信用の条件
放課後の教室。
大半の生徒は部活や委員会に出ているか、さっさと帰路についていて人気は少なく、ただ全く無人になることはない校舎や校庭からちょっとしたざわめきと、人の気配がするあり触れた夕暮れ時の出来事。
学生という物を離れて暫し、日常に忙殺され、中々一般人では出会わないかもしれない苦難にも立ち向かい、慌ただしく過ごしてきた現在。
大人になった今でも、忘れられない光景がある。
彼女、時任唯子は少々古風な女生徒だった。
というのも父親が警視庁参事官、母は書道教室の師範だがその父、兄と警察関係者である、要するに警察一家に生まれたのが唯子だ。
まったく興味がないと反抗してみれば違ったかもしれないが、周りには当然のように警察ないし、それに準じた仕事に将来就くだろうと望まれて育った。
敷かれたレールには乗りたくないと、お約束の様に突飛な事をしでかす親絡みの幼馴染たちもいたが、唯子に至ってはごく自然といつかは父のような刑事になって多くの人を助けるのだ、と将来の夢に据えていた。
それが両親に伝わったのか、幼い頃から厳しく躾けが入り、実直で品行方正に育ち、高校生となった今や少々世間知らずと言うか…遊びの足りない生真面目な生徒といった印象を周りに与えている。
しかし、かといってこれは本来の彼女の性質か、遊んでばかりの同級生や、校則を破り化粧をしてくる先輩を咎めるでもなく、素直に其処今度行ってみたい、お化粧どういうの使えばいいんですか?などと気兼ねなく付き合っていたので学校で浮くということも無かった。
無論、唯子は硬すぎと揶揄われることは多分にあったけども。
高校2年生になったある日、唯子は風紀委員に抜擢された。
抜擢と言うよりも、誰もやりたくなくて押し付け合った末路だったかもしれないが、それでも与えられた仕事は真っ当しようとそれから一年、校門の前に立って登校の生徒にあいさつをしたり、校外のボランティアに出向いたりとそれなりに忙しく、また充実した日を過ごした。
そんな何の問題も無い委員会活動の中で一つだけあった懸念が、隣のクラスの風紀委員になった男子生徒の彼である。
彼は委員会初日の顔見せも、いかにも面倒と言った面持ちで所在なさげに幾度も椅子に座り直していた。
校則破りぎりぎりの暗い茶髪に長めの髪で隠したピアス痕、ネクタイはいつもポケットの中で常に靴のかかとを踏み潰したその姿。
なんでも、中学のころから遊びが派手で最近偶々髪色が濃いのはなにも改心したわけではなく、単に新しい彼女の好みであるらしい。
なぜ彼が風紀委員なのかとそこら中からバッシングが起きそうな物だが、彼のクラスでもまたその役職を押し付け合ったのだろう、それを指摘しては「じゃあ自分がやれよ」と返されてしまう。
それを倦厭しているのか、指摘する生徒は居なかったようである。
校外活動や連絡日誌付けなど、委員会の仕事は大概複数で行うことが多く、また二人でと決められたらほとんどの場合が隣のクラスの委員ととなるのが通例だった。
その為、唯子は否が応にも彼とペアになって業務にあたることが多くあったが、一度として彼が真面目に協力してくれた日はなかった。
遅刻、早退、押し付け…うんざりするほどの怠慢ぶりだが、そもそも学生の委員会活動に二人で一生懸命行わないと終わらない、なんて激務があるわけではない。
とりわけ、前述したように実直で品行方正であった唯子の評判は教師陣にはとても良く、委員会業務が滞ってもここまでで大丈夫、などと咎められることも無かったのだ。
故にペアになった隣のクラスの彼は不真面目なままだったが、問題なく高校生活を送っていた。
そしてその日、放課後に委員会用に貸し出された多目的室の一角でその陽の日誌を付けていた時。
相も変わらず活動が終わりかけ…いやほぼ終わってから彼はなんてことなさそうにヒョイと扉の隙間から中を覗き込んだ。
「あー、ごめんね時任さん。俺委員会忘れて部活の助っ人に行っちゃって…」
「…大丈夫、もう終わるから」
申し訳ない、顔だけ見ればそう思っているようには感じる。
しかし毎回がそうなので今回も分かっていてすっぽかしたのだろうという事は分かり切っていたし、今更怒りがわくものでもなかった。
普段であればこの後、次は遅れないからなどと耳触りの良い言葉を言って帰って行く彼の背中を見送り、唯子はまとめ終わった日誌を委員会顧問の先生に渡してから帰宅する。
