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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 170 (04/03/22) 旧浦添間切 (6) Nakama Hamlet 仲間集落 (2) 浦添グスク

2022.03.06 08:34

旧浦添間切 浦添グスク



仲間集落内の見学を終えた後、浦添城の見学に移る。浦添城への道の途中に浦添ようどれ館がある。まずはここを訪れる。(3月4日に全部は見れなかったので、3月8日にも訪問した)



浦添ようどれ館、仲間後原遺跡

浦添ようどれ館が建っている場所は13世紀から14世紀に存在した集落の仲間後原遺跡だった。隣接する浦添グスクが栄えていた時期と重なっており、浦添城の城下町だったのだろう。仲間集落はこの地から始まっている。発掘調査では、建物の柱穴や炉跡、集落の内外を分けたとみられる溝が見つかり、また、中国製の陶磁器や長崎産の石鍋のほか、沖縄で作られた土器なども出土している。ようどれ館では浦添ようどれの英祖王の墓を実測で再現しており、王墓の中を見る機会はほとんどないので、このように再現している展示はありがたい。係員さんも親切で、色々な質問に長い時間付き合ってくれた。駐車場の脇には浦添市港川で発掘された石切場跡の遺構を一部保存していた。


浦添ようどれ

ようどれ館から丘陵尾根を浦添グスクへ向かうと、道の途中から下る階段があった。そこから浦添ようどれに降りるようになっている。階段上からは復元されたようどれの石垣が見える。階段を降りると。もう一つの道の丘陵地北の麓から登る石畳道があった。


御墓番屋敷跡、極楽寺跡

浦添ようどれには、ようどれ館前から公園内の遊歩道を通って行く道もある。そこからは浦添ようどれの北からの普天間街道に続く入り口に着く。ちょうど、浦添ようどれの下だ。ここには沖縄戦まで浦添ようどれを管理していた御墓番の屋敷があったと案内板に説明されていた。

御墓番は島袋家、比嘉家、翁長家の三家族によって行われおり、浦添ようどれへ上る道の右側に島袋家の屋敷があった。

左側は比嘉家と翁長家の御墓番の屋敷跡だ。また、この一帯はかつて極楽寺があったと伝えられている。極楽寺はここから仲間集落内に移動して龍福寺と改称。

ここにあった極楽寺では察度によるクーデターがあったとするストーリーが「小説 尚巴志」にでている。1349年、察度が主君である西威王 (玉城王の四男)、玉城王の次男 玉城王子、玉城按司、北谷按司、具志頭按司が玉城王の法要で浦添のこの極楽寺に集まっていたところを襲撃し殺害し政権を奪取したとしている。沖縄での通説では英祖王統第五代西威 (イリー) が死去した際に世子がまだ5才だったので、家臣のうち人望があった察度がおされ即位し察度王統をたてたとされている。ただ、これには多くの説がある。西威は先王の玉城王の後、10才で即位し、21才で死去している。当時は成人した兄もいたが、何故、西威が王となったのかは疑問。それには第三代英慈王の四男の玉城が王位についた背景にはは舜天王統系一族が味方についたという事があった。玉城は兄三人を討ち果たし王位を獲得した。この玉城と舜天一族との繋がりは強く、この舜天系から玉城王は妻を迎え、その女性との間に生まれたのが西威だった。舜天系が王府内で権力を握るには正室の子である長男から三男は邪魔な存在だった。早々に正室の子を追い出したのでは無いだろうか?正室とに間に生まれた嫡男のカヌシーは大城按司となったのも舜天系の圧力があったかも知れない。幼少の西威を即位させ、その母親とそれに連なる舜天系家臣が政治を牛耳っていた事からも多分そうだろう。かたや、察度は玉城王に討たれた英慈王の長男の娘と奥間按司との子供になる。察度は王府内の反舜天系の家臣の支援により浦添按司となり、その一派の盟主的存在にまでなった。察度が王位についた時代の背景はこんな感じだった。西威が21才で死去したのは不自然さが拭えない。察度は周りを固め、西威を毒殺したとも考えられる。小説では武力クーデターだったとのストーリーとしている。良く考えたストーリーだ。舜天系の玉城王に連なる一派を一挙に葬ったという推測だ。確かに西威自体が操り人形で、実権は持っていなかったので西威だけを始末しても意味がない。陰の実権者も討たなければクーデターは成り立たない。その実権者がまだ生存していれば、別の傀儡後継者を擁立しただろう。その傀儡は別の幼児でも良かった筈だ。なんらかの手段 (極楽寺襲撃) で、陰の実権者をも取り除いたと考えるべきだろう。その意味では、小説の筋が最もありえる様に思える。


