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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 244 (12/03/23) 旧首里西原村 (1) Taira Area 首里平良町

2023.03.13 02:26

旧首里西原村 首里平良町 (たいら、テーラ)


自転車の修理も終わり、遠出も再開したのだが、自転車による遠出と歩きでの近場集落巡りを交互にしていくことにした。自転車だけだと、足腰に負担が少ないので、ウォーキングで少しは不可をかけたほうが良いと思った次第。もう一つの理由は、いずれ、歩きで東海道、四国遍路、そしていつになるかわからないがフランスからスペインへのCamino de Santiago de Compostela に挑戦してみたい。そのためには毎日25kmから30kmを二か月間続けられるようにとの訓練も兼ねようと思った次第。

 


旧首里西原村 首里平良町 (たいら、テーラ)

現在の首里平良町は、琉球王国時代には西原間切平良村だった、1906年 (大正3年) に首里区に編入の際に、田畑の平良上原 (テーラーウィーバル、現在の石嶺四丁目)、仲福 (ナカフク) と前原 (メーバル) の一部 (現在の石嶺三丁目) を石嶺 (イシンミ) に、屋取の平良真地 (テーラマージ) と平良大名 (テーラウフナー) および畑の後原 (クシバル) など (現在の大名町) 末吉に残して村内 (ムラウチ) 中心地のみを首里区に編入し平良町と改称した。1921年の首里市制施行で首里市平良町、更に戦後の1954年に首里市が那覇市に吸収合併され那覇市首里平良町へと変遷をたどっている。

平良は道の島といわれ、西宿 (西街道) の要所であった。 それまで王府役人は首里と那覇だけに居住する定めであったが、首里士族の村内居住が許可許されると急速に都市化し、他農村からは町方と呼ばれた。 町の気風は開放的で、他村の人の出入も自由であった。明治時代の地図を見ると、平良三叉路と旧宿道を中心に民家が密集している。これは琉球王国時代もほぼ同じだったと思われる。


明治初期の人口は2,000人近くあり、首里の中では5番目に人口の多い地域だった。沖縄戦で人口は大きく減少しその後、復興期に人口は増えたが、明治時代の人口には戻らず、当時の8割程度にとどまっている。近年は世帯数、人口共にわずかに減少傾向にある。

首里区の中では、明治時代には5番目に人口の多い地域だったが、現在は人口の少ない地域になっている。


首里平良町訪問ログ


今日は徒歩にて首里区内にある首里平良町を巡る。隣の行政区の首里儀保町の儀保交差点から普天間街道の一部になる儀保大道 (ジーブウフミチ、儀保大通り) を北に向かい、先日訪問した首里ワイトゥイから首里平良町が始まる。ここから平良町の史跡等を見ていく。


昭和橋

1931年から33年 (昭和6~8年) にかけて、県道が整備新設された際に、虎頭山に連なる北森 (ニシムイ) を切り通しにする工事がなされて首里割り取り (ワイトゥイ) が出来上がった。

このワイトィで現在の県道241号線が開通している。その際に橋が併設され、昭和に敷設されたことで、昭和橋と命名されている。 県道241号線が開通まではワイトゥイで分断された丘を通っていた儀保の宿道 (スクミチ) から太平橋を迂回し、現在の平良町三叉路を経て、 浦添間切方面への宿道のルートだった。このワイトィにより浦添方面への交通は格段に便利になっている。


平良小堀 (テーラクムイ)

昭和橋が架かっている川にはワイトゥイ工事までは平良小堀 (テーラクムイ) と呼ばれた大きな湾状 (ワンドゥ) で深い淵が存在していた。平良小堀は千坪近くあり、釣や水泳で賑わい、馬浴せ場でもあった。儀保大道のワイトゥイ工事で昭和橋も架けた際に埋められ昔の面影はなくなっている。


太平橋 (旧平良橋 テーラバシ) 

昭和橋を渡ると平良交差点になり、そこから南隣の久場川町、儀保町への道が通り橋が架かっている。太平橋という。昔は平良橋 (テーラバシ) と呼んでいた。この橋は1597年 (尚寧9年) に王府役人や住民、旅人の便宜のために、それまで板橋だった平良橋を石造りのアーチ橋の太平橋に架け替えられたもの。太平橋 (平良橋) は元々は昭和橋との間ぐらいにあり、2015年 (平成27年) にその場所の発掘調査で橋の石垣が見つかっている。

