Burdock
「せんせー!牛丼買ってきましたよ、一緒に食いましょー!」
青々と晴れ渡った空が広がるとある日。
せっかくの陽気を台無しにした、窓の一切無い部屋で煙草を吹かしている不健康な男、長尾の耳に場違いに賑やかな声が響いて届く。
金属の扉が重たげに擦れた音を立てバタンと閉まる、それから忙しない足音。
あたりに漂う香りは煙草の甘ったるい煙と、それに交じる微かな薬品臭。
見上げた天井には代わり映えのしない埃のかぶったミラーボールがある、ここはとうに潰れた廃クラブを改装して拵えた闇医院だ。
闇医院、というだけあって当然法律からは逸脱している。
正規のルートを通らない薬品、医療機器、そして免許を有しない医者。
いわゆる無免許医、それが長尾という男である。
そんな医院に訪れるのは勿論一般的な患者ではない。
明るい声を上げて、再度「せんせー!」と呼びかけながら入ってきた男、彼も派手なアロハシャツを着込み、覗く首元には如来の入れ墨が垣間見える。
ヤクザ、というものである。
「うるせぇぞ善治、患者じゃねー奴が来るな」
「つめてぇよ先生いいじゃねーか!ほら、どうせまた飯食ってないんでしょう?食いましょ食いましょ!」
善治と呼ばれたヤクザものは、派手な金髪に似つかわしい晴れやかな笑顔を浮かべて、反対に不機嫌そうな長尾の声をいとも容易く受け流す。
彼はこの闇医院の後ろ盾になっている真川組の舎弟で、つい先日長尾の手によって治療を受けたばかりだった。
治療といっても大きなものではなく、ちょっとした小競り合いで相手が刃物を出してきたとかで、3,4針繕ってやった程度だ。
しかしその際に身の上話を聞いてやり、妙に懐かれたようで時折こうして昼飯を買って訪ねてくるようになったのだった。
どうぞどうぞと勧められるまま、嘆息を一つついて牛丼のテイクアウト容器を受け取ると、まだ買ってきたばかりなのだろう、手のひらにじんわりと温かみが伝わる。
食事自体が嫌いなわけではないが、わざわざ作るのも買いに行くのも面倒という思いからつい抜いてしまったり、適当に飲み物だけで済ませてしまう。
しかし手にとって見れば醤油と砂糖、絶妙に牛肉の脂が滲み出した食欲をそそる匂いを感じ、確かに空腹だったかもしれないと気付いた。
気付いたのは手のひらに乗る、その予想以上の重量もだ。
「…お前これ…」
「特盛りっす!食ってない分取り返してもらおうと思って」
「お前は本当に馬鹿だな…」
食い溜め寝溜めは迷信だという授業とともに、結局米の半分は善治の容器に移すことになったが、たしかに久々に口にした牛肉と玉ねぎの甘辛い味付けは大変に美味しく感じた。
「善治、メシ代とっとけ」
食事が終わってから、また一本煙草を加えるとポケットから適当に紙幣を取り出し、善治の前に置く。
万札が一枚二枚…明らかに昼食代の数倍以上の額だ。
「え!?多っ、つかいらないですよ!!」
「いいからとっとけ、何かと金は必要だろう?特にこれからは」
その言葉に金髪の長い前髪に覗いた目を丸くする善治。
彼の身の上話の中にあったのだ、もうすぐ子供が生まれると。
ずっとひねくれて逸れた道を歩いてきた彼が、大事な女を見つけ、所帯を持つことになったのが2年ほど前のことだそうだ。
女の方も商売者のようだが気立てが良く、自分を叱ってくれるようないい女なのだと、照れくさそうに笑っていたことは印象に強い。
そんな女が自分の子供を生む。
彼にとってひどく感動的なことで、だからこんな怪我で寝込んでいるわけには行かないと意気揚々、大型犬のような屈託のない笑顔を浮かべていた。
話を覚えていたのかとでも言いたげな、複雑な表情をしながらモゴモゴとしばらくいや…、だの、でも…だの呟いていたが、やがて観念したように金を受け取り、頭を下げた。