前庭 (メーナー)

階段下から参道を進むと前庭 (メーナー) に入る。


暗しん御門 (クラシンウジョー)

前庭を抜けると暗しん御門 (クラシンウジョー) となる。ここは自然岩を加工したトンネル状になっていたが、沖縄戦で破壊されてしまった。


二番庭 (ナー) 

暗しん御門 (クラシンウジョー) を抜けると二番庭 (ナー) となり、ここから中御門 (ナカウジョー) をくぐり、ようどれに入る。

二番庭の下から銅製品や鉄製品をつくる作業場だった金属工房跡がみつかっている。炭のまざった黒い土の中から、製品をつくったときに出たカス (鉄滓、鍛造剥片、粒状滓) や、鉄や銅を溶かしたり、溶けた金属を注ぐ容器 (坩堝または取瓶)、炉に風を送る送風管 (輪の羽口)などが出土している。

浦添ようどれは、発掘調査で15世紀前半に改修されたことが判明している。金属工房跡近くには、その改修工事の際に、墓室にあった瓦葺き建物や、その中に納められていた板厨子を焼きすてた穴と考えられる瓦溜まりが発掘されている。多量の瓦や釘のほか、金色の飾り金具や漆の塗膜片などが出土している。 

浦添ようどれ館に出土品の展示をしていた。


西墓 (英祖王陵)、東墓 (尚寧王陵) 

浦添ようどれは二つの墓がある。英祖王統初代王の英祖が葬られていると言われる西墓と第二尚氏七代の尚寧王を葬られている東墓がある。

西墓は英祖王陵といわれているが、英祖王が実在したかが長い間議論の的だった。近年は実在した可能性が高いと考えられ、この西墓は英祖王のものと考えられている。浦添グスクについても英祖王が伊祖城から居城を移したとも考えられている。

英祖王陵の西墓の内部はようどれ館に実測で復元されていた。

英祖 (えいそ、イーズ) は天孫氏の最後の王、25代思金松兼王の四男 西原王子 (思次良金) の世子である伊祖城 (イーズグスク) の恵祖 (イーズ) 世主 (浦添按司) の子とされる。英祖は王府では摂政を務め、舜天王統の義本 (ギフン) からの禅譲を受け、英祖王統を開いた。英祖の生誕時に母親が太陽を飲み込む夢を見たところから、「てぃだこ (太陽の子) 」とも呼ばれたという。 (沖縄では良く「てだこ」の店名や場所を見かけるが、それはこのティダコのこと) この英祖即位についても、禅譲ではなく、クーデターという説もある。英祖は義本王の摂政まで出世しており、政治は英祖が実権を握っていた。英祖王統となってからは、義本一族を追放していることからもクーデターであったことから推測されている説だ。

西室には三基の石厨子があり、側面には沖縄に現存する最古の仏像彫刻とされる仏像や花、獅子などが細かく浮彫されている。石厨子がつくられた年代は15世紀前半 (尚巴志王代の英祖の子孫による) と考えられている。各石厨子には10体以上もの遺骨が納められていた。

尚寧王陵の東墓については、ようどれ館でビデオ上映されており、墓内部をCG化して説明していた。東墓の側には焚字炉が残っている。第二尚氏歴代王は首里の玉陵 (タマウドゥン) の墓に葬られているのだが、尚寧王は遺言でここに葬られる事を望んだ。故郷に葬られる事を望んだのか、それとも尚真王が玉御殿を造った際に建てた石碑には葬られるべき人々を規定し、尚真王他8人の名が記され、この書き付けに背くならば、”天に仰ぎ、地に付して祟るべし”とある結んでいる。長男であった尚寧王の曾祖父で長男であった尚宣威の名は無く、呪われている一族とされていた。それに反発したのか?