この太平橋では1609年に薩摩が琉球に侵攻した際に激戦が行われた。火縄銃を使用した薩摩軍と弓矢主流の琉球王府軍がこの橋を挟んで対峙していたが、火縄銃に圧倒され王府軍は総崩れとなって首里城に退いたと伝わっている。この近くには太刀ヌ口 (タチヌグチ) と呼ばれる激戦地の名も残っている。また、沖縄戦では米軍の進軍を遅延させるため日本軍により爆破されている。戦後1966年に平良橋が架けられた。2019年にここに来た際には、まだこの橋は残っていた。

現在の橋は戦後の平良橋の更に少し上流に架けられた太平橋となり、旧平良橋は無くなっていた。


平良市場 (テーラマチ) 跡

太平橋を儀保くびりの方へ渡り、最初の分かれ道を左へ坂道を上りつめたあたりが平良市場 (テーラマチ) があった所になる。戦前までは、この辺りは交通の要衝で人の行き来が多く、そのひとたちを目当てに、この市場には、特に旧盆などには、道の両側にマチヤグヮー (商店小) や露店が立ち並んで賑わっていた。戦後も暫くは商店があったのだが、現在は住宅街に変わっている。


平良町三叉路

現在の平良交差点は昔は平良町三叉路で、王都首里と中頭方面を結ぶ交通の要衝の宿道である中頭方西海道の通過点だった。現在でも琉球王国時代の宿道を踏襲して道幅が拡張されて昔日の面影は消滅しつつあるが都市交通網が整備されている。


平良交番所跡

平良町三叉路には1912年に住民より平良巡査派出所用敷地としてこの地の畑が寄付され平良交番所が置かれ戦前まで存在していた。


平良祝女殿内 (テーラヌルドゥンチ) 跡

平良町三叉路の交番所跡の対角線の角地は、高平山の崖下には平良祝女殿内 (テーラヌルドゥンチ) の屋敷があった場所になる。第二尚氏の末まで、平良ノロは儀保殿内の大阿母志良礼 (ジーブドゥンチヌアムシラレ) が管轄する神女組織内にあって、平良真地 (テーラマージ) の上ヌ嶽、下ヌ嶽、ヌル火神、中里之殿、上平良之殿 などの祭祀を司っていた。


高平良山 (タカデーラヤマ)、高平良御鎖ヌ屋敷跡 (タカデーラウザシヌヤシチ)

昭和橋で久場川を渡ると北側には小高い丘陵が川沿いに伸びている。この丘陵の広大な雑木林は高平良山 (タカデーラヤマ) と呼ばれ、細道の坂を登った所に案内板が置かれていた。この場所は田里朝直 (1703~1773年) 作の組踊 万歳敵討 (まんざいてきうち) の敵役の高平良御鎮の屋敷跡と伝わっている。戦後は墓地地帯となり新しい墓が多く建てられている。

田里朝直は、組踊創始者の玉城朝薫、平敷屋朝敏に続く人物で、能の放下僧を翻案した万歳敵討は田里朝直の義臣物語、大城崩と共に田里の組踊三番と呼ばれ、1756年に尚穆王冊封の際、踊奉行として冊封使歓待のための冊封宴で上演された。

傲慢な高平良御鎖は、ある日、大謝名比屋 (おおじゃなのひや) が持っていた名馬を見て、譲り受けようと望んだが、断られ乗馬の遺恨から、比屋を闇討ちにした。大謝名の兄の謝名子 (シャナヌシー) と普天間法印の弟 慶運 (チーウン) 坊の二人は歳姿 (遊芸人) に身をやつし、高平良の一家が厄払いの浜下りをする隙を狙い高平良御鎖を討ち取る。

高平良家門中のいる場所では、この組踊の上演は今日でもご法度だそうだ。


ここで休憩していると、おじいと出会う。挨拶をすると、自然と話が始まった。1時間程色々な話をした。沖縄戦では小学生だったので80才代半ばだろう。戦後米軍の支援で米国に留学をし、帰国後は琉球政府働いていた翁長さんで察度王、銘苅子に繋がる子孫だそうだ。この場所からは翁長さんの立派な自宅も見えており、その家の前は何度も通ったと言うと、喜んで更に話が続いた。長く話していると、翁長さんの家から電話がかかって来た、散歩に出かけたが、なななか帰ってこないので家族が心配してかけて来たそうだ。ここでようやく会話が終わり、翁長さんは家に帰っていった。戦後を知っているおじいに話が聞けたのはありがたいことだ。この後に巡る史跡の中で、翁長さんに聞いた話を含めることにする。