それでいいとばかりに頷くと、ライターを取り出し、咥えていただけだった煙草にやっと火をつけて食後の煙を味わうのだった。
彼は世間から見れば鼻つまみ者のヤクザだ。
実際、暴力、恐喝…どんな『仕事』をしているのか把握しきれるものではない。
だがそれでも、大切なものが出来たことをこんなに幸せそうに笑う、…人が食事をとっているかを気にして差し入れをしてくれる、普通の男でもあるのだ。
長尾にはこの闇医院に訪ねてくる者は皆、ただ生き方の下手糞な不器用な人間のように思えた。
それが日中のこと。
もうすぐ深夜となった空は黒い帳をおろし、妙に明るい月がポッカリと浮かぶ時刻。
闇医院の中は口汚い喧騒と血の匂いに満ち溢れていた。
闇風俗街で真川組の下部組織と他の組の者たちが衝突、なんとか警察に検挙される前に逃げ果せたようだが、相手に手段を顧みない馬鹿が混じっていたらしい。
何発か、ではあるが拳銃が発砲されたのだ、夜中の風俗街とはいえ往来で。
その所為で場は一気に混乱に陥り、小競り合いで済むはずのところをパトカーが何台も押し寄せる大騒動に発展し、多数の怪我人を出したようだ。
真川組の怪我人たちは懇意である長尾の所に次々と運び込まれ、一挙に医院は騒然となった。
殆どのものは数針縫ってやるだけの裂傷で済んだため、馬鹿なことで仕事を増やすなと怒鳴りながら麻酔無しで雑巾でも縫うようにやってやったが、そこに遅れて担ぎ込まれた人物がひとり。
彼は、発泡した男と最も近くにいた。
銃を取り出したのにいち早く気づき、取り上げようと必死に食らいついていたのだと、その場にいた舎弟達は言っていた。
どうにかして騒ぎを鎮めようと…大きな問題を起こし、警察沙汰になっては組にも迷惑がかかり、自分や、一緒に居る皆が逮捕されるかもしれない。
だからこそ強引に、だが全力でその場を収めようとした、そして。
響き渡った破裂音。
派手なアロハシャツの布地と一緒に吹き上がった鮮血は、彼の金髪もべっとりと汚した。
動ける者たちはすぐに逃げることが出来たが彼は違う。
まともに足が動かず、目も霞んで一人で逃げることは不可能だったのだ。
なんとか警察の追っ手をかわし、他の組員に引きずられるようにして闇医院に連れ込まれた時にはもう、吹き上がった血は固まり、太陽のように明るかった金髪は血で黒ずんで、顔色に生気はなかった。
「………善治。」
長尾がポツリと零した、名を呼ぶ声に応えはない。
苦しんだのであろう、それでも生きたいと藻掻いたのだろう。
傷口を押さえていた手も腕も血で汚れ固まり、爪の中まで黒ずんでいた。
破れたアロハシャツから覗く入れ墨の如来が、まるでその生の全うを見送るかのように瞼を伏せていた。
「…こいつはもうダメだ。それより向こうの奴らの縫合を始める、施術台に運んでこい」
…そう、見切りをつけてやらねばならないのも、医師という、生殺与奪を託された因果な商売の宿命である。
もうすぐ春が来ようという季節。
喧騒の静まった廃クラブを背に当てもなくぶらりと歩き出せば、妙に明るい事に気づいて空を仰ぎ見る。
漆黒の闇夜にはぷっかりと、まんまるの満月が浮かんでいて美しく、殺伐とした今しがたの情景などまるで夢であったかのようだ。
手を洗っても、服を変えてもこびりついて鼻の奥に残る血の臭いを誤魔化して、また一本、煙草に火を付ける。
すぅ、と小さく息を吸えば微かに昇る煙が艶やかな夜空に滲んで消えていく。
医者として大層な人物であるとは思っていない。
闇医者である己が、救ってやりたかったと青臭い正義感を振りかざすべきでもない事実も理解していた。
それでも。
「…死んじまったら終わりだぞ、馬鹿な奴」
聞く者の居ない呟きが、夜の闇にぽつりと放り出されて霧散していく。
ただ消化し難い虚しさを抱いて、宛もなく、ポケットの中の車のキーを握っていた。