内部には7基の石棺があったのだが左側の4基は沖縄戦で破壊され消滅してしまった。

第七代尚寧王は琉球王統の中で最も難しい時代に即位した王だ。5才年上の第六代王の尚永王が30才で逝去し、後継の嫡男がおらず尚寧が後を継いだ。尚永王の娘が尚寧の妃なのだが、歳を考えると妃はまだ8-12才のはずなので、ここは何か政治的な意向が働いていた様にも思える。即位後、真っ先にぶち当たったのが、豊臣秀吉や薩摩からの難題。日本は琉球を屈服させるべく、色々な難題をぶつけてきている。そして秀吉の明国への侵攻のための朝鮮征伐への参加要求は、明国に朝貢をしていた琉球には大問題だった。明国は琉球を支配はせず、朝貢国とみなし、比較的寛大宗主国だった。更に、明国との貿易で成り立っていた琉球にとって宗主国を裏切り、圧政や搾取が予想される日本に屈服する事は避けたいところだっただろう。なんとか二股外交でやっていくのだが、遂に薩摩の琉球侵攻となり、外国とは戦争の経験も無く、軍隊も対抗できる規模でも無く、あっさりと首里城を占領され、尚寧王は江戸送りとなり、2年間は薩摩で軟禁状態だった。帰国後も薩摩の顔色を伺いながらの生活、政治だった。この時の苦悩などを表したのが、陳舜臣の琉球の風という小説だ。NHK大河ドラマにもなり、尚寧王は沢田研二が演じていた。沖縄では琉球方言の吹替版もある。沖縄と本土と微妙な関係の始まりになる。ドラマ自体はそれほど良い評判では無かったが、沖縄を知るには見る価値のある作品と思う。


伊波普猷墓

ようどれから丘陵の上に戻り、浦添城に向かう道の途中に伊波普猷 (1876 - 1947) の墓がある。伊波普猷は近代の歴史研究者で、語学学者金田一京助とは東京帝国大学の同窓生で、金田一はアイヌ研究、伊波は沖縄の研究に没頭していた。日本民俗学の創始者である柳田国男や折口信夫とも親交が深かった沖縄研究の第一人者だった。浦添が首里以前の古都であったとする論文発表や啓蒙活動を通じて、浦添の発展に寄与した人物で、沖縄学の父とも呼ばれる。

熱心に研究した浦添グスクの中に墓所があるとは、すごい。何故城内にあるのだろう? あって悪いわけでは無いのだが、気になる。係員の方に聞くと、明治時代には、城は私有地になっていたそうで、伊波普猷の希望で、沖縄の原点とも言えるこの地に墓を作ったそうだ。私有地ではあっても、尊敬されていた伊波普猷だからこそ、できた事だろうと言っていた。


シーマヌ御嶽

伊波普猷の墓の南の下にはシーマヌ御嶽と呼ばれる拝所があった。道から林への道があり、その道を登って行くと洞窟がある。その中に御嶽があるのだが、立ち入り禁止となっている。琉球国由来記にあるシマノ御嶽 (神名: シマノ御イべ) と考えられている。仲間集落の拝所で、旧暦五月六月のウマチーや12月の拝願解き (ウガンプトゥチ) などの年中祭祀の際に村拝みが行われている。


世持井 (ユムチガー) [未訪問]

シーマヌウタキの南西の浦添市立浦添小学校の体育館東側の森にユムチガーがある。小学校の敷地内なので、見学は遠慮したが、インターネットでその写真が出ていた。この井泉は世持御井 (ユムチウカー) 、東井 (アガリガー) 、前田集落では布さらし御井 (ヌヌサラシウカー) とも呼ばれており、仲間集落ではウマチーの際に浦添ノロをはじめとする神女たちが拝でいた。


クチグヮーガマ (6班の壕)

シーマヌ御嶽の近くにも洞窟跡がある。入口の形が人間の口に似ていることからクチグヮーガマと呼ばれ、沖縄戦の際には仲間6班の住民が避難していた。当初は6班の10家族程が避難していたが、日本兵がこのガマに入り砲爆撃も激しくなり、最後は3家族となった。(7家族は壕から移っていったのか、犠牲になったのだろうか?) この3家族がガマを出るときは周辺に数多くの戦死体があったそうだ。


浦添グスク

浦添城は、13世紀頃、標高約130mの琉球石灰岩の丘陵に築城されたと考えられ、尚巴志が1405年に浦添城を焼き払い、武寧を追放し、首里城を王宮として第一尚氏琉球王統を開くまでは、中山国の中心地だった。200年余りに渡って、舜天王統、英祖王統、察度王統の居城として使われていた。

尚巴志以降、王都が首里に移され、それまでの浦添城の役割は首里城に移されたことで、浦添グスクは使われておらず荒廃したと思われる。尚巴志一族の系譜でも浦添按司は見られず、尚巴志が武寧王を討った後、ここには按司は置かなかったのだろう。しばらくは北山への軍事拠点として使われたかもしれないが、その後は浦添城の政治的役割だけでなく軍事的役割もなくなったのかもしれない。

第二尚氏時代、1524年頃から、廃嫡された尚維衡がここに屋敷を建てて居を移し、1609年の薩摩藩の侵攻で焼失するまでは、尚維衡を祖とする小禄御殿 (ウルクウドゥン) 浦添家の屋敷として使われていた。

