台与(アマトヨツヒメ)
西暦107年「倭面土(ワミャント)国」は大和(ヤマト)の勃興か
瀬戸内海沿岸を中心とする高地性集落の中には、
狼煙(のろし)台と目される遺物が発見されるなど、軍事的な要素を備えている
倭=瀬戸内海沿岸の国々(奴国を含む)
倭の東に面する土地 → ワミャント → ヤマト
漢委奴国王
57年 建武中元二年、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。
倭国の最南端にある。光武帝は印綬を賜った。(後漢書倭伝)
107年 安帝永初元年、倭面土国の主帥の升らが生口を献じた。(北宋版通典)
239年 制詔、親魏倭王卑弥呼。
帯方太守、劉夏が使を遣はし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、
汝が献ずるところの男生口4人、女生口6人、班布2匹2丈を奉り以って到る。
汝の在する所は遠きを踰(こ)ゆ。
即ち、使を遣はし、貢ぎ献ずるは、これ汝の忠孝なり。我は汝を甚だ哀れむ。
今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装ほひ封じて帯方太守に付し、
仮りに授く。汝は種人を綏撫し、勤めて孝順を為せ。(魏志倭人伝)
・景初三年銘画文帯同向式神獣鏡(大阪府和泉市和泉黄金塚古墳出土)
・景初三年銘三角縁神獣鏡(島根県雲南市神原神社古墳出土)
昭和56年(1981年)、滋賀県守山市伊勢町、阿村(あむら)町、栗東市野尻(のじり)にかけて、弥生時代後期の巨大な集落遺跡が広がっていることがわかりました。その後、平成19年3月までに実施した104次にわたる発掘調査で、伊勢遺跡は東西約700m、南北約450mの楕円形状に形成されていることが明らかになっています。集落が営まれた時代は、縄文時代後期から室町時代で、最も栄えた時代は弥生時代後期(紀元1~2世紀)です。遺跡は、南と北にある低地に挟まれた微高地にあり、東から西にかけて傾斜する土地にあります。
弥生時代後期の建物跡には、竪穴住居と掘立柱建物の2種類の建物跡があり、竪穴住居の平面形には円形と方形そして五角形の3種類があります。また、掘立柱建物の規模には大小が見られ、ここでは床面積が30㎡以上のものを大型建物と呼んでいます。遺跡の西半部には竪穴住居が広がり、東半部の大型建物跡が無くなると、その上にも竪穴住居が造られるようになります。
遺跡の西側では、溝を挟んで方形周溝墓が築かれていますが、弥生時代集落の有力者の墓域であったと推定されます。遺跡の東端では、幅約7m、深さ2m以上もある大きな堀のような大溝があり、北側は方形周溝墓、南側は、旧河道であったと推定されます。
日本国は、古の倭の奴国なり。後に夏音を習ひ、倭の名を悪み、日本と更め号す。
使者、自ら言ふ。「国、日の出づる所に近し。以て名と為す」と。或云ふ。
「日本は乃ち小国。倭の并す所となる。故に其の号を冒せり」と。
使者は情を以てせず、故焉を疑ふ。
又、妄りに夸りて其の國都は方數千里にして、南、西は海に盡き、東、北は大山に限られ、
其の外は即ち毛人なりと云ふ。(新唐書列伝)
日本最古の官撰正史「日本書紀」は、編纂に約40年を費やしている
天武天皇十年(681年)の条に、天皇が川島皇子以下12人の皇族・貴族を大極殿に集め、
「帝紀と上古諸事の記定」を命じたとある
完成は元正天皇の養老四年(720年)である
日本書紀研究の第一人者の小島憲之氏によれば、本文は史記、漢書、後漢書、三国志魏志、
三国志呉志、梁書、隋書、文選、芸文類聚、最勝王経、北堂書鈔から、
3,191字の章句を借用している
ここで日本書紀の編纂に重大な障害が生じた
第一の障害は、卑弥呼=皇祖・天照大御神とすると、天照大御神が3世紀の人物となる
しかし、日本建国を太古の時代と設定したい朝廷にとって、これは是認し難い事であった
日本書紀は朝廷支配を正当化し、朝廷の起源と発展を国内外に知らしめ、
後世に残すための国家的事業として編纂された史書である
初代人皇・神武天皇即位を、
推古天皇九年辛酉(601年)から1,260年(1蔀21元)溯った紀元前660年とした
これは、古代中国の辛酉革命の思想に基づいたものであり、
