この身に余るくらい、果てしない
毒入りスープ 現行未通過❌
喉が焼けるように熱い。
いや、本当に焼けているのかもしれない。
その証拠に喉の奥、胃の底から湧き上がるように苦く、噎せ返るほど強烈な拒否感がせり上げ、口の中いっぱいを得も知れぬドロリとした生温く、鉄錆臭いものが満たす。
四肢は力を失い受け身を取ることも出来ず、マリオネットが糸を切られた様にぐしゃりと床につぶれ、視界は白んでほんの数メートル先も見通すことは出来ない。
胸の奥が余りの痛みに耐えかねて軋み、体ごと千切れる錯覚に呼吸もままならなくなった。
ああ、これが死か。
まさかこんな唐突に人生を終えることになるとは思わなかった。
誰が想像できただろう?
死にゆく己を囲むのは苦楽を共にした家族でも、強い絆で研鑽しあった仲間でもない。
初めて会った、名前しか知らない彼ら。
その名前すら呼ぶことは出来ない、喉は焼き切れてもうズタボロだ。
同じように苦しみもがく彼らの影が視界にちらつき、薄れ行く意識の中ついと一筋涙がこぼれた。
それを伝わせたのは痛みか、苦しみか、それとも。
ごめんな、あんなに脅えていたのに。
ごめんな、あんただけでも、助けてやりたかった。
最後の力を振り絞って手を伸ばす。
白すぎる細腕に指先が、触れ―――
「———ッ」
意識の急浮上に弾かれて瞼を開ける。
視界に飛び込んできたのは見慣れた自室の天井と照明。
すぐそばの窓はくたびれた紺色のカーテンで覆われているものの、合間から朝日が差し込んでいて一日の始まり、朝が来たことを告げていた。
まるでたった今とんでもない目にでもあったように見開いた眼は状況を把握できず、ぎょろりと部屋中を見まわした。
なにも変わりない、自室。
一人暮らしである為家具はさほど多くない、高くもない雑多な家財と薄汚れたカーテン、窓、譲り受けた中古品の為軋む音が気になるベッド。
ぎしと音を立てて体を起こせば、全身にじっとりと汗をかいていることに気づいた。
「…夢、か?」
寝起きでまとまらない思考を落ち着かせようと大きく息を吸い、吐く。
脳を満たすたっぷりの酸素に少しずつ気分が落ち着いてきて、やっと状況を理解するに至る。
浅見進太郎、格闘技好きの間ではそこそこ名の通るようになった総合格闘技のウェルター級選手で、所属するジムの2階を間借りして暮らす、それ以外には特に何の変哲もない男だ。
とびぬけた美形でも、並ぶもののない知識者でも、恐れを知らない無頼漢でもない。
総合格闘家、いわゆるスポーツ選手であることは多少珍しいかもしれないが、テレビに出るようなスターではないのだから、結局その辺の人と変わらない平凡な一般人である。
そんな一般人である浅見だが、今しがた、何かひどく恐ろしい体験を経て死に至ったような…悪夢を、見た。
普段から競技とはいえ戦いの中に身を置いているせいか、怖い思いをしたという体験は稀ではない。
きっとその中のいずれかが引っ掛かり、誇張した悪夢になったのだろう、内容は覚えていないが。
ただ覚えていないながらも強い後悔を感じていたような気がして胸がざわついた。
それしかないと自分に言い聞かせる。自分だけなら良かったけれど、それに誰かを従わせた…
「全然覚えてねぇ」
とはいえ、夢の話だ。
具体的に夢の内容を覚えている人も居るというが、浅見はそうではなかった。
そんな気がした、という曖昧な印象だけが残り余計に胸がもやついているのだ。
夢についてこれ以上考えても思い出せもしなければ何の得もない。
気分を切り替えるように嘆息すると、じっとりとかいた汗を流そうとシャワーを浴びにベッドから抜け出した。
降り注ぐ熱いシャワーを全身に受けると、それだけで目も覚め、気分もスッキリとした。
夢の内容は相変わらず覚えていないし、最早何を持って悪夢だと感じたのかもわからない。
結局何一つ変わらない、いつも通りの日の始まりだ。
…と、ふと。