沖縄戦では、米軍との間で前後11回にわたる激しい争奪戦、攻防戦が約3週間の間、繰り広げられた。浦添城の城壁は、沖縄戦時に米軍の砲撃で城壁も大部分が破壊され、戦後の復興期には建築資材として持ち出されてしまい、当時の姿は残っていなかった。近年の発掘調査で城壁基礎部分やその痕跡が確認されている。浦添城は後の首里城のモデルになったとされ、14世紀頃は、高麗系瓦ぶきの正殿を中心に、堀や石積み城壁で囲まれ、周辺には王陵、寺院、有力者の屋敷、集落などがあったと考えられている。

城跡を訪れると、いつも、その城がどのような縄張りでどのような建築物があったのかに興味が沸く。この浦添城の情報を探していると、幾つか城の想像復元図が見つかった。舜天王統時代からあったとすると、舜天王統、英祖王統、察度王統のそれぞれの時代で浦添城の役割は異なってたと思われ、それに沿って、縄張りも変遷しているだろう。

浦添城石畳の道沿いにある浦添大公園南エントランス管理事務所の展示ルームには浦添城復元モデルが置かれていた。石垣だけの復元で、建物までは復元されてはいないが、浦添城の規模についてはよくわかる。

歴史群像 144 8月号にも復元図がある。ここには建物までも想像復元されている。

浦添市教育委員会発行の史跡浦添グスク跡整備基本計画にある浦添城復元図はいくつもの郭があったと推測され作成されている様だ。どちらかというと城塞としてのグスクの時代の縄張りはこのようなものだったのかもしれない。

最も精密に検証して作成された復元モデルが、芸術工学研究の教授の三上訓顯さんの論文に掲載されていた。実際の発掘や文献をもとに復元しているそうだ。首里城との共通点が見られる。王宮としての浦添城の復元モデルだ。論文を読むと、入手できる情報を一つ一つ検証し結論を導き出しており、かなりの説得力がある。このモデルがそうだったのかは顕彰できないのだが、察度王統時代の浦添城はこの復元図に近かったと思える。明と朝貢関係を構築したのは察度王で、進貢使を明に派遣し、その子の武寧の即位には、明から始めて冊封使が派遣されている。この様に明との貿易が活発化し、国力も増大し、国として冊封市を迎え、大々的に即位儀式を行うには、国としてそれなりの威厳を示す建物が必要だったと思われる。明の建築文化の影響もあっただろう。そのような背景での浦添城であるので、その後に建てられた首里城が供えていた王宮としての機能の基本部分は浦添城で造られたと思う。


西の城門

伊波普猷墓から道を進むと、道の向こうに石垣が見えて来た。ここは浦添城の城門。浦添城跡は沖縄戦後の採石により城壁の石材が持ち出され、城壁がほとんど残っていなかったが、発掘調査で城壁の切石が見つかり、この切石に新しい切石を積み上げて、城壁や城門を復元している。この城門は正門では無く、西の門だ。正門の明確な場所はまだはっきりとは分かっていないが、尚寧王が首里から浦添城まで石畳道を造っているので、その道が正門に通じていたはずなので、グスクの南側に正門があったとされている。


前田高地壕群 (北側)

浦添城の西の城門外側に日本軍の第62師団独立混成第63旅団が使用した壕跡がある。洞窟入り口が二つあった。当時、日本軍はこの浦添城のある前田高地に幾つもの洞窟を陣地として使い、それぞれが洞窟内部で繋がるトンネル・トーチカ連鎖陣地を構築していた。


城壁

城門を入ると城の北側の城壁が復元されている。


浦添グスクの前の碑、石畳道

浦添城への正式な道は首里城から続く石畳道だった。その石畳道が残っている。正門跡はまだ見つかっていないのだが、この石畳道が続いていた所にあったと思われる。

石畳道を登った所、城の南側丘陵に浦添グスクの前の碑が建立されている。この石碑は1597年に、浦添城と首里城を結ぶ石畳道を整備した時の竣工記念碑だ。元の石碑は沖縄戦で台座もろとも破壊されたため1999年に復元されている。石碑の表には平仮名で琉球文、裏側に漢文で、尚寧王の命で国民が道路を作った様子が記されており、碑首は16世紀の琉球王国の象徴文様である日輪双鳳雲文 (にちりんそうほううんもん) で飾られている。碑文は城間親方盛久による。この城間は能書家と知られ、四年後に三司官となった。大和文化の造形が深く、親大和派と見られ、後に親清派の急先鋒であった謝名親方利山鄭迵の政略で失脚している。石碑の前の大岩は「馬ヌイ石」と呼ばれ、馬に乗る為の踏み台だと言われている。