明治時代の学者・那珂通世氏以来の学会の常識である
皇祖・天照大御神は、神武以前の神としなければならない
ところが、三国志をはじめとする中国史書には卑弥呼、邪馬台が頻出し、
卑弥呼が3世紀の女帝である事が歴然としている
あまりにも有名な女帝・卑弥呼を無視出来ず、
中国史書との整合性を意識せざるを得なくなった
第二の障害は、卑弥呼と魏王朝が対等関係ではない事である
卑弥呼は魏王朝より親魏倭王に封ぜられている
同時代に中央アジアからインドに跨る大国である大月氏の国王・波調が、
同じく明帝より229年に授与された親魏大月氏王と同格である
卑弥呼への詔書は、中国の天子が臣下に与える内容であり、
卑弥呼を「汝」と呼び捨てにする箇所が13も出現する
「是れ汝の忠孝にして我甚だ汝を哀れむ」「勉めて孝順を為せ」
「国家の汝を哀れむを知らしむべし」「汝に好物を賜うなり」とあり、
対等な国家間の表現とは言い難い
7~8世紀の朝廷は、日本と中国は対等との意識であった
聖徳太子が607年に隋の煬帝に送った国書
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」の表現は対等である
663年の朝鮮・白村江の戦いでは、唐帝国と正面から戦戈を交えている
従って、朝廷は卑弥呼、邪馬台を正面から認める事が出来なかった
そこで考案されたのが、架空の人物 「神功皇后」である
日本書紀は次の細工をした
・神功紀に魏志及び晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼、台与に見せかけた
・神功を補佐する武内宿禰が常に登場し、卑弥呼の弟、台与の摂政の役割としている
・神功を摂政に制した事で、朝貢は天皇空位の間に勝手に行われた事とした
・中国史書と年代の整合性をとった
神功皇后摂政
・元年10月 皇太后摂政就任
・3年1月 磐余若桜宮(奈良県桜井市池之内・稚桜神社)に遷都
・69年4月 崩御(享年100歳)
つまり、
201年 イスケヨリ即位
269年 アマトヨツ退位
仁徳天皇の怪しさ
多少の錯誤はあれど、台与の退位269年の直後に応神天皇を即位させなければならない
そのために、架空の仁徳天皇を挿入したのではないか
7孝靈 オオ ヤマトネコヒコ フトニ
8孝元 オオ ヤマトネコヒコ クニクル
9開化 ワカ ヤマトネコヒコ オオビビ
10崇神 ミマキ イリヒコ イニエ ←←←三輪王朝はじまる
11垂仁 イクメ イリヒコ イサチ
12景行 オオ タラシヒコ オシロワケ
13成務 ワカ タラシヒコ
14仲哀 タラシ ナカツ ヒコ
15応神 オオトモ ワケ ホムダ ワケ ←←←河内王朝はじまる
16仁徳 オホサザキ ←←←挿入(難波の高官という説も)
17履中 オオエノイザホ ワケ
18反正 タジヒノミズハ ワケ
つまり、世界最大の大仙陵古墳は河内王朝の初代王たる応神陵ではないか
仁徳、履中の2代で長くても425~438年の13年間という短さが古墳の大きさと整合しない
仁徳紀は中国の史書を基に創作された記事とされており、
王朝の初期に聖天子が現れるという思想が反映されている
どの家にも竈の煙が昇っておらず、これにより民衆が炊事も出来ないほど貧しい事を知り、
3年間、課税と労役を全て止める事にしたなる説話は、
5世紀には近畿地方において竈は普及しておらず、史実を反映した記述ではない
神功皇后の怪しさ
・「仲哀9年2月5日、仲哀天皇崩御」
「仲哀9年12月14日、神功皇后、誉田別尊(応神)を生んだ」
出産から十月十日前となる日の1日後に、応神の父という設定の天皇を死なせている
・神功は妊娠した状態で半島に渡り、征討後、還御して福岡・宇美で応神を出産した
・神武から8世紀まで連続した王朝と見せかけるため、応神・九州王の東遷を隠している
・実在した可能性のある天皇・皇后にも関わらず、紙幣の顔になっているのは神功のみである
天照大御神
とは言え、かの偉大なる初代女王を神功紀のみに収めておく事は、
到底是認される事ではなかった
東洋史学者の白鳥庫吉は、明治43年に発表した論文「倭女王卑弥呼考」で、
「その状態の酷似すること、何人も之を否認する能(あた)わざるべし」と書いた
