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四旬節第1主日(C)

2022.03.04 20:00

2022年3月6日  C年 四旬節第1主日

第1朗読 申命記 26章4~10節

第2朗読 ロマ 10章8~13節

福音朗読 ルカによる福音書 4章1~13節

 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 今日の福音箇所でイエスは、宣教生活のはじめに荒れ野へと向かい、断食をします。四旬節中、愛徳と節制を心がけようと思いながらも、なかなか上手くいかない自分がいる、そんな私たちの前に課される一つの壁が、「誘惑」だと思います。「誘惑」とどのように向き合うのか、そして、どう乗り越えていけるのかという点について、イエスに教えていただくために、今日の福音をご一緒に読んでみたいと思います。

 今日の福音箇所には、三つの誘惑が登場します。まず一つ目は、イエスが空腹を覚えられた時にささやく「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」という悪魔の声です。これは数ある誘惑の中でも食欲に代表される生理的欲求として読むことができます。次に登場する誘惑は、悪魔が世界のすべての国々を見せた後にささやく、「国々の一切の権力と繁栄」です。最後は、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」という「神を試みる」という誘惑です。

 イエスが受けたこの三つの誘惑は、私たちも日々受け続けているものです。時に、悪魔は物語上の空想のもので、現実世界の出来事ではないというように受け取られてしまうこともありますが、わたしたちの世界にも悪魔は住み着いています。悪魔は非常に狡猾です。「自分は悪魔に従うことは絶対なく、悪魔にささやかれて誘惑に負けるようなやつは弱い」と思うその頑なさに、悪魔は、特に入り込んできます。「悪魔」というと、真っ黒で、槍を持っていて、今にも「うっしっし」と言い出しそうな典型的なキャラクターとしてイメージするかもしれません。しかしながら、私たちの世界に住み着く悪魔は一見それとは分からず、私たちにとって、最も魅力的な姿でやってきます。今回の福音箇所の「食欲」「権力」「神を試みる」という三つの誘惑は、私がその誘惑にさらされていると認めることが難しい順に、またその誘惑を退けるのが難しい順に置かれているようにも思えます。

 まず、「食欲」。食欲は、人間の生存を支える基本的な欲求で、食欲が自分にあることは、誰もが自覚できるものです。断食の時イエスが感じたように、当然、私たちも空腹を感じます。また、生まれたての赤ちゃんを見ても分かるように、食欲は、私たちの命を支えるものです。しかし、人間にとって必要な欲も、過剰になってしまったり、誤った方向に進んだりしてしまうと、際限のない搾取の根源となってしまうということは、比較的容易に認められるのではないでしょうか。

 次に、権力に対する誘惑について考えてみたいと思います。権力に対する誘惑があるか問われると、あまり実感がないということもあるでしょう。社会生活を営む私たちは数々の権力の下にあります。自分が「偉くなりたい」と思うこと以外にも、私たちはこの種の誘惑にさらされています。例えば、初めての人と出会った時、その人自身を大切にしたいという思いはあるのに、会社、役職、学歴、出自、家柄などの権力を基礎とする定規で見てはいないでしょうか。そして同時に、私たちは、何かの権力に頼ることで自分自身を表現しようとしてはいないでしょうか。

 最後に、「神を試みる」ということについても誘惑はつきまといます。自分の願った通りにいかない時、また、自分からの目線で、努力と結果がつり合わないということで神を疑ってしまうことはないでしょうか。また、私たちは自分自身で神のイメージを作り出し、福音書の中で描かれる律法学者やファリサイ派のように他人を裁いてしまいます。これも神への信頼の欠如から生じる試みの一つと言えるでしょう。さらに、恐ろしいことに「私の信仰は誰よりも立派で、悪魔の突き入る隙など微塵もない」というその思いや態度の中に、悪魔はすでに住み始めています。また三つ目の誘惑の特徴は、悪魔が聖書の言葉を用いていることにもあります。聖書の言葉や、神の名を利用する悪魔の狡猾さが現れています。

 ここからは、これらの誘惑からどのように離れて行くことができるのかイエスの姿から考えてみたいと思います。誘惑に打ち勝つためには、どんな誘惑にも負けない、また、どんな悪魔のささやきにも耳を貸さない「確固たる自分」が必要であると考えてしまうように思います。しかしながら、そう考えていくと、誘惑に負けない自分の頑なさというところに、さらに新たな誘惑が現れます。すなわち、頑なさによって誘惑に立ち向かうと、誘惑に勝ったのは、自分の力であって、結局自分の意思の強さが、この世界で最も信頼できるものとなってしまうのです。

 イエスは、悪魔に対して、自分自身の一時の思いから出る言葉では対決しません。聖書の言葉で悪魔を退けます。イエスは、『人はパンだけで生きるものではない』、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』、『あなたの神である主を試してはならない』と、すべて申命記の言葉から引用しています。三つ目の誘惑では、悪魔が聖書の言葉を用いて誘惑してきた時でさえイエスは、さらにみ言葉で応えていきます。私たちは、誘惑に自分の力で打ち勝とうとしてないでしょうか。誘惑に対して、私たちができることは、実はそんなに多くありません。私たちにできることと言えば、まず、自分が絶えず誘惑にさらされ続けている弱い存在であることを認めること、そして、私が誘惑から遠ざかることができるよう、神の助けを願うことだと思います。

 誘惑にさらされた時に、自分の力だけで乗り越えようとするさらなる誘惑から離れるためには、神が全てをゆるしてくださること、神が私たちをあわれんでくださること、そして何よりも神にとって私たちが、かけがえなく、かわいい存在であるということへの確信が求められます。

 あたたかな神の眼差しに包まれ、自分の存在の基盤を神に委ねる時、私たちは誘惑から離れていけるのだと思います。そのようにして誘惑を退けることができた時、イエスの過ごした荒野、また私たちが日々歩み続けている荒野は、悪魔のささやきが存在する場でありながら、同時に神の愛を深く、体験する恵みの場と変わっていくでしょう。

(by J.H.M)