浦添城の南側、石畳道の上にも石垣が見つかり、現在発掘調査を行っていた。まだまだ、発掘調査の計画はあるそうので、今後、城の形がはっきりと見えてくるだろう。


カラウカー

石畳道の脇にカラウカーと呼ばれる井泉がある。漢字で空御井泉と書いている資料もある。水が涸れたから空御井泉 (カラウカー) という説があるのだが、水が無ければ井戸として意味が無いのだが、戦前までは使用していたとあるので、空御井泉の当字は信憑性が低そうだ。仲間集落では旧五月稲穂祭り、旧六月稲大祭に拝んでいる。


鏡川 (カガンウカー)

浦添グスクの前の碑の南側にも鏡川 (カガンウカー) と呼ばれる井泉があり、仲間集落では、旧暦5月6月のウマチー (豊作祈願) や旧暦12月の拝願解き (ウガンブトゥチ) で拝まれている。鏡川 (カガンウカー) の水は琉球国王に献上された名水として知られており、水面を鏡の代わりに使用するほど澄んでいたことからこう呼ばれる様になった。戦後は、ここの湧き出る水で「宝船」という泡盛を造っていたと説明には書かれていた。この宝船は復帰前まで浦添仲間の宝船酒造所で製造されていた。ウラシンチュのあこがれの酒だそうだ。


これで城壁の外側を巡りおわり、城内に入る。浦添城は沖縄戦で日本軍陣地で手を加えられ、米軍攻撃で破壊され、戦後は石垣などが他に使われてしまい、城の骨格や縄張りがわからなくなっていたが、発掘調査で少しづつ解明されて来ている。西の城門から東に向かって、見て行く。


西の城門を入ると、まずは岩場があった。ここが何だったのかは不明だが、少し高くなっている。城内奥に向かう道を囲んでいた場所かも知れない。元々はもっと高かったとすると、物見台か、西の城門が敵に破られた際の攻撃ポイントとも思える。


愛國知祖之塔跡

岩場から東に進むと広場に出る。戦後1962年に、浦添城内に、愛知県沖縄戦遺族会等により愛國知祖之塔が建てられて、1965年にこの場所に移設されていた。1994年に糸満市の 平和祈念公園内に移され、今は塔は残っていない。愛知県出身の沖縄戦・南方地域戦没者約51,000名 (うち沖縄戦戦没者約3,000名) を追悼している。グスク時代にここが何だったのかは不明だが、首里城はこの浦添城をモデルにしたといわれているので、首里城の下之御庭の様な、御庭でおこなわれる儀式の際の控えの場だったのかも知れない。


浦添家の屋敷跡

愛國知祖之塔跡の隣の松林の場所で発掘調査で敷石や明朝系瓦が見つかっている。第二尚氏第三代尚真王の長男の尚維衡を祖とする小禄御殿 (ウルクウドゥン) 浦添家の屋敷の跡と推測されている。尚維衡は嫡男であったが二度も廃嫡され、首里から浦添城に移されている。この浦添家は尚真王からの嫡流だが、第四代王は弟の庶流の尚清が即位している。当時浦添城は荒廃していたが、そこに尚維衡が屋敷を建てたと伝えられている。それ以降、嫡流の尚寧王 (浦添按司) が第七代王に返り咲くまで浦添家がここを住居としていたと思われる。

尚寧王には実子がおらず、一説では尚寧王の摂政だった尚豊 (後に八代王) の長男であった尚恭を養子として、成人した際に尚寧の後継ぎとして尚豊王から譲位する約束があったとされるが、尚恭は20才で逝去してしまい、それ以降、尚氏嫡流が王位に復帰することはなかった。 尚維衡に始まった浦添家小禄御殿では尚寧が四代であったが王位に就いたことで弟の尚宏が家を継いだ。しかし、薩摩侵攻で尚寧と共に江戸送りになり、江戸城に向かう途中、駿府で徳川家康に謁したのち、二週間ほどで病をえて同地で亡くなっている。尚宏の長男 尚林が浦添家小禄御殿を継ぐが、浦添城を居城とはせず、その後、浦添城が使われていたかどうかは不明。


ディーグガマ (渡嘉敷御嶽)