古事記(712年、天照大御神)、日本書紀(720年、天照大神)に見える女神である
崇神は倭の神々を序列化し、神器を大和笠縫邑に遷した
次の垂仁の時、東に行き伊勢に奉った
東の海を望む伊勢に祀られた時、日の神信仰の性格が顕わになる
天武は日の神に天照大神と名付け、高天原神話を作った
7世紀に伝わった金光明経の須弥山の忉利天に倣って、高天原と35神を創造し、
その最高神を天照大神とした
8世紀始め、伊勢に社殿を立て遷宮したのは皇后であった持統である
伊勢神道「後鎮座伝記」によると、
伊勢神宮の神器は円行花文鏡と同様の紋様を持った八咫鏡となっている
(実物は明治天皇しか見ていない)
女の太陽神は珍しい
・日本書紀の国産み神話では、伊邪那岐(男性)を陽神、伊邪那美(女性)を陰神と呼ぶ
・中国の陰陽思想では、男性を陽(昼)、女性を陰(夜)で表す
・ギリシア神話のアポロン(男性)、エジプト神話のラー(男性)は、太陽神である
・ギリシア神話のアルテミス(女性)は、月と狩猟の神である
・欧州~西アジア広域の地母神(女性)は、大地の神である
皇祖が女神というのは奇妙である
・記紀成立時は既に男系男子継承の父権社会であった
・隋書の第一回遣隋使では、「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」とある
(兄は日の出前に政治を行い、日の出になると弟に任せる)
・伊勢の荒祭宮は、高御産日神(タカミムスビ、高木神、男性)を祀るとされる
・太陽神は男神であったが、日本神話が編纂された天武・持統期に女神にすり替えられた
・天照の子孫ではない崇神、応神王朝となり、爾来、政治王ではなかった卑弥呼を軽視した
・後世になって漸く、初代女王を祀り上げる事と相成ったのである
天岩戸事件
・高天原で乱行悪行の限りを尽くした素戔嗚に天照は激怒し、天岩戸という洞窟に籠った
すると、天から太陽が消え、世界は闇に包まれ、様々な災いが起こった
そこで神々が集まり、天照を洞窟から呼び戻し、世界に再び光が戻った
・卑弥呼の死によって男王立てるも国中服さず、互いに誅殺し合い当時千余人を殺した
卑弥呼の宗女の台与という歳十三なる者を立て王とすると、国中が遂に平定した
・万葉集に「豊国の 鏡の山に石戸たて 隠りにけらし 待てど来まさず」とある
(河内王の石棺への埋葬を「石戸に隠る」としている)
・天武の死に際して、柿本人麻呂の高市皇子への挽歌「磐隠ります やすみしし 我が大君」
岩戸前後
・岩戸前は天照が最高神として神々に命令を下す姿が描かれている
・岩戸後は高御産日神と一緒に行動し、高御産日神が神々に命令を下す描写は2回ある
・古事記では、岩戸前に単独行動している描写は16回だが、岩戸後は6回である
岩戸前、高御産日神と共に行動している描写は0回だが、岩戸後は7回である
・日本書紀では、岩戸後の天照の姿は描かれていない
高御産日神が最高神として他の神々を動かす描写は18回もある
芸能の女神
・天照を岩戸から出すために、天鈿女命(アメノウズメ)という女神が全裸で舞を踊った
・魏志「倭国では人が死ぬと、喪主は号泣するが、他の人々は酒を飲んで歌や舞をする」
・弥生時代、歌や舞で死者の魂を鎮めようとした
・平安時代の文献「古語拾遺」に「凡そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺跡なり」とある
・古代の鎮魂祭では、天鈿女命の子孫とされる猿女君という女性が舞を踊った
天照と卑弥呼の比定
・伊勢神宮では太陽神に仕えた巫女(斎宮)を日女(ひるめ)と呼んだ
・巫女は神の妻を意味し、「る」は助詞「の」の古語である
・天照の別名にも「大日女尊」「大日女」がある
・卑弥呼は「鬼道に事え能く衆を惑わす」と書かれている
・稲作民は太陽信仰を持つ
・天照は機織り部屋で仕事をする等、女性と読み取れる記述が多い
・卑弥呼は高齢であり夫がいない
天照は夫がおらず、素戔嗚との誓約(うけい)という儀式の末に産まれた神々がいる
・卑弥呼は弟がおり、佐けて国を治める
天照は素戔嗚に姉と呼ばれる
・素戔嗚は天照と対立したが、岩戸後は天照の命令で葦原中国を治めるようになった
・卑弥呼の宗教統治と弟の政治統治は、天照の高天原統治と素戔嗚の葦原中国統治である
