ウィーン体制15-ルイ・フィリップ王位へ
2022.03.01 09:47
1830年7月27日から「栄光の三日間」が始まった。労働者や学生は、バリケードを築いて対抗したが、ポリニャック首相を辞めさせるのが目的だった。ところが、もっと大きなことを狙っていた男がいる、御年74歳のタレーランである。彼はタイイのオルレアン公に「直ちにパリに出て民衆の先頭に立て」と命じた。
オルレアン公ルイ・フィリップは、ともかくパリに出たが、パレロワイヤルにこもったきりである。軍は1789年と同じように、民衆に銃を向けるのを嫌がり、優位に立った市民は、チュイルリー宮殿、市庁舎、そしてルーブル宮殿を占領して、そこに三色旗がはためく。
シャルル10世は、7月勅令破棄と内閣総辞職を発表したが、すでに遅く、ルイ16世と同じ運命になるのを恐れてオーストリアに亡命する。議員達は、1789年のように混乱が広がるのを恐れ、ラファイエットをリーダーにした。立憲君主制支持者の彼は、ルイ・フィリップに国王になるよう求めた。
7月31日、タレーランの助言に従って、ルイ・フィリップはこの要請を受諾し、市庁舎に赴き、三色旗を掲げてバルコニーに姿を現し、民衆の歓呼に答えた。8月7日に「1830年憲章」がつくられ、8月9日、ルイ・フィリップが憲章を受託することでフランス王ではなく「フランス人の王」となった。