浦添家の屋敷跡の南側には鍾乳洞が陥没して出来た御嶽がある。県花になっているデイゴの木があった側の洞穴だったのでディーグガマと呼ばれている。ディーグガマは、浦添グスク内にある三つの御嶽の一つで、琉球由来記にある渡嘉敷御嶽 (神名: 渡嘉敷オヒヤ御イベ) と考えられている。文献などから、浦添は古い時代には渡嘉敷と呼ばれていたと考えられている。沖縄戦では、多数の死者をこの洞窟に一旦収容し、戦後に洞窟内に納骨堂を作り、ガマの上には浦和之塔を建てている。現在は、岩が崩れる恐れがあるためディーグガマの内部に入ることはできないが、ガマの中には納骨堂があり、以前は、軍人や民間人の5,000余柱が安置されていた。現在、遺骨は糸満市の摩文仁に移されている。毎年10月には慰霊祭を催して英霊を慰めている。

ガマに前には地蔵菩薩と書かれた拝所があった。

ガマの右脇に、浦添王子遺跡と彫られた碑が建っている。ここには、かつて、御嶽への香炉が置かれていたそうだ。その場所に、戦後に碑が建てられた。浦添王子とは琉球王朝第二尚家第三代尚真王の長男で、廃嫡され、この浦添城に移された尚維衡 (浦添朝満 1494-1540) を偲んだもの。

さらに右手にも拝所があり、金網格子が張られていて、中の様子は伺えなかったが、ここがディーグガマ・渡嘉敷嶽の拝所と書かれた資料もあった。


浦和之塔

ディークガマの上には、前述の1952年に市民の浄財と本土土建会社の協力によって建立された慰霊塔があり、津々浦々の平和の守護神として忠霊の照覧鎮座を願い、浦和之塔と命名されている。

この地は沖縄戦では激戦地だったことから、仲間集落では全住民の55%もの戦死者が出ている。その周りの安波茶、前田、経塚の各集落でも多くの戦死者を出している。一家全滅世帯は全世帯の三分の一にも及んでいる。


和光地蔵尊、私設慰霊碑

浦添之塔の近くには地蔵が建てられている。1953年 (昭和28年) に戦死した島田沖縄県知事とは三高の同窓だった大阪四天王寺管長がここを訪れた際に、大阪の地元の信者からの浄財をあつめて寄贈したものだそうだ。和光地蔵尊はもう二つ寄贈されており、それぞれは波之上宮北側と糸満市米須の魂魄之塔近くに置かれている。周りにはここで亡くなった軍人の遺族が建てたのだろう数基の慰霊碑が置かれていた。


ディークガマの東側は広い広場になっている。この場所には何があったのかは発掘調査でも明らかになっていないが、この奥には正殿跡と思われる遺構が見つかっている事や、首里城はこの浦添城をモデルとしていたといわれていることから、個人的には御庭 (ウナー) だったかも知れないと思う。


ハクソーリッジ (Hacksaw Ridge、前田高地)

広場の東屋の側に案内板が置かれ、そこにはハクソーリッジの戦いの説明があった。この場所の崖の下に米軍が迫り、崖上の日本軍との間で激戦があった。案内板を見ていると、その横にイソヒヨドリがとまっていた。沖縄では良く見かける鳥で、ちょっと変わっている。あまり人を恐れない。近づくと、一定の距離を保って移動するが、逃げない。いつもそうだ。本土でも最近は見かけるそうだが、まだまだ珍しい鳥だろう。

浦添城跡の一帯の丘陵は前田高地と呼ばれ、その北側は垂直に聳える高低差90mの崖になったいる。この丘陵には沖縄戦では日本軍本部があった首里城の防備の要として陸軍が駐屯していた。鋭く切り立つ姿から、米軍はハクソー・リッジ (Hacksaw Ridge) と呼んでいた。1945年4月1日に読谷・嘉手納・北谷に上陸した米軍が首里に向けて侵攻を開始し、嘉数高地を激戦で占領。4月25日にはこの前田高地への攻撃を開始した。日本軍との高地頂上の争奪戦が繰り広げられ、多くの死傷者を出した。一方、日本軍は洞窟に陣地を置き、白兵戦や夜間攻撃などを行ったが、 頂上付近を占拠した米軍は、日本軍の洞窟の入口を破壊し、5月6日に前田高地は米軍により完全制圧となり、日本軍は首里方面に撤退し、仲間、安波茶でも戦闘が繰り返されている。