だが、この日に限って彼は態々もう終わると告げた唯子の前まで歩み寄り、向かいの席に此方を向いて座り、小首を傾げて見せたのだ。
「時任さん、何で怒らないの?」
予想外の彼のセリフについきょとんと目を丸くしてしまう。
怒るようなことをしている自覚があったのかという事もそうだが、彼がそれを当人に聞いてくるような、火の中に自分で突っ込むような性分には思えなかったからだ。
そして答えに困ってしまう。
なぜ怒らないかと言われても、明確な理由が思いつきもしなかった。
「だって怒っていないから」
その返答に今度は彼の方が目を丸くした。
反応からしてやはり怒ってほしかったのだろうか、人の機微という物は大変に難しく、大人っぽいと幾度となく言われている唯子だってまだ高校2年生なのだ、理解することは困難だ。
「え!だって一度もまともに仕事手伝ってないし、風紀委員の癖にこんな見た目だし」
「それでも私は困っていないもの。君が何処で遊んでいようと、どんな彼女が居ようと」
「あ、やっぱそういう噂を知らないわけじゃないのね」
やはり怒られでもしたいのか、自らの小さな罪を打ち明けるようにいってくるので余計に疑問で、どうあったとて自分の琴線に触れるものではないとつい答えれば、噂は知っていたかと苦笑される。
そういった噂は高校などという狭い空間では幾らでも流れてしまうものだし、人の口に戸は立てられないというのを体現して何処までも広がり、知ろうとせずとも知ってしまう、そんなものであるが、やはり怒りから敢えて知っていたように思われてしまうだろうか、と失言に密かに嘆息する。
この押し問答に何の意味があるのか、とにかく怒ってもいないのに怒っているのだと思われるのは本意ではない。
さっさと話しを切り上げて帰宅しようとつけ終わった日誌をパタンと閉じ、顔を上げると、ふと。
「知ってるのに、態度かえないでくれてるんだね」
彼は教室や委員会中、友達といる時には見せた事のないような、眉を下げた笑顔を見せた。
困ったような、でも嬉しいような派手な見た目の彼には似合わないなんだか大人びた笑い方。
「俺さ、流されやすいんだよな、自分が無いのかも…見た目もそれこそ…その時好きな子に合わせて…頼みごとも、断ると友達辞められんじゃないかって怖くなって」
閉じた日誌を掌の下に置いたまま、急に話し出した彼の言葉を聞く。
どこかの窓が開いていたか、校庭の賑やかな声と共に夏の始まりを告げる爽やかな緑の匂いが混じった風が吹きこんで、カーテンと二人の制服を揺らす。
思えば男子生徒とこうして二人で話をしたこと自体、初めてだったかもしれない。
しかし彼が普段とても人懐こく笑い、こうして生真面目すぎると揶揄われる唯子にも気兼ねなく砕けた言葉をかけてくれる。
感じた事のない、居心地の良さを感じ始めていた。
「だから、時任さん…許してくれるから、甘えてた。ごめんな」
「…別に…本当に、困ってなかったから…」
なんだか妙に話しにくくなったような、喉が詰まるような感覚を覚えたがそれが何だか唯子にはまだ分からなかった。
「…ありがと。次の委員会は絶対遅れないよ」
立ち上がった彼は、何処かすっきりしたといった面持ちで、手の下に敷いていた日誌と自身の鞄を持ち上げた。
提出はしておくから、早く帰りなよと唯子に告げ、晴れやかな、けれど大人びた笑顔を浮かべながら多目的室を立ち去る。
この時唯子は自分の頬が熱くなっていることに気付かなかったが。
それから一週間後、唯子は彼と付き合うことになった。
周りからは当然辞めた方がいいと止められた。
生真面目で優等生な唯子と、一度もまともに委員会活動に顔を出さない、校則破りぎりぎりの派手な男子生徒。
正直二人をよく知る友人でなくても、辞めた方がいいと苦言を呈したくなる組み合わせだろう。
だが、唯子は彼がもたらす今迄になかった新しい発見や、時折見せてくる大人びた一面、つい甘えてしまうなんて照れ笑いする彼に言い知れない愛情を抱いていたし、彼の噂通りの不真面目な付き合い方ではなく、唯子を喜ばせるような場所を探し連れ出してくれたり、ふとした瞬間に好きだと言葉にしてくれる素直なところがとても好ましかった。
周りが心配するほど、当人たちには何の問題も無い。
そうして夏を始める前に交際が始まり、夏休みには彼の部屋で勉強をしたり、浴衣を着て夏祭りに行ったり、電車に乗って遠くの海に出かけたりと楽しく過ごした。
その中で、いつしか関係も深まり、小さな背徳感と気持ちよさに溺れた日もあった。
