。コンサートを開いたとしても、観客は間引きされ、大声はもちろんNG。拍手しかできないケースもあるという。これでは熱狂や感動は得られないのではないか。

 そしてこうも口にした。

 「こういう状況で、尾崎さんならコンサートをやろうと言わないでしょう。だってお客さんがいないところで歌うなんて、独り芝居みたいな感じですから」。確かに、…


https://hitokoto.hamazo.tv/e465496.html 【★尾崎豊の歌詞】より

黙ってておくれよ 理屈なんかいらない    甘えだと笑うのも よくわかったから

無意味のような生き方 金のためじゃなく   夢のため 愛のため

そんなものにかけてみるさ

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尾崎豊の「街の風景」の一節です。高校生の頃この曲を聴いて共感した。

理屈なんていらない!そんな理屈で片付けられない!って思った。

金がなくたって夢や 愛があればって…大人になれば、じゃなくて歳をとれば歳をとるだけ

現実がみえてきて。恋愛して溺れたこともあったしかなわぬ夢に打ち込んだこともあった

今があるのは、そんな経験のおかげなのかな?

今の夢は

遠州ナビという雑誌が、もっと市民のみなさんに楽しんでいただける雑誌になること

家族みたいに仲良くスタッフたちとかかわっていくこと それができれば幸せだ。

尾崎豊

(おざき ゆたか、本名同じ 1965年11月29日 - 1992年4月25日)は、日本の歌手、シンガーソングライター。 東京都世田谷区出身。血液型はB型。ISOTOPE(アイソトープ)所属。

小学校卒業後は本人の強い希望により練馬東中学校(通称・ネリトン)へ越境入学する。練馬東中学校時代は、生徒会副会長を務めた。同期には中田久美がいた。校舎の裏でタバコをふかした場所は今でも残っている。

* 第一志望であった埼玉県内の私学の最難関である慶應義塾志木高等学校に不合格となり、青山学院高等部に進学。さらに、1月15日に受けた陸上自衛隊少年工科学校の1次試験は20倍の競争率を突破して合格。しかし、髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、既に合格していた青学に進学することになった。

* 学校から無期限停学処分を受け、ファーストアルバムを制作する契機となる。出席日数が足りず留年となり、自主退学。高校の一期先輩には高橋克典、二期後輩には蓮舫がおり、在学中から他界までそれなりの交流があったともいう説があるがはっきりしない。

* ファーストアルバムでの尾崎豊の歌詞は、何度も何度も書き直されたもので、ソニーでのレコーディングはリテイクの嵐だった。尾崎の持つ情熱をいかに文字として表現させるという事が、当初のテーマであった。

* 尾崎豊は完全な口コミでファン層が広がっていった。このため、ファーストアルバムである『十七歳の地図』は3千枚を売るのも大変で、当初はセールス的には成功しなかった。しかし、その後徐々に人気が出て『卒業』の大ヒットにより、その地位を確立した。

* 10代の頃は大人への反抗や反体制をテーマにした歌を多く歌い、新聞などで「10代の教祖」とも呼ばれたが、本人及びコアなファンはこうした呼称を嫌っていたとも言われている。だが、校内暴力が横行していた時代と相まって一種の社会現象ともなる(深夜に中学校の窓ガラスを割って回るなどの狼藉を働く者は尾崎デビュー前からもいたが、シングル「卒業」の歌詞に触発されて行った若者もあったと見られる)。

* 尾崎の詩を研究するファンにおいても、単なる校内暴力肯定等と解釈することへの批判が見られる。例えば「卒業」にしても「何度自分自身卒業すれば本当の自分にたどり着けるのか」が重要なテーマであって、学校からの卒業は不透明な未来の中で唯一分かっているに過ぎない瑣末なことだ、という見方がある。自らが校舎のガラスを割ったのは先が見えない無力さの発露あるいは愚行であって、自分自身における「卒業」こそが大事だという見方には、歌詞を素直に追っていけばうなずける面もある。

* 尾崎に覚醒剤での逮捕歴があることからしばしば誤解を受けるが、尾崎の死因は、経時的な悪化による薬物中毒死ではなく、司法解剖時に検死をした支倉逸人によれば、致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用—オーバードーズによる急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論付けられている。尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、また亡くなった日の状況がきわめて不自然であることから、他殺とする説もあるが、真相は不明のままである。(警察は「事件性なし」として調査を終結。-尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた再捜査嘆願書が警察に提出されたが受理されなかった。1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さはいっそう深まった。)そのため、今までに尾崎の生涯を描いた多数の漫画作品やテレビ番組においても、尾崎が死んだ様子は全く触れられていない。

* 現在、尾崎が倒れていた東京都足立区の千住河原町の民家の部屋は所有者の好意によってファンに開放されており、「尾崎ハウス」と呼ばれ、ファンの交流の場になっている。

* 友人の1人として、デビューが同期の吉川晃司が挙げられる。2人でステージを競演しようとしたが、尾崎が本番前に足を骨折してしまい、実現しなかった。

* プライベートの尾崎は普通の明るい好青年であった。吉川晃司の他に、岡村靖幸との交流も有名であり、大友康平、泉谷しげる、キラー・カーンなども素の尾崎を懐かしむコメントを出している。世間が尾崎に抱くイメージとのギャップが彼を苦しめたのだという意見も根強い。意外にも、光GENJIとしてデビューする以前の大沢樹生とも、よく夜の六本木で遊んでいた。

* また弟分として、俳優の吉岡秀隆がいる。尾崎の影響を受け、曲作りを始めたという。彼が出演した「北の国から」では、尾崎の曲をBGMとして使ったこともある。生前、尾崎豊は自作の小説『幻の少年』を映画化することがあれば、吉岡を主人公にしたいと思っていた。

* 尾崎の代表曲である『I LOVE YOU』はアジア各国の歌手にカバーされ、カバー曲を含めた総売上は全世界で1000万枚に達する。

* その思想や活動、若者におけるカリスマ的人気から、中学・高校などの公教育の現場では長らくタブー視されて来たが、死後、十年以上経った現在では、評価も変わって来ており、高等学校検定教科書に顔写真や『15の夜』の歌詞が掲載されるに及んでいる(『高等学校 新倫理 —人間とは何か 思索の糧に—』 清水書院、2002年)。『新課程用 倫理用語集』(山川出版社、2005年)には、「尾崎豊」は用語頻度“3”で掲載されており(現行教科書11種類のうち3種類の本に記述があるという意味)、「1980年代に活躍し、夭折したシンガーソングライター」「自ら作詞・作曲した歌の世界に没頭しながら全身全霊をこめて歌い」というように記述されている(ISBN 4634053500)。

* 実兄は早稲田大学を卒業後、現在弁護士登録。

* 葬儀は東京都文京区の護国寺にてファン葬が行われ、参列者は4万人で、美空ひばり、吉田茂に次ぐ規模であった。また密葬は日蓮正宗流にて営まれ、墓所は埼玉県所沢市にある。