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Things

青い空と古書のカノン

2022.03.02 08:13

心臓がちょっとはやく動くだけ 現行未通過❌


幼い頃から繰り返し見ていた夢がある。


ある時は古びた家屋の縁側で、ある時は裸足で枯葉を踏みしめながら、またある時は体温をくるんで暖かくなった布団の中で。

夢の中で自分は、とても幸せだと感じている。

胸がぽかぽかとして、指先まで甘い痺れを感じる程に、その時間を享受していた。

常に隣には同じ人がいて、嬉しくなって自分は彼に笑いかけるけど、その顔は見えなくて。


そこでいつも気付く、ああまた同じ夢だと。

そして目覚めた時に、何故だか分からない切なさに少しだけ胸がきゅうと痛むのだ。

顔が見えない彼、隣に居るだけで幸福を感じさせてくれる人。

でもどうしても、思い出せなかった。


空は青々と広がり、真白の雲が雄大に浮かぶ春の日曜日。

街は普段よりもちょっとだけ賑やかな装いで、道行く家族連れやカップルの表情も明るい。

この街に引っ越してきたばかりの青年―――幼げな容姿からすると少年の方がしっくりも来る…―――は、陽の光の下では紺鉄色に透けて見える程の柔らかな髪を揺らし、年の割には大きな目をきょろきょろと動かして、その道を歩いていた。


まだ慣れぬ道で足取りはたどたどしく、歩む速度は幼児より遅い。

しかし億劫そうだとか、不安げであるといった様子に見えないのは、忙しなく動くその瞳が、おもちゃを探す子供のように爛々と輝いているからだろう。


青年、西宮周は今年の春、専門学生になったばかりだ。

大きな志があったかというと胸を張れるほどではないが、幼い頃から「人の役に立ちたい」という想いがあった。

その為、職業という選択肢では色々とあったものの中から、自身の体力や活動量、なにより不安な人に最も早く寄り添うという面から救急救命士を選び、目指したのは高校生になってから。

進路を具体的に考える段階で、まさか身長制限があると思わず危うく引っ掛かる所だったが、無事にそれは通過して卒業生に幾人もの救急救命士や、消防士、看護師を輩出している救命と看護の専門学校に受かることが出来たのだ。


学校に通う距離を考え一人暮らしを始めたのがほんの数か月前のこと。

まだ用事が相当にある場所以外は、街の半分も把握していない。

慌ただしい引越の片付けも、学校課題の多さも何とか落ち着き、自由が出来始めた頃合いである。


窓の外に広がる空は青く、風は暖かで心地よい。

何故季節ごとに空の色は違って見えるのだろう、考えども答えは分からないのだが。

そうだ今日は探検をしよう、そう決めてふらりと目的地もなく、街へと繰り出した。


周はまず、大きなスクリーンに今はやりのバンドのMVが流れる小さなカフェに立ち寄った。

日中はカフェとしての営業だが、夜はスポーツバーとして機能するらしく、スクリーンはその為かと感心しながら、店主おすすめのサンドイッチを頬張る。

カリカリに焼かれたベーコンと、瑞々しいレタス、たっぷりと厚みのある目玉焼きと絶妙な酸味のコールスローがたまらない。

パンではあるが、食べ盛りの周の腹にもしっかりと溜まる、絶品だった。


食後に、とたっぷりミルクの入ったカフェラテをテイクアウトし、また街に繰り出せば次に見つけたのは小さな公園だ。

遊具などは何もないが、小さな噴水と、青々と茂る大きな木、二つだけ置かれたベンチと開放感があって心地よい。

日曜日だからか幼い子供を連れた夫婦が、皆でキャッチボールをして居る笑い声も、ベンチの一つに腰掛け図書館の貸し出しラベルがついた分厚い小説を読みふける老人も、この公園の雰囲気にぴったりのような気がした。


何故最近の公園には遊具が無いのだろう、それなのにこうして街中にいくつも作られているわけは…などと思考せども、答えは此処には無い。

それよりも今欲しているのはちょっとした休憩、だ。

周はそんな一つの空間を邪魔しないよう、そっとベンチではなく、噴水の淵に腰かけて、のんびりとカフェラテを啜る。

髪を擽る風はまだ暖かく、穏やかな陽気に誘われてうっかりすると寝てしまいそうだ。

丁度カフェラテの最後の一口を流し込んだところで、キャッチボール用のボールが足元に転がってきたので、極々優しく下投げに子供に返してやれば、また嬉しそうな笑い声が響き、両親たちからも柔らかい笑顔と感謝の言葉を受け取った。