米国陸軍省が編纂したハクソー・リッジでの戦いの様子が「沖縄 日米最後の戦闘」にでていた。両軍にとって、辛い戦いであったことが読み取れる。

  • 4月26日、前田高地攻撃が開始された。米軍は、進撃にあたってはさして困難な目にもあわなかったが、第381連隊のG中隊が、やっと丘の頂上にたどりついたとたん日本軍の攻撃をうけ、ものの二、三分とたたぬあいだに、18名の犠牲者をだしてしまった。前田高地での日本軍の防御戦術は、完璧そのものだった。丘の前面はまもらず、相手を容易に登らせ、頂上までのぼりつめたところで猛烈な攻撃をあびせる。米軍にとって、峰の上と反対側の丘腹は〝禁じられた地域〟になってしまったのである。ここでは、もし進もうとするなら、戦いぬく以外にはなかった。ニードル・ロックのF中隊は、人間はしごをつくって丘陵のいただきに登ろうとしたが、最初の三名が頂上に達するやいなや、一回で機関銃弾にあたって戦死した。陽が落ちてまもなく、まだあたりも暗くならないころ、E中隊は、150高地の南にある前田の小高い丘をとろうとした。だが兵が丘の上に立つと同時に、丘の上は10丁あまりの日本軍機関銃掃射をうけ、たちまちにして2名が戦死、六名が負傷するという事態が発生し、米軍はがむしゃらに81ミリにミリ砲を400発も撃ちこみ、煙幕弾を撃ちこんで、どうにか中隊を退却させることができた。
  • 東のほうでは、しばらくはかなり成功しそうなけはいがあった。第383連隊の一部は、150高地と152高地の頂に到達したが、そこからは、下方に日本軍がうようよしているのが丸見えだった。おそらく600を数えたろうか。日本兵が群がっているのが、手にとるようにみえた。機関銃手、自動小銃手、それに各歩兵にとって、これは願ってもない絶好の機会だった。その日、米軍は思う存分うちまくり、思う存分戦いまくった。結果は米軍に利ありで、一自動小銃手は日本兵30名を射殺しさえした。戦車隊や火炎砲装甲車隊は、いまや前田高地の端に進出してきた。洞窟にかくれていた日本兵は、火炎放射器で穴から追いだされ、逃げるところを撃たれた。

このハクソーリッジでの戦いを舞台としてメル・ギブソン監督が「Hacksaw Ridge」の映画を発表している。衛生兵としてここで戦ったデズモンド・ドス(写真 崖の上に立っている)の実話を映画化したもの。この映画については賛否両論あるが、個人的には良い映画と思える。戦闘シーンがあまりにも過激で、メル・ギブソン主演のマッドマックスをより過激にした単なる戦争映画とする悪評もあるが、実際の戦闘はもっとひどい地獄だったと地元の人達は言っている。その地獄の中で、敬虔なSeventh Day Adventist 信者のデズモンド・ドスが、その信仰から武器を持つことを拒否して衛生兵として、このハクソーリッジの戦いで自身も負傷しながらもただ一人で75人もの命を救った。地獄の中で、この様な人が存在していた事がテーマで沖縄戦の悲惨さを知っている人には感動的な映画と思う。話した地元の人によると、当時多くの犠牲者を出したにもかかわらず、この映画を好意的に受け取っている人は多いという。(日本軍に対しては批判的な意見だった。訪問した多くの集落で聞くのは、アメリカ兵よりも日本兵の方が怖かったいう) 戦後、デズモンド・ドスはアメリカ議会の国民栄誉賞を授与されたが、受け取らないことを表明したはじめての人だった。


殿 (トゥン)

おり、そこに殿 (トゥン) があったとされている。殿はウマチーなど村の祭りを行う場所で、この浦添城内の殿では仲間集落と前田集落が一つになって祭りを行っていた。ウマチーの際は神々が通る門を表現したものと考えられている二本の竹を結び合わせたアーチを作り、それに向かってノ口をはじめ、参列者が手を合わせてから祭りを行った。(この竹のアーチは幾つかの集落で見かけた)


正殿跡

広場の奥には発掘調査で石列や柱の跡とみられる穴などがみつかり、正殿跡と考えられている。


大城嶽 (ナンジャムイ・クガニムイ、消滅)

正殿跡のさらに奥はコ―グスク (古城) と呼ばれている地域になる。今まで見てきた浦添城内はミーグスク (新城) と呼ばれ、通説では浦添城は最初は古城が築かれ、後に新城が築かれたとされていた。しかし、発掘調査で見つかった遺構の年代を調べると、この通説とは逆で、まずは新城と呼ばれているところにグスクが築かれ、古城と呼ばれている東側に拡張していったと考えられている。その古城と呼ばれる場所にも御嶽が存在していた。 琉球国由来記には大城嶽 (ウフグスクタキ) とあり、大城ソデギ ヨラノ御イベの二神を祀っていた。御嶽には、かっては並立した低い二つの岩があり、その二つの岩をそれぞれナンジャムイ、クガニムイと呼んでいた。 両岩の狭くなった下に香炉が置かれ、 その香炉を前にして東に向かって拝んでいた。現在、 この二つの岩も香炉も採石作業によって消失している。この大城嶽があった地域は立ち入り禁止になっていた。東の端にある為朝岩に通じているのだが、ここから下に降る道があったのでそちらから為朝岩にいけるかもしれない。

