黒羽城
1. 城のデータ
[所在地] 栃木県大田原市前田
[築城年] 1576年
[築城者] 大関高増
[遺 構] 土塁、空堀、水堀など
[別 称] 鶴舞城
[形 状] 平山城
[登城年] 2015年5月3日
(※トップ写真:黒羽城・本丸南側の空堀)
2. 城の歴史
黒羽城を築いた大関氏は、武蔵七党・丹党の出身で、那須氏に仕えたが、次第に主家をしのぐ力をつけるようになった。当初白旗城、八幡館などを本拠としたが、1576年に大関高増は黒羽城を築き、本拠を移した。1590年の豊臣秀吉による小田原平定では、いち早く参陣し、1万石の大名として独立を認められる。
関ヶ原の戦いの時には、大関氏は東軍に属し、会津への備えとして重要視された。その功績により大関氏は加増され、2万石の藩主となった。その後、4代・増親の時に弟2人に1000石を分けたため、黒羽藩は1万8000石で幕末を迎えている。
3. 城の見どころ
黒羽城は那珂川と、その支流である松葉川の合流点にある高さ30mほどの丘陵先端に位置する。東西は両河川の浸食による断崖絶壁となっており、天然の要害の地であった。城の規模は東西約250m、南北が約1500mと細長く、北側から南側にかけてゆるやかに低くなる、傾斜のついた地形である。
もともと中世に築かれた平山城であるが、明治の廃城となるまで、江戸時代を通じて大関氏16代の居城であり続けた。一度も転封がなかったのは実に珍しい。現在は本丸跡周辺が黒羽城址公園として整備されており、土塁や堀などが良好に残る。
城の縄張は本丸を中心に、北に二の丸(北の丸)、東と南北が三の丸となり、三の丸の南側には、大関氏の菩提寺である大雄寺が設けられ、出丸としての機能を期待されていた。
黒羽城では、現在も空堀が随所によく残されている。特に本丸と、本丸の南に位置する馬出曲輪間の空堀は、なかなかの見どころである。最も深い場所で約15mもあり、幅は約20mある。V字状に掘られた薬研堀で、当時は廊下橋でつながっていたという。
(下写真:本丸東側の空堀)
本丸東側の入口である九鶴門跡は、土塁造りの枡形虎口となっており、実に厳重な防御が施されている。
(下写真:九鶴門枡形虎口)
虎口を抜けると、本丸跡であり、現在は伝承館と、物見台があるが、当時は城主が住む茅葺の本丸御殿があった。本丸の北側は中の丸跡で、ここの周囲の土塁についてもかなり高く、堅固なつくりだ。
三の丸の南東側には大手にあたる黒門(茅葺・入母屋屋根の櫓門)があった。この黒門は大関資増(高増の子)が関ヶ原の戦いに際して、徳川方からの援助で築かせたといわれている。現在黒門跡には道路が通っており、当時の城門は残されていないが、門の両側にあった石垣の一部らしきものは残されている。
(下写真:三の丸黒門跡)
総じて黒羽城の城域のほとんどが土塁と空堀で築かれているが、本丸の南東側、それに加えて三の丸の一角には水堀が一部残されている。黒羽城の遺構は、黒羽城址公園の周辺にも広がっているため、じっくりと散策することが望ましい。
(下写真:三の丸水堀)
4. 城のポイント
①2つの川に挟まれた丘陵の城 ⇒那珂川と松葉川に挟まれた天然の要害
②本丸を巡る土塁、空堀、水堀など ⇒本丸と馬出曲輪間の空堀は大規模
③本丸九鶴門跡の枡形虎口 ⇒空堀を渡ると枡形虎口になるつくり