夏休みが終われば、少しだけ大人になったようなそんな心地で残る日焼けあとすら思い出に見えたものだった。
そして、その日が来た。
放課後の学校はひと気は少なくなったものの、完全に無音の世界ではない、多少のざわめきと、けれど授業中とは違う静謐な雰囲気に変わる。
唯子はこの日親戚が来るから早く帰って来いと父に言われてそのつもりで学校を出たのだが、急に外で食事してくるから夜までに帰ればいいと予定を変更されてしまった。
真っすぐ帰ればもちろん良いのだが、外に食事に出たのなら父も親戚も多少の酒を酌み交わし、あまり早くは帰ってこないだろう。
それをいつ帰ってくるかなどと時計を見、緊張しながら家で待つのはあまり得策じゃないように思えた。
それなら、もしかしたらまだ校内に彼が残っているかもしれない、そう気づいて戻ることにしたのだ。
彼は友人が多いので放課後もすぐには帰らずよく友人たちと話したり、部活の助っ人に入っていたりと楽しそうに過ごしている。
無論唯子と約束した日はその友人たちと別れを告げ、一緒に帰ってくれたし、寄り道をしてくれたりもした。
なので、今日の予定が無くなってしまって、と相談すればきっとまたどこかに遊びに連れて行ってくれたり、一緒に時間を潰してくれるに違いない。
それとも家に呼んでしまうのも良いかな、なんて浮かれた気持ちで扉に手を掛けようとしたその時、教室の中から漏れ出してくる、複数人の声が耳に届いた。
「お前さぁ、時任と付き合ってて楽しいの?」
ドキリと心臓が早鐘をうつ。
声の主は彼とよく一緒に居る友達の一人だろうか。
揶揄いを含んだ声音、明らかに唯子の話であるが彼と自分の話をしているのだろうか。
扉を開けようとした手が止まり、無意識に息を呑んでしまう。
唯子は硬すぎる、これは何度も言われた揶揄であるが親しい女友達に言われるのと、恋人、そして恋人の友人が陰で言うのではまるで意味が違う。
「あー、それ思う。別にブスじゃないけどさぁ、つまんなそうじゃん」
「分かる~、俺笑った顔見たことないし」
複数人が笑いものにしている。
途端に指先が冷え、ぎゅうと胸が痛くなった。
折角楽しく学生生活を送れていると、好きな人が出来たと充実した毎日を過ごせていたのに、そんな思いは友人らには当たり前だが全く関係なく、未だに色眼鏡で見られている。
それが辛い。
確かに彼は見目は派手だがつまるところ身だしなみに気を付ける程度に格好よく、優しくしてくれて女受けがいい。
かといって、一緒に居る自分の所為で評価を下げてしまうなんて嫌だ。
今すぐその場を走り去りたいと目尻が滲みそうになったが、そんな中でも。
それを否定してくれる彼の言葉が聞きたい、そう思ってしまった。
後から考えてもこれが正解だったか失敗だったか分からない。
「まー、唯子は正直あのおっぱいがなければ付き合わないわな」
瞬間、目の前が真っ赤になった心地だった。
実は詳しく覚えていないのだが、何でも唯子はその日あんなに開けがたいと感じた扉を次の瞬間思い切り開け放ち、真っすぐと勢い良い平手打ちを彼にお見舞いして立ち去ったらしい。
大人になってから考えてみれば、全て彼の掌の上だったのだ。
急に自分の弱みを見せるようなことを話したのも、大人びた笑顔を唯子にだけと思わせて見せてきたのも、彼の巧みなテクニックだった。
彼は特別唯子の事が好きだったわけではないが、ちょうどその時彼女はいなかったし、同級生に比べて大人びた体つき…主に胸が…をしていたのに興味を持って近づいたのだ。
恋愛ごとに全く疎かった唯子はいとも容易くその手腕に溺れ、恋に恋するように夢中になってしまったのだろう。
彼の悪評は瞬く間に学校中に広がったが、元々ある悪評が追加されただけの事、長くない間にそんな話題も飽きられたし、きっとまた別の女生徒がその歯牙に掛けられたに違いない。
彼にとっては数ある失敗の中の些細な一つ。
しかし唯子にとっては、余りにも手痛い初恋の終わりを意味していた。
それから数年、唯子は望み通り警察官となった。
まだまだその中では新人であるし、父のような立派な勲功もありはしない。
それでも世間から見れば十分に立派な大人であり、これから輝かしい未来を夢見て邁進していく若き力であるが、そんな胸の内にほんの小さなしこりとして残り続けるトラウマ一つ。
『女性に性的な目を向ける男の人は信用できない。』
2020.10.15
(5428字)