土帝君 (トゥーティークン)

高平山 (タカデーラヤマ) の案内板が置かれた所の奥には土帝君 (トゥーティークン) の拝所が二基置かれている。ここにどの様な経緯で土帝君が祀られているのかはわからないのだが、首里あたりでは、秦を亡ぼし西楚の覇王となった項羽が、土帝君 (土地公) だと伝わって信仰の対象になっていたそうだ。現在でも旧9月9日の重陽の節には、村の安全を祈願して祭事が行われている。


三界 (サンカイ)

高平山の崖下と昭和橋が架かる久場川 (平良川テーラガーラ) の間の狭い地峡はサンカイと呼ばれている。北森 (ニシムイ) と末吉丘陵が交叉する三角谷の突端部分をサンカイと呼び三界と当字されている。山堺と当字されている資料もある。ここは末吉、平良、儀保三町の接点でもある。翁長おじいの話では戦後ここは米軍のゴミ捨て場所だったそうで、まだ開けられていない缶詰などもゴロゴロあり、子供だった翁長おじいは、ここに缶詰を拾いに来るのが日課だったという。この缶詰は家族が食べていくのに大きな助けだったそうだ。この一帯には民家はまばらで、おじいによるとずうと先まで田園風景だった。いつのまにか民家が立ち並んで昔の風景が消えたのは悲しいと言っていた。


樫木道 (チャーギミチ)

高平良御鎖ヌ屋敷跡の前の狭い道は遍照寺付近までの末吉道の一部にあたり、樫木道 (チャーギミチ) と呼ばれている。この辺りの丘陵地は琉球王国時代には首里王府御用材の樫木山 (チャーギヤマ) だった事に由来する名だった。


フシマン洞 (トー)

末吉宮への参道にもなっていた樫木道のこの辺りの峠はフシマントーと呼ばれ、この道を少し進んだ岩場が落ち込んだ所があった。(写真上) ここもフシマントーと呼ばれた鍾乳洞への入口だった。現在は入り口は塞がれてしまっているのだが、この場所から羽地御殿ヌ墓への小径の脇の岩場に亀裂があり中を除くと大きな空間があった。(写真下) おじいに確認するとこれがフシマントーだそうだ。この洞窟は口(国がまえに力)翁禅師 (1546~1625年、尚清20~尚豊5年) が、世塵を避けて修行したと伝わるところで、洞窟内部は十畳程あるそうだ。口翁禅師は23歳のとき日本へ渡り、北越南行すること15年、得道して帰国後 (1584年 38才)、浦添城の南の天徳山龍福寺の住職となったが、余年で世塵を避けてこの洞窟で修行していたと伝わる。これによれば40才頃 (1586年) で隠遁生活に入ったとされ、その後、尚寧王は、西来院菊隠と相談して、御書院方の幸地親方を使して、仏門の隆盛のために力を貸してほしいと伝えたが、翁禅師はこれを固辞したと伝わっている。同じ資料で別の説明では、1609年 (尚寧20年) の薩摩の侵略で、尚寧が捕虜になった際には、薩摩へ渡り尚寧を扶けて共に1611年 (尚寧22年) に帰国し (56才)、2年ほど円覚寺の長老についた後、隠居寺の岩頂山万松院 (後の蓮華院) に退いて、80才で亡くなったと記載されている。説明の前半では40才でこの洞窟で隠遁生活に入ったとされ、後半ではその後も尚寧王、尚豊王時代には住職についているとなっており記述に矛盾がある。おそらくこの洞窟での隠遁説は少々怪しく感じる。おじいの話ではこの洞窟は、中で首里金城方面まで繋がっていたそうで、沖縄戦ではこの洞窟に何名かが避難して、戦禍から逃れることができたと教えてくれた。


殷氏仲松家之墓 (インウジナカマチケヌハカ)