大城嶽 (ナンジャムイ・クガニムイ) の写真が資料にあった。これが二つの岩が残っていた時のものなのか、消滅後なのかは写真ではよくわからない。(かすかに岩のようなものが見えるのだが…)


前田高地平和之碑

下への道を降りると前田高地平和之碑が置かれていた。前田地区は圧倒的な火力を持ったアメリカ軍が空からの爆撃、海からの艦砲射撃、地上からの攻撃が行われ「ありったけの地獄を一つにまとめたような」 状況だったと伝えられている。 その前田を死守しようと北海道、山形県、沖縄県出身者で構成された山3475部隊第2大隊 (志村大隊) は、1945年 (昭和20年) 4月27日に連隊本部からの命令で、ここに陣を置いた。第2大隊はワカリジー (為朝岩) 方面で戦闘を繰り広げるも、夜間攻撃の為に派遣した中隊が全滅した。ここで玉砕した戦没者900柱の慰霊と恒久平和の願いを込めて、生き残った山3475部隊第2大隊戦友会が平和之塔を建立している。

慰霊碑の近くには日本軍が使用していた壕があった。沖縄戦では米軍の攻撃により壕の入口は破壊され、大隊は内部に閉じ込めらたという。


為朝岩 (ワカリジー、ニードルロック)

浦添城がある丘陵の東の端に遠くからも目立つ大岩が為朝岩。ワカリジーと呼ばれている岩だ。為朝の名がついてはいる。この地に「為朝が岩の上から海に向かって弓を放つと、海まで飛んで行った」という伝説があったそうで、大正時代ごろから為朝岩と呼ばれ始めたようだ。遠くからも目立つ岩だ。

浦添城から丘陵尾根を通って向かう道は閉鎖されていたので、前田高地平和之碑から、丘陵北斜面の墓地の中を通ってワカリジーに向かう。墓地を抜けた所にワカリジーへの案内板があった。

為朝岩は浦添市の中では最も高所の標高148m地点に立っている。グスク時代はこの場所は東のアザナで物見台の機能を果たしていた。ここも沖縄戦では米軍はニードルロック (Needle Rock) と呼んで攻撃目標としていた。

周囲は岩で囲われており、洞窟も見受けられた。浦添城への道はやはり閉鎖されていた。先程見た閉鎖されていた場所への道だ。


小城嶽

ワカリジーは琉球国由来記にある小城嶽 (神名: トモヨセ大神ソデギョラノ御イベ) と考えられ、英祖王と女神官のウシキンベーとの間に生まれたのイソノシー (伊祖之子) を祀っている。大岩の下に拝所が置かれている。灯籠が二つに割れてしまっていた。


これで3月4日と8日の二日間にわたって仲間集落見学を終え、8日は天気も良く、仲間にある浦添大公園をのんびりと散策し、その後、前田集落も見学をした。4日は例のごとく行き帰りには音楽を聴きながらの走行。この日は今年リリースされた Steve Vai の Inviolate と昨年リリースの Yngwie Malmsteen の  Parabellum を聴いてみた。両者とも Alcatrazz のギタリストで ヘヴィメタル、ハードロック、ネオ・クラシカル・メタルに分類されており、従来通りのスタイルだった。Yngwie Malmsteen はクラシックをベースにギターの速弾きで少々騒々しく、走りながら聞くには鬱陶しい。個人的には Steve Vai の方がしっくりくる。


参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • 字誌なかま (1991 浦添市字仲間自治会)
  • うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 歴史群像 第26巻 第4号 (通巻144号 2017 学研プラス)
  • 浦添市文化財調査研究報告書 浦添ようどれ 1 石積遺構編 (2001 浦添市教育委員会)
  • 浦添市文化財調査研究報告書 浦添ようどれ 2 瓦溜り遺構編 (2005 浦添市教育委員会)
  • 浦添市文化財調査研究報告書 浦添ようどれ 3 金属工房跡編 (2007 浦添市教育委員会)
  • 小説 尚巴志伝 (酔雲)
  • 琉球王国の真実 (2013 伊敷賢)
  • 新 琉球王統史 01 舜天 英祖 (2005 与並岳生)
  • 新 琉球王統史 02 察度王 南山と北山 (2005 与並岳生)
  • 新 琉球王統史 03 思紹王 尚巴志 尚泰久 (2005 与並岳生)
  • 新 琉球王統史 07 尚寧王 (2006 与並岳生 )