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四旬節第2主日(C)

2022.03.11 20:00

2022年3月13日  C年 四旬節第2主日

第1朗読 創世記 15章5~12、17~18節

第2朗読 フィリピ3章17~4章1節

福音朗読 ルカによる福音書 9章28b~36節

イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

 イエスの受難の直前に、弟子たちはイエスの真の姿に触れる機会を与えられました。しかし、彼らはそれでもイエスが誰であるのかを理解することはできませんでした。ペトロは、仮小屋を三つ建てることを提案することで、あたかもイエスがモーセやエリヤと同等の者であるかのような勘違いをしています。天の声は、このペトロをたしなめて言います。あなたたちにはイエスだけで十分なのだと。今日、私たちはこのイエスに触れる恵みについて、四旬節にも入りましたので、ゆるしの秘跡を中心にして話しておきたいと思います。

 昨今、ゆるしの秘跡の受け方について語られることは、非常に少なくなりました。それは良くも悪くも、この秘跡についての考え方に大きな変化をもたらしています。第二バチカン公会議以前には、罪のリストのようなものがあって、それに照らし合わせて自分の良心を「糾明」し、どの罪を何回犯したかを告白するというのが、この秘跡の通常の形式でした。そこには、法廷をモデルにしたゆるしの理解というものがありました。すなわち、信者は、司祭を証人として自らの罪を告発し、キリストは、十字架の死と復活の恩恵によって、その罪をゆるし、無罪放免とするという考え方です。この秘跡のモデルは今でも有効なものではありますが、公会議以降の神学の発展により、現在では別のモデルが想定されることが通常となってきています。

 それは、イエスの癒しをモデルにした秘跡理解です。罪は、どんなものであれ、自己、神、他者、自然との関係性を傷つけます。そしてその傷は、知らず知らずのうちに私たちの生き方を歪め、愛を生きることを難しくしてしまいます。イエスは、その傷を癒すために来られました。私たちは、自らの傷を自覚し、そうなってしまった出来事を思い起こし、そこに寄り添ってくださるイエスの愛に目覚め、自分のありのままを告白する時、イエスの癒しの御業に完全な仕方で与ります。その目に見えるしるしが、ゆるしの秘跡であるということです。

 ですから、以前には良心の「糾明」と書かれることが一般的でしたが、今では「究明」と書かれるようになってきています。なぜなら、この秘跡は、良心を糾弾することから始まるのではなく、神によって良心を究め、明るくしてもらうところから始まるからです。罪のリストを見る前に、私たちは神と真剣に向き合う必要があります。神が、これまで自分にどんな恵みをくださっていたか、イエスは私にどんなふうに働きかけてくださっていたか、それに気づくことが良心の究明の第一歩です。そのように祈るならば、自ずと感謝の心が湧き出ることでしょう。この感謝の心から、次に痛悔が始まります。「果たして、私はこの神様からの恵みにこれまでどう応えてきたのだろうか」。この神との関係性に照らし合わせる時に、私たちは初めて、何が自分の罪であるのかを悟るのです。それは罪のリストにないものかもしれませんが、リストにあるかどうかは問題ではありません。私と神との関係性を阻害し、破壊してしまうようなことが、自分の人生にあったならば、それがまさしく罪なのです。

 そして大切なことは、今この自分の傷が照らされ、罪を自覚したその瞬間から、神の癒しの恵みはすでに働き始めているということです。私たちはもはや、ゆるされるための条件として告白するのではなく、無条件にゆるされているから告白するのです。これまでの法廷モデルでは、あたかも告白しなければゆるされないのではないか、という恐れからこの秘跡に与る傾向がありました。しかし、それは神と真実に出会っていることになるのでしょうか。あの十字架にかかったイエスは、そのような恐れを私たちに望んではいません。むしろ、私たちの罪を無条件にゆるし続けるその愛の深さに気づいてほしいのです。その愛に打たれる経験だけが、人間を変えるからです。

 そう考えるならば、私たちは告白について、今大きな知的回心が求められていると言えるでしょう。どんなに重い罪が自覚されたとしても、神はその私を愛して、ゆるして下さっているのです。そうでなければ、私たちは罪の重さにすら気づかないはずです。このあまりにも偉大な事実に気づかされるならば、私たちは告白を通して、ありのままの自分の姿を司祭に示しながら、神の偉大な業を賛美します。その時、罪の告白は私の信仰告白に変わります。「私は確かに~の罪を犯しました。しかし、私はそれでもイエスの愛を、ゆるしを、その真実を信じています。罪人であるが故に、私にはイエスの救いしか頼るものがないのです……」。このような告白は、一つの奇跡です。司祭は、この叫びに応えて罪のゆるしを宣言します。それによって、告白者と司祭は共に、神の御業を祝います。

 ゆるしの秘跡は、咎めの秘跡ではなく、祝いの秘跡です。そこでは罪を通して信者一人一人の信仰が告白され、ゆるしへの信仰を通して司祭の信仰もまた告白されるのです。イエスは、その全プロセスに聖霊を通して現存し、その恵みの内実を支えます。

 弟子たちは、十字架と復活以前には、主の変容の意味を悟ることができませんでしたが、復活後を生きている私たちは違います。主の変容の出来事は、私たちにも訪れます。自分の罪を主の十字架に合わせることによって、イエスのゆるしを心から信じて、罪を告白することを通して、私たちもまた変容するよう招かれています。ゆるしの秘跡が、「今日私は、確かにイエスの愛に触れました」、そんな体験を積み重ねて行くものでありますように。コロナで色々と制限があるとは思いますが、この秘跡の恵みを忘れないようにしたいと思います。

(by F.S.T.)