フシマントーから樫木道を更に少し進んだ所から幾つもの墓が造られている。多くの墓は新しく造られたか、古墓を新しく造り直している。道脇には殷氏仲松家之墓 (インウジナカマチケヌハカ) がある。絵画に秀で12歳で13代国王尚敬王 (1700 - 1751年 在位1713 - 1751年) に召された絵師の殿元良仲松庸昌 (インゲンリョウナカマツヨウショウ) の先祖とされる門中宗家の墓所になる。

殷氏仲松家は、茶湯座 (チャトージャ) 仲松とも通称され、首里王府内で茶道の役目を仰せつかったとされている。 股元良は1752年に進貢使大筆者として清に渡り、2年間滞在し、中国福州の画伯孫億から南宗画法を会得し、名筆とされる神猫、寿老人、雪中雉子の図 (写真中)、花鳥図 (写真左) などの名画を描いている。花鳥図とその他数点が現存残している。また、尚敬王の御後絵 (おごえ、写真右) も描いたとされている。1759年には座間味間切総地頭となり座間味親雲上と称した。1767年50歳で死去している。


末吉陵 (シイシヌタマウドゥン)

墓地群の中に石積みの古墓がある。墓への道は枯れ木で覆われて、墓を囲んでいる石垣も崩れている。たまたま見つけた墓なのだが、資料を見ると王族の墓の末吉陵 (シイシヌタマウドゥン) だった。八代尚豊王 (1590年 - 1640 在位1621 - 1640年) の第二子 尚文中城王子朝益 (1614 - 1673年) の陵墓で樫木山 (チャーギヤマ) にあることから樫木玉陵 (チャーギヌタマウドゥン) とも呼 ばれている。王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会) では「尚文は長兄の尚恭が20才で亡くなり、18才で世子となったが、薩摩に国質として連れて行かれ、そこでハンセン病に罹患して (左手が壊疽を起こしていたことなどからハンセン病に罹患したと推測) 帰国となった。当時、ハンセン病は恐れられた病のため、廃嫡となり、弟の三男 尚賢が世子となり第9代国王 (在位1641 - 1647年) を継いでいる。尚文が59才で亡くなった後は、忌み嫌われた病の為、王家の墓の玉陵に葬られず、新たにここに築墓し葬られた。墓の門も閉ざされ、石垣で囲まれた。アカンウファカ (開かない御墓) とも呼ばれ、祭祀すら施されなかった。死後109年経た1782年に尚穆王の命で清明祭には、王子または按司を遣わして祭祀を行われるようになった。」とあるのだが、人質とハンセン病についてははっきりとはしない。別の資料 (新 琉球王統史 09 尚質王 2006 与並岳生) にはこれと異なった廃嫡の背景が記載されていた。それによれば、父の尚豊王は薩摩藩の傀儡王だったとされているが、晩年は反薩摩となり、薩摩藩は尚豊王に手こずっていた。尚文が26才の時に尚豊王が死去する。この死因については薩摩藩による毒殺説がある。この時には尚文は世子のままだったが、薩摩藩は次期国王に当時16才の三男 尚賢を首里王府の三司官を通して指名している。尚文が父の尚豊王の反薩摩の影響が大きかった事から、この様な策略を取ったとしている。別の記述では尚文は薩摩に反抗的だったことから、薩摩に毒殺されたと言うものもある。この墓は金武御殿が面倒を見ていたが、2008年ごろに門中神人 (ムンチュウカミンチュ) が亡くなり、末吉陵の敷地の一部が売却されて陵に至る道がつぶれたことなどが重なり、御願行事が中断されていたが、昨年末に金武御殿の向一族の門中会が御願を再開している。


羽地御殿ヌ墓 (ハニジウドゥンヌハカ)

末吉陵の奥の方にも立派な古墓があった。11代尚貞王の摂政だった向象賢羽地朝秀 (1617 ~ 1675年 尚寧29 ~ 尚貞7年) 家の墓だ。朝秀は琉球歴史を代表する政治家の一人で、中山世鑑編述者としても著名で、また三司官、摂政時代を通しての布達文書を、後世にまとめられた羽地仕置がある。羽地朝秀は親薩摩の立場で、薩摩藩の力を借りて琉球王国の改革を行い、彼が表した日琉同祖論では琉球と大和は同一の祖先との説を主張している。羽地朝秀は、治世の功績により王子位を下賜され、贈位 (ウクレー) 王子として羽地王子朝秀を名乗ることが許されている。この墓は、朝秀の父が王府より拝領したもので、当時は掘込墓であったが、後年現在の亀甲墓に改修されている。亀甲墓としては古い形式に属しており、この形式の亀甲墓が造られた17世紀後半のものと推測されている。この墓を訪れた時には、羽地家の子孫の方々が墓の掃除の真っ最中だった。断りを入れて写真撮影を行った。