もう一柱の卑弥呼
・二所宗廟の伊勢神宮と宇佐神宮どちらも天皇家のルーツである卑弥呼を祀っている
・宇佐神宮の主神は八幡大神、河内王朝を開いた応神天皇その人である
・八幡大神よりも高い位で祀られている比売大神という女神がいる
豊受大神(台与)
・伊勢神宮内宮は天照大御神、外宮は豊受大神を祀っている
・豊受大神は生成の神・和久産巣日神の娘、豊宇気毘売神として登場する
・豊宇気毘売神は、穀物と食物を司る神様とされる
・卑弥呼と台与の2人の存在を天照大御神(皇祖)、神功皇后(実年代)としている
つまり、2人を1柱(1人)と表現する事で、直接的描写を避ける意図が感じられる
伊都国の製鉄王であった阿毎氏(神武)と出雲族令嬢(卑弥呼)の政略結婚
箸墓古墳、瀬戸内海ネット・ワーク、奈良盆地の東端だから「端墓」説
纏向は出雲族の瀬戸内海(九州からの交易航路)統治
その政治を天孫族(伊都国王)に譲ったのが、出雲の国譲り神話
瀬戸内海広域圏に共立された最初の王が卑弥呼である
ここに大久米命、天皇の命をもちて、その伊須氣余理比賣にのれるの時に、
その大久米命のさけるとめを見て、あやしとおもひて歌曰く、
「あめつつ ちどりましとと などさけるとめ」と歌ひければ、大久米命、答え歌ひてぞ、
「をとめに ただにあわむと わかさけるとめ」
「貴方は何故、千鳥、鵐(しとど)の様な目をしてらっしゃるの?」
「お嬢様に直接お会いして、勅命を持ってきた身分の私めが好かれる事の無き様、
目元に鋭い入れ墨をしてきたのですよ」
伊須氣余理比賣(卑弥呼)の歌より、卑弥呼は九州に行った事が無い事が判明する
魏志「男子は身分に限らず皆、顔や体に入墨をする」より、これは九州の海人の風習である
魏の入国時、畿内までは来なかった(後述)
ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)
・頭と尾に「ヒメ」が2回使われているのは、後世に付けられた尊称である
・7世紀の出雲族の象徴である踏鞴(タタラ)を足している
卑弥呼は、政治王・彦火火出見命(神武)の后である
・火見后 → piĕ miĕ wo → 卑弥呼
・火見王后 → piĕ miĕ kiung wo → 卑弥弓呼
魏略の狗奴国は「女男子為王」となっていた(女王と、その子の男王)
時が経ち、魏志ではその男子(君)と后が王となっている
男女ペアで王となる文化は、神武が九州から畿内に持ち込んだものであろうか
古事記では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、
・第一子 火照命(ホデリ=海幸彦)
・第二子 火須勢理命(ホスセリ)
・第三子 火遠理命(ホオリ=山幸彦)である
日本書紀では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、
・第一子 火酢芹命、火闌降命(ホスセリ、ホスソリ=海幸彦)
・第二子 彦火火出見尊、火折尊(ヒコホホデミ、ホオリ=山幸彦)
・第三子 火明命(ホアカリ)である
記紀の皇孫降臨神話は、下伽耶(駕洛)国の神話とよく似ている
伽耶の建国神話、檀君朝鮮の檀君神話、モンゴルのゲセル神話には、
天から王が降臨する神話があり、日本神話も同様である
伽耶は製鉄遺跡の多い地である
神武の父の鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)は、上伽耶(ウガヤ)である
神武の名も製鉄業とされる彦火火出見命であるが、
これは後世に付けた名前であるのなら、祖父と別の名前にするはずである
漁猟だけの時代ではなくなり、稲作や鉄工といった資本関係が生まれて貧富の差が出来、
そして長い年月を経て豪族と庶民の区別が出来た
九州では製鉄王が王様となっていたのである
神武天皇のお名前
・狭野尊(サヌミコト)
・豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)
・若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)