カフェも、公園も、探検らしくこの日は新しい発見をすることが出来た。

こんな気持ちの良い日の事を誰かに話したい、誰かにもここを好きになって欲しい。

そう思いながらも出来たばかりの友達たちは、もう少し派手な遊びの方が好きなのだろうと想像して一人苦笑する。

周だってまだ18歳、無論そちらの遊びも好きなのだけど。


さて、と。

立ち上がり、公園内に設置してあったゴミ箱にカップを放ると次はどちらの方向へ行こうかと視線を彷徨わせる。

こちらの道は駅へと続く普段も通る道と合流する、あちらの道は大きなショッピング施設へと至る大通りに。


ならばそっちだ、と新たに踏み入れたことのない道へと進む。

今日は探検の日だから迷子になるのもいい、そんな陽気な面持ちで。

道はしばらく住宅街の中を彷徨ったが程なくして、ささやかな通りといった場所へと通じていた。

通り抜けてきた商店街や、駅前のような騒がしさは無く落ち着いた雰囲気で、街路樹も多く空気が変わったように感じる。

辺りは古くからの店が多いのか、賑わってはいないが街に馴染んだ穏やかな様相を醸している。

すっかりと色あせた暖簾を出した小料理屋や、軒先で老人同士囲碁を打ちながら店番している電気屋など、古き良き街並みといった雰囲気が、周にとっては逆に新鮮で物珍しい。

かといってふらりと立ち寄れるような店は無さそうだな、と踵を返そうとするが視線の先に、ふと一軒の店の看板が目に留まった。


遠目には何の店か分からないが、少なくとも食べ物の関連ではなさそうな佇まい。

間口は広く開けてあるが、店の奥までは薄暗くて見通せない…看板には「あまつき」と書いてあった。


トクン、と鼓動が弾む。


何へ反応したのかはよく分からないが、夢を見た時のような胸に広がる温もりと切なさを同時に感じたような気がした。

吸い寄せられるような不思議な引力のままに店先を覗いてみれば、ぷんと香る古紙の匂いと入って直ぐからずらりと並ぶ本に、そこが古本屋であると分かった。

本棚に一杯に詰まった本たちが、遠目には店の中を暗く見せていたのだろう。

実際に覗いてみると、店内は特段狭苦しくも暗くも、ましてや黴臭くもなかった。

古本と言っても、丁寧に磨いているのだろう。

入口から見渡す程度の棚だけでも、どの本も綺麗で…サイズや作者名はまちまちのようだから整頓はあまり得意ではないのかもしれないが…とかく、隅々まで手が行き届いているのだと感じた。


好奇心は旺盛だが、勉強が得意とは決して言えない周である。

本屋はそれこそ受験の時ぐらいしか世話になった記憶がない。

しかしこの時は、確かに導かれていたと言って過言ではない程に、その店の中に入るのが自然なことに思えたのだ。


店に踏み入り、本棚の隙間を縫う。

他の客はいないらしい。店内にはBGMのクラシックも、ラジオも聴こえない。

ただ喧騒からちょっと離れた微かな人の気配と、時折外を通る車の音、店のすぐそばの街路樹が風に吹かれてカサカサと葉を揺らす音がしていた。

くるりと本棚を見回しながら店の奥まで入っていくと、古紙が持つ独特の匂いが強くなり、まるでタイムスリップへの道行を歩いているような奇妙な、しかし少々浮足立つような感覚が湧く。


店の奥、そこに。

椅子に腰かけて転寝をしている店主と思しき男性の姿があった。

店の者がいないわけはないと思ったが、余りに静かだったので見つけた瞬間はびっくりして一瞬飛び退いてしまった。

店主は周よりは一回り年上といったほどだろうか、古書店の店主として想像するには随分若い。

近くの窓から差し込む陽光を受けて、キラキラと輝く長髪は薄い茶だろうが、金色にも見えた。


トクン。


再び胸が疼く。懐かしいような、切ないような複雑な想いに。

明らかにこの店主の姿を観た所為だが、起きないのをいいことにまじまじとその顔を覗き込んでみても、覚えがなく、凡そ知人だとは思えないのだが。

不思議な想いに首を傾げていれば、さすがに不躾な視線を投げすぎたか、店主が微かに身じろいだ。

まだ起きてはいないようだが、眉間に皴を寄せ、苦虫を噛み潰した…いや何かに苛立ちを感じているのではと想像できる表情で魘されている。


彼は知らない人だ。

引っ越してきたばかりの街で、しかも歩いては来れるもののご近所というほどではなく。

何なら一生で会わなかったかもしれない、そのくらい距離のある人物だったはずなのだが、どうしてか、そのままにしておいてはいけないと、確信してしまった。


「…すみません。大丈夫ですか?」


軽く肩を叩く。

その肩は細く、しかし軟でない男性のそれで、触れる程近くに寄ったって見覚えがあるわけではない。

何度か声を掛け、その肩をゆすぶると次第に店主は眠りの世界から呼び戻されたのか、ゆっくりと瞳を開けて不可解な…だが不快とは違う、純粋に驚いたといった表情で周を見返した。

魘されていたので、そう続けようとしたが周の声も詰まる。


かちりと正面からあった視線に、絡めとられるように、思考が混ざり合い、一歩止めて…それからゆっくり歩み出したのが分かった。


時は春。

桜はもう過ぎ去ったけれど、空は澄みわたる青、浮かぶ雲はふっくらと真白で、もう少しすれば季節が移り変わるという予感もする季節。

再び動き始めた秒針は、どうやって時を刻むのだろう。

焦れる程にゆっくりと、目まぐるしくもあっさりと。

今はただ、目の前に差し出された手を取るだけ。

彼は新しいカフェに付き合ってくれるだろうか、公園まで散歩してくれるだろうか。

毎日見つける色んな「何故」に、答えてくれるだろうか。






(3966字)

2021.2.3 #心臓がちょっとはやく動くだけ