先日、首里南風平等の首里大中町を訪れた際に、この向象賢羽地朝秀の屋敷跡を訪れている。おじいの話によれば、琉球王国時代には首里には王族以外の墓を建てることは王府から禁じられていた。それで王族以外の士族は首里に隣接する西原間切だったこの平良村や真和志間切の繁多川村に墓を建てていたそうだ。



高平山から平良三叉路に戻る。ここからは北の経塚方面に普天間街道の153号線と東の石嶺方面へ241号線が伸びている。次は普天間街道方面の史跡を見ていく。



知念坂 (チニンビラ)

普天間街道を北に進むとカーブした緩やかな登り坂になる。この坂は知念坂 (チニンビラ) と呼ばれている。坂の北方にイチニー墓地があり、元々はイチンニービラと呼んでいたのが、イ音が消音化してチンニービラになり、更に変化してチニンビラになったとも推測されている。


中之毛 (ナーカヌモー)、平良公民館

知念坂の途中、東側坂沿いには平良町公民館のある。この辺りは小高い広場になっており、平良 (テーラ) と大名 (ウフナー) の間にあることから中之毛 (ナーカヌモー) と呼ばれていた。道路拡張工事で、中ヌ毛が削られる予定だったが、地元住民の反対で中之毛の敷地の下をトンネル式で歩道を通し中之毛が保存 されている。昔は旧盆に沖縄角力大会が開催され、全県下から力自慢のシマトゥヤー (角力取り) が競っていた。現在も伝統的な琉球角力大会やエイサーが催されている。中之毛には公民館が建てられている。


平魂之塔

公民館の広場の隅には平魂之塔と刻まれた戦没者の慰霊碑が建てられている。昭和27年に沖縄戦で亡くなった住民307人を含み324人を慰霊している。


サントゥー井戸 (ガー)

知念坂沿い左側にサントゥー井戸 (ガー) がある。サントゥーとは琉球古来の独自のセメント状用材のことで、井戸口や井戸端を塗り固めて造っっていた。王府時代は浦添に通ずる普天間街道道沿いにある事から、往来をする人々の喉を潤し休憩所にもなっていた。


旧宿道 (スクミチ)

知念坂のサントゥー井戸から路地が西に路地が分岐しており、昔の宿道だった。戦後しばらくは石敷き道が続いていた。王府時代の浦添や中頭地方、国頭地方へいたる中頭方西海道への入り口になる。


龕屋跡 (ガンヤー)

旧宿道を進んだ左脇は平良村の龕屋 (ガンヤー) のあった場所で、終戦後まで朱色の龕 (ガン) が朽ちかけたまま納められていた。 平良町の龕 (ガン) は、二百年ほど前に、平良村の村獅子頭 (ムラシーシ) と末吉村の龕と交換したと伝わっている。


旧石道小路 (スージ)

大正期の民俗地図を見ると、 平良町の あちこちに王国時代の名残りである石道 を見ることができます。 沖縄では 「いし みち」といい、石を敷き詰めた公道であ り、雨天時のぬかるみなどの弊害をなく し、往来を円滑にする役目がありまし た。 王府の命で舗装されたそれらの公事 道 (クージミチ) は宿道となり、 王都首 里から地方の各間切りへの起点となって いました。


平良殿内 (テーラドゥンチ) 跡

更に宿道を進んだ所にマンションが建っている。ここは向氏の分家筋にあたる平良殿内 (テーラドゥンチ) の屋敷跡と伝わっている。1879年 (明治12年) の廃琉置県当時、首里士族 (脇地頭) は54軒あったのだが、この脇地頭家は廃藩置県で失業没落し、地頭の所領へ移住し屋取 (ヤー ドゥイ) として農業に従事する者も多かった。 この中には赤平町にあった平良殿内も含まれ、この平良村に移ってきたのか、それとも別邸だったも知れないとされている。


道絡り (ミチグヤー)

