ウィーン体制17-ワルシャワ蜂起とショパン
2022.03.03 09:50
ポーランドでも1830年11月29日、ワルシャワ蜂起が起こり、ロシアの総督コンスタンチン大公の宮殿が襲撃された。若い士官達は、ロシアがベルギー革命鎮圧にポ軍を動員するのが憲法違反と怒ったのだ。ポーランドは、ナポレオン時代に独立を回復したが、ウィーン体制で再分割され、ほぼロシア支配下だった。
ポーランドはロシア皇帝が君主の立憲王国となったが、コンスタンチン大公が総督となり、検閲が強化され、憲法はないがしろにされていた。11月蜂起のあと、急進派が内閣をつくり、31年1月25日に、ロシア皇帝をポ王から廃位した。これはロシアへの宣戦布告と同じだった。
31年2月より露波戦争が始まった。18万対7万人でポーランドは奮戦し、グロホフの戦いなどに勝利した。しかし仏普墺の隣国は、自国の利益のために、ポーランドを支援せず、国境を封鎖して物資を入れなかったため、次第に押し込まれて10月に降伏し、ドイツやフランスに亡命する。
ポーランド人天才ピアニストで作曲家のショパンはこの頃、ウィーンに居た。親友も戦争に参加し、ウィーンではポーランド人排斥の機運が高まり、9月パリに行く、その途中で敗北の報に接する。ショパンはこの慟哭をピアノに込めた。エチュード10-12は「革命」と呼ばれているが本人がつけたのではない。