・始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)
・神日本磐余彦火火出見尊(カンヤマトイワレビコホホデミノミコト)
畿内で行われた倭の覇権争い(いわゆる倭国大乱)を終結させたのは神武の婿入りである
倭の国々の首長は鉄器供給を望んでいた
3世紀後半以降の畿内の古墳から鉄器が目立って出土する
卑弥呼に仕えた男王達は葛城地方に根拠を持っていた
この政権は、既に奴国や瀬戸内に鉄器加工工房を保有し、北九州から瀬戸内海、
畿内への交易路を確保していたので安定した
日本は、古の倭奴なり。京師から14,000里、新羅の東南にあたり、海中に在る島に暮らしている。東西には5カ月の行程、南北には3カ月の行程。国に城郭は無く、連ねた逆木で柵落と為し、草茨で屋根とする。左右の小島は50余り、皆、自ら国と呼んでおり、これに臣下が付随している。本率を1人置き、諸部を検察させている。そこの俗は女が多く男が少なく、文字があり、仏教の教えを尊ぶ。その官には12等級がある。王姓は阿毎氏、自ら云うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り凡そ32世、皆が「尊」を号として筑紫城に居住する。彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。(新唐書日本伝)
建国の詔 神武天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)
三月辛酉朔丁卯。下令曰。自我東征於茲六年矣。賴以皇天之威。凶徒就戮。雖邊土未淸。餘妖尙梗。而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都規大壯。而今運屬此屯蒙。民心朴素。巢棲穴住。習俗惟常。夫大人立制。義必隨時。苟有利民。何妨聖造。且當披拂山林。經營宮室。而恭臨寶位。以鎭元元。上則答乾靈授國之德。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而爲宇不亦可乎。觀夫畝傍山〈畝傍山。此云宇禰縻夜摩。〉東南橿原地者。蓋國之墺區乎。可治之。
民(おほみたから)のこゝろ朴素(すなほ)なり
巢にすみ穴にすむ、すむしわざ、これ常となれり
畿内は西暦100年頃に倭の実権を握り、西暦200年頃に女王が共立された地域である
従って、大陸に近く、上代より発展していた北九州から見れば、
上記の如くまだまだ後進国に映っていたのではないか
神武は大和入り後に女王と結婚するが、妃はいない
これは世界中の王配の鉄則であり、女王の婿が他に子をつくると後継問題で複雑になる
複数の妃を持つ最初の王は孝霊である
神武(始馭天下之天皇)、崇神(御肇國天皇)は王朝の初代である
そして応神王朝は、後世に付け加えられた仁徳を除いて、
現在の皇室の祖先である事はほぼ確実である
金錯銘鉄剣(埼玉県)
稲荷山古墳の後円部墳頂の埋葬施設の一つである礫槨から出土した副葬品。剣身に表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が金象嵌で刻まれている。その内容は「辛亥年」(西暦471年)に「ヲワケの臣」(または「ヲワケコ」)が「杖刀人首」(「杖刀人」のトップ)として「ワカタケル大王」(雄略天皇)に仕えたことを示すもので、日本古代史を解明する上で欠かせない超一級資料。
神武東征は応神東遷をベースにした神話である
・壬申の乱(672年)の際に大海人皇子(天武天皇)が、
高市県主許梅に乗り移った事代主から「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」
と神託を受けたため、神武陵に使者を送って挙兵を報告した
・神武軍に抵抗してきた和歌山の名草媛の体を頭、胴、足と三等分し、
地元の人たちはこの哀れな媛様のそれぞれの部位を3つの神社で祀ってきた
日本書紀に神武軍が名草媛を誅したと書かれている
・宮崎県日南市、鰹の水揚げで有名な油津港の語源が、
神武の先妻である吾平津媛(アヒラツヒメ)とされる
・吾平津媛との間に産まれた手研耳(タギシミミ)を祀る古社・吾田神社が日南市にある