宿道を進むと十字路に出る。この場所は平良町と大名町の境になる。この様な路の交叉した場所を昔は絡り (グヤー) と呼んでいた。現在ではカジ マヤーとかアジマーと呼ばれている。廻輪することを古語で「ぐり」とか「ぐりぐり」というのだが、琉球方言でリ音はイ音に転ずるので、交叉して道路が廻輪していることを「グーイ」といったと考えられる。ミチグヤーとは道路が交叉して廻っている所を称している。この先の大名村は昔は平良村に属していたので、大名町には平良村時代の史跡がいくつもあるのだが、それは首里大名町を訪問する際に見学することにする。



もう一度、平良三叉路に戻り、今度は石嶺方面への道沿いの史跡を見ていく。



新井戸 (ミーガー) 跡

県道241号から城北小学校方面へ入る所のファミリーマートの駐車場の脇に新井戸 (ミーガー) 跡があり、井戸は埋められて残っていないのだが、香炉が置かれた祠が建てられて拝所となっている。この辺りには先に訪れた宮古井戸 (ナークガー) やサントーガーがあるが、それらよりも掘削時期が新しいことで、新井戸 (ミーガー) と呼ばれるようになった。


平良前原 (テーラメーバル)

新井戸 (ミーガー) から城北小学校方面へ道を降りていくと川にあたる。この辺りは平良前原 (テーラメーバル) と呼ばれた地で、1906年に平良村字平良と共に首里に編入された地域だった。現在は住宅が密集している。


平良学校所跡 (城北小学校) 

橋を渡ると登坂になる。この坂を登った所は城北小学校となっている。この小学校はかつては平良学校所が置かれていた。琉球王国時代の各所に学校所が置かれたのだが、首里や那覇以外は、各間切で番所が置かれた村に、各間切に一つの学校所が置かれていた。当時は平良村は西原間切に属して、学校所が置かれる条件ではなかったが、平良村は特別に学校所が置かれていた。平良村が当時は西原間切の中でも有力の村だったことが判る。


新道 (ミーミチ)

来た道を戻り、県道241号を北に進む。この県道は1933年 (昭和8年) に虎頭山に連なる山頂を削った儀保 (首里) の割り取り工事の際に開通した道で新道 (ミーミチ) と呼ばれていた。


宮古井戸 (ナークガー)

新道 (県道241号) 沿いには、コンクリートの塀で囲まれた拝所があった。宮古井戸 (ナークガー) になる。1597年 (尚寧9年) に板橋の平良橋を石造アーチ橋に改修し太平橋とし、浦添間切に続く宿道 (普天間街道) に敷石を敷設した。 この工事には、宮古島から多数の石工が動員されていた。その石工や労働者たちが工事期間中 に平良村住民から親切にされた返礼として、井戸を石積みのものに改修した。それ以降、この井戸は平良村の人たちに宮古井戸 (ナークガー) と呼ばれるようになったと伝わっている。平良に産川 (ウブガー) が伝わっておらず、また、このナークガ-は「ナ (土地) ク(処) ガー」から来ているとも考えられ、「土地のカー」で村井 (ムラガー) ではないかとの説もある。


首里第三尋常高等小学校跡 (若夏学院)

新道 (ミーミチ) から北に外れた路地を進んだ所に若夏学院があるが、ここは西原村時代の1895年 (明治28年) に平良真地馬場 (テーラマージンマイー) の御桟敷 (ウサンシチ) の裏側に西原尋常高等小学校の分校創設された。1911年 (明治44年) に嶺吉尋常小学校 (石嶺の嶺と末吉の吉から名付けられた) と改められ、10年後の1921年 (大正10年) からは首里第三尋常高等小学校となっている。1945年 (昭和20年) の沖縄戦で校舎は焼失し、戦後、この跡地には琉球政府立実務学園や沖縄県立若夏学院となり、その施設の中に那覇市立城北中学校若夏分校も置かれている。


今日は集発が遅く、途中で翁長おじいとと出会い話し込んだので、自宅に帰ってきたのは7時半といつもよりかなり遅くなった。集落巡りで地元の人と出会い話すのは何よりも楽しく貴重なものなので、予定が消化できなくても最優先にしている。特に沖縄戦とその戦後を語ってくれる人は年々少なくなっているので、今日はこの出会いはラッキーだった。家も教えてもらったので、また会う機会があるだろう。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
  • 新 琉球王統史 09 尚質王 (2006 与並岳生)