湯を浴び、濡れた髪を適当にかき上げながら見やった一点に視線が集中する。
其処に在るのは風呂掃除に使うブラシ上の掃除用具で、勿論以前から部屋にあったものであり、当然浅見が掃除用に買い、置いたものだ。何も珍しくはない。
しかし、今日は妙にそのブラシに目が行く。
別段高級品であるといった特徴もない。ホームセンターで購入した、白いプラスチックの柄に臙脂のブラシ部分がついた掃除用ブラシ。
今風呂場を使っているものの時刻も朝の身支度の頃合い、掃除をするタイミングではない。
必要ないはずのそれに手を伸ばし、触れて、握る…けれど無論何が起こるでもない。
「…なんだ?」
自身でも何がそんなに気になったのか理解できず首を捻るが、またブラシを元の場所に戻し風呂場を出ることにした。
男の一人暮らしらしく暗い色のものが多い部屋だ、たまたま目についただけだろうと決めつけて。
髪を適当に乾かし、着替えて外へ出る。
スポーツ選手と言えば聞こえはいいが、テレビに出るタレントのようなものならまだしもただの格闘家の稼ぎはさほど良くない。
浅見はプロの格闘家として活動する傍ら、アルバイトをして生計を立てていた。
この日もバイト先へ向かい、数時間の勤務につくはずだ、が。
今度は道端に引かれた路側帯、それの白線に妙に目を奪われる。
何度も言うがいつもと変わらない日常だ、今踏みしめたこの道路だって数えきれないほど歩いている。
路側帯の白線、通り過ぎる古めかしいクラウン、そのクラウンを停止させた信号機、反対の道で元気に登校していく女子小学生の列。
視線がひきつけられる。
ともすればフラフラと道を出て追いかけてしまいそうだ。
これはおかしい。
浅見は強い動揺を覚えた。
部屋の中のブラシが目に付くなんてものとは比べ物にならない。
白線はまだともかく、クラウン…走る乗用車に近づけば事故になってしまうかもしれない、信号だってそうだ、女子小学生に至っては変質者と騒ぎ立てられ警察沙汰になる可能性まである。
一体自分に何が起きている。
悪夢で噴き出した汗を折角シャワーで流したというのに、また嫌な汗が背中を伝う。
おかしいことは分かる、分かるが妙に引き付けられる理由も分からず、ダメだと思っても目で追ってしまう。
白線、クラウン、信号機、女子小学生…
「白と赤…?」
ぽつりと小さく呟いた。
道路の白線、白いクラウン、赤信号、赤いランドセル。
共通点は白と赤という、その色ではないか。
そうだ、風呂の中で目に付いたブラシも白と赤だった。
急に合点がいったが、それも何に引き付けられるか分かったというだけのこと。
なぜ急に、そしてなぜそれらにまるで焦がれるような強い焦燥感を抱くのか、原因は全く分からない。
悪夢を見た所為なのだろうか、思い当たる節は無いのに突如沸き立った抑えがたい奇妙な感覚に浅見はその場から動けなくなってしまった。
白いもの、赤いもの。
もっと見たい、触れたい、手に取って、失くさないよう大切に、大切に…
「あのう、すみません…」
己の中に生まれた言いようのない不気味な感情に立ち尽くしていると、不意に背後から声が掛かった。
何もない道路に突っ立っているのだから、それだけでもかなり不審であったことは否めない。
もしくは具合が悪いと思われて心配されただろうか。
良いか悪いかと言われれば具合は悪い、けれども。
しかし、仄暗い邪な感情に気持ち悪く眩暈がしそうだと感じた矢先に掛かった声だったので、思考が現実に戻ってくる安堵を感じる。
落ち着いてみれば、やはりそこは何度も通った見慣れた道路で、日常の風景だ。
いつの間にか詰めていた息を吐き出し、陰鬱な感傷から引き揚げてくれた声の主を確認するため、振り返ると。
今一度、浅見は息を飲むことになる。
「道に迷ってしまって…」
そう照れ臭そうに苦笑する少女。
見覚えがないはずの小柄な少女は。
真っ白な肌と髪、血のように赤い瞳を持っていた。
(3173字)
2019/10/22 初稿
#毒入りスープ