・日南市を流れる広渡川の河口には、神武軍が出立前に滞在したという梅ヶ浜洞窟がある
■2~3世紀の鉄器伝播ルート
①鋳造鉄斧の上面に縦方向の隆起線が無い
加耶 → 対馬下県 → 厳原 → 壱岐 → 玄界灘 → 北九州(末盧国・伊都国・奴国)
②鋳造鉄斧の上面に縦方向の隆起線がある
加耶 → 対馬上県 → 比田勝 → 沖ノ島 → 北九州(鐘崎・宗像) → 山陰 → 瀬戸内 → 畿内
■約500年間に亘り居住してきた拠点集落の廃絶
畿内の拠点集落は、2~3世紀に入ると存続しないものが多い
河内の池上曽根遺跡が代表例である
多くの地域で拠点集落が解体する中、
河内の亀井遺跡や、大和の唐古・鍵遺跡といった拠点集落は存続する
唐古・鍵遺跡は径500mの環濠を持ち、木器・青銅器・石器製作の工房がある
そこで、BC1世紀の北部九州の須玖式の土器片が出土した
青銅器鋳造(銅鐸文化)のピークは1世紀後~2世紀初にあり、土製鋳型外枠を利用した
この遺跡を特徴付けるのは、弥生土器に線刻で建物・人物・動物を描いた絵画土器である
しかし、弥生時代の集落を囲む環濠や銅鐸が埋められたりするのと入れ替わりに、
2世紀末~3世紀初に突然、その東南5kmにある纏向遺跡が出現する
■畿内でも青銅祭器から銅鏡の時代へ
列島における本格的な青銅器文化は、BC2世紀初に始まった
北九州では、弥生中期初頭に朝鮮半島から武器型青銅器を受容した
銅鐸は、山陰、近畿、北陸、東海に及ぶ広域に広がった
畿内は当初から祭祀としての銅鐸、北九州では銅剣・銅矛・銅鏡を青銅器祭器とした
南九州では青銅器はほとんど存在しない
倭国大乱(146~189年、或いは178~184年)の時、青銅祭器が消滅し、
西日本は北九州で尊重された銅鏡を最高の威信財とする体制となった
鏡を副葬する風習が北九州以外でも見られる様になったのである
■北九州では倭国大乱の痕跡が無い
倭国大乱の原因は、東アジアにおける2世紀後半からの寒冷化による農産物への悪影響、
そして後漢での黄巾の乱(184~192年)の混乱等による漢の楽浪郡の弱体化であった
弁辰の鉄取得の秩序が一時的に乱れ、朝鮮半島からの鉄素材や、
先進文物の入手を巡る主導権争いになったとも言われる
高地性集落は標高200~300mの山頂や急斜面に立地する事もあり、石製武器が多量出土する
BC1世紀後半~1世紀に第1次高地性集落が瀬戸内沿岸に出現
畿内では、2世紀に出現する拠点的高地性集落が卓越する事から、
軍事的緊張が恒常化していたと思われる
特に大阪湾や瀬戸内海を望む見晴らしの良い高地に集中した
平成14年1月30日生まれの清原君は、いざなみベイビーであったか
■神武景気 昭和29年12月~32年6月(31ヶ月)
高度経済成長期の幕開け、神武天皇が即位した紀元前660年の建国以来の好景気
日本経済は第二次世界大戦前の水準を回復、大衆消費社会形成の糸口となった
昭和31年の経済白書には「もはや戦後ではない」と記された
■岩戸景気 昭和33年7月~36年12月(42ヶ月)
神武景気を上回る好景気という事から、さらに遡る天屋岩戸神話に因む
活発な技術革新により、投資が投資を呼ぶという設備投資主導の景気拡大が生まれ、
三種の神器(洗濯機、テレビ、冷蔵庫)が急速に普及
昭和35年12月、国民所得倍増計画が発表され、本格的に高度経済成長時代へ突入
■オリンピック景気 昭和37年11月~39年10月(24ヶ月)
アジア初の五輪開催に伴い、新幹線や高速道路、競技施設の建設や、
オリンピックを見るためのテレビ需要が高まった事により景気拡大
■いざなぎ景気 昭和40年11月~45年7月(57ヶ月)
戦後最長の消費主導型景気拡大局面の事で、天屋岩戸神話をさらに遡る国造り神話に因む
民間設備投資に牽引され、5年間で名目国民総生産が2倍以上となった
昭和43年、西ドイツを抜き自由世界第2位
3C(カラーテレビ、クーラー、自動車)が急速に普及
■バブル景気 昭和61年12月~平成3年2月(51ヶ月)
過剰な投機熱により、株式や不動産等の資産価値のバブル現象を引き起こし、
その後の失われた10年と呼ばれる超長期の不況の原因ともなった
■いざなみ景気 平成14年2月~20年2月(73ヶ月)
いざなぎ景気を上回る景気拡大であり、国造り神話の女神の名に因む
好景気の恩恵が偏った事と、経済成長が緩やかであった事から、
豊かさを感じさせないという特徴があった
景行天皇十二年九月五日
周防国佐波津(山口県防府市)より南望し、多臣の祖武諸木、国前臣の祖菟名手、物部君の祖夏花を検察に行かせる。すると一国の魁師である神夏磯媛が、磯津山の榊の上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊をとりかけ、そして船の軸に白旗を掲げて近づいてきた。(三種の神器の初出)
豊前国の長峡の縣(福岡県行橋市)に行宮を建て、名付けて京(みやこ)という。十二月五日 襲国 熊襲の八十梟師 市鹿文(イチカヤ)を火の国造にした。
「熊襲梟帥(クマソタケル)には二人の娘がいます。姉を市乾鹿文(イチフカヤ)といいます。乾は賦(フ)と読みます。妹は市鹿文(イチカヤ)といいます。容姿は美しく、心は雄々しいです。たくさんの幣(マヒナヒ=贈り物)を示して、麾下(オモト=幕下=幕は幕府と同じで出陣中の状態を表す言葉。よって戦争しているときの妃が入る場所のこと)に召し入れるべきです。それで、その消息(アルカタチ=熊襲梟師の居所)を聞いて、不意にそこを襲えば、刃を血濡らさずに賊(アタ)は自然と必ず破れるでしょう」
天皇は「良い案だ」と言いました。天皇は「スメラミコト」と読みます。このスメラというのは「清らか」という意味があります。よって天皇の天皇たる根拠の一つに「清らか」というのは大事なポイントであるはずです。そんな清らかな天皇が「人を殺す」ことはタブーだったのではないか?と思うのです。普通の英雄は何かの「武勇伝」があるはずです。首をはねたとか一刀両断したとか、そういう血湧き肉躍る物語があるものです。ヤマトタケルにはそれがあります。ヤマトタケルは兄を引きちぎり、クマソタケルを殺し、イズモタケルを殺し、とその手は血にまみれています。しかしヤマトタケルはその武勇で大和朝廷に貢献したにもかかわらず、結局天皇にはなれませんでした。もう一つは中大兄皇子です。中大兄皇子は「自分の手で」蘇我入鹿を宮中で暗殺します(645年)。その後には天智天皇になるのですが、蘇我入鹿暗殺の23年後(668年)のことです。これだけの空白に対して、いろいろな説があるのですが、わたしはもしかすると「死の穢れ」が原因だったのではないか?と考えています。
21世紀の台与こと清原伽耶
・神武天皇も通行されたという「南方」の近くが生家(2002)
・デビュー間もなく決まったCM企業がアステラス製薬(社名の由来)(2015)
・ニノさん(13歳、TV初出演)で「アマテラス岩戸後」(下写真)(2015)
・amazarashi(アマザラシ)が好き、御朱印帳集めが趣味
・引き篭もって過ごす事が好き(卑弥呼の部屋に出入りする者がおり、会った者は少ない)
・神器たる翡翠勾玉(2022)
・ジャンヌ・ダルク13歳(台与登場と同年齢)(2023)
・台湾映画のエグゼクティブ・プロデューサー張震(台与の摂政は張政)(2024)
伽耶の名前の由来である「もののけ姫」カヤ(足利尊氏の許嫁)も似てるけどな
まあ、救世主と見せかけて親族というのは卑弥呼、台与も同じ
ちなみに、「あさが来た」では、史実は妾であったという曰くつき
宮崎駿監督のアニメ『もののけ姫』には「たたら場」が、物語のカギを握る重要な場所として登場します。たたら場とは砂鉄から鉄を取りだす作業を行う場所で、いわば昔の製鉄所です。主人公アシタカは、たたり神の呪いを解こうと旅をする中、たたら場でエボシ御前と出会い、呪いの正体を知り、やがて人間ともののけの戦いに巻き込まれていきます。
たたら場は古代より日本各地に存在し、長く日本の鉄需要を賄ってきましたが、明治になって西洋式の近代的製鉄法に押され、徐々に姿を消していきます。現存するのは島根県雲南市吉田町にある「菅谷たたら」のみで、『もののけ姫』に登場するたたら場のモデルも、この菅谷たたらと言われています。
『もののけ姫』には、たたら製鉄やたたら製鉄に従事する人たちの暮らしに触れたセリフも出てきます。菅谷たたらにおけるたたら製鉄からこれらのセリフを読み解き、『もののけ姫』をちょっと違った角度から味わってみませんか。
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終盤、目が泳いでいる
大海人皇子は壬申の乱に勝利するため、6月26日に伊勢で天照大神を望拝した
「天照大神」の初出である
それまでは、用明紀「日神」など、高御産巣日神を最高神としていた
・668年 天智天皇、近江朝廷之令制定
・671年 大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄・中臣金を左右大臣、蘇我果安らを御史大夫に
・672年 天智天皇の弟の大海人皇子、子の大友皇子が皇位をめぐって対立
・673年 壬申の乱に勝利した大海人皇子が即位(天武天皇)
・681年 律令と国史の編纂に着手
・683年 本邦初の銭貨である富本銭が登場
・686年 天武天皇崩御
・689年 草壁皇子急死、飛鳥浄御原(きよみはら)令制定(天皇、日本国を号と為す)
・690年 持統天皇即位
・694年 藤原京遷都、本邦初の壮麗な都城である
・701年 大宝律令制定
■九州説は山門を邪馬台国としているが、同じ北九州なら直接訪問するはずである
にも関わらず、里数を知らない倭人の言う日数表記に切り替わっているのは不自然である
魏の高官に遠路遥々、畿内まで訪問させる事は無いだろう
奴国の何倍も多い投馬国、邪馬台国の戸数も伝聞に過ぎない
倭は「當在会稽東治之東」にあるとしている
会稽は揚子江の川口の辺りから南の地域であり、今の上海や杭州や寧波に近い
会稽の東に在る島といえば種子島や屋久島である
東冶は福州とその周りであるが、福州の東にある島といえば琉球王国である
儋耳と朱崖という、海南島にあった郡の風俗が、倭国の風俗の引き合いに出されている
ヤマトとはヘブライ語で神の民を意味する
九州にある山門の意味でのヤマトとは違う、神都ヤマト(大和=奈良)である
魏略では対馬、壱岐、松浦、伊都、奴、不彌、狗奴国まで行っている
魏志では伊都に直接行っている(それ以外は行っていない)
■狗奴国の官である狗右智卑狗(魏略、コウチヒコ=河内彦)
熊本には河内みかんで有名な河内町がある
畿内には九州と同じ地名が何十もあるが、
大阪の河内王朝も応神東遷で熊本の河内から持ち込んだ
思えば、静岡の三島も、大阪の三島由来ではないだろうか
■魏志倭人伝の戸数、里数、日数共に過大表記である
これは呉を牽制するためとも考えられる
又、誤記が複数見られる
・一大國 → 一支國 (壱岐国)
・陸行一月 → 陸行一日 (難波津 → 纏向)
・邪馬壹國 → 邪馬臺國 (邪馬壱国 → 邪馬台国)
・狗古智卑狗 → 狗右智卑狗 (河内彦)
・景初二年 → 景初三年 (西暦238年 → 西暦239年)
■卑奴母離(ヒナモリ=夷守)とは、遠方の国境周辺に展開する防衛職を意味する
對 馬 國 卑狗 卑奴母離
一 大 國 卑狗 卑奴母離
末 盧 國
伊 都 國 爾支 泄謨觚 柄渠觚
奴 國 馬觚 卑奴母離
不 彌 國 多模 卑奴母離
(ここまでが九州)
投 馬 國 彌彌 彌彌那利
邪馬壹國 伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳
■本邦初の異国政府の公式訪問であった
狗邪韓国、伊都国には「到」の字が使用されている
その他は「至」である
魏略で1万戸あった伊都国の人口が、魏志では1千戸となっている
これは、かなりの短期間で、畿内への民族大移動クラスの東遷があった事を想起させる
伊都国には、大和朝廷の王族、高官等が大挙集結していたのではないか
女王に属す30ヶ国の官等も集結したはずである
高齢の女王は面会に訪れず、だから直接会っていないとなっている
「夫がいない」とは生涯独身ではなく、既に神武の未亡人なのである
都の位置を問われ、倭人が方位で回答したと思えず、日出づる方角と回答したはずである
魏は、伊都国までの経路を問うた
であるならば、出雲ルートはあり得ず、瀬戸内海ルートの事を述べている
今でこそ高知県は高知市一極集中になっているが、縄文時代はむしろ西部の中村(現四万十市)や足摺岬周辺が中心地であった。大分県の姫島が黒曜石の産地であり、船での行き来を考えれば地理的条件が整っている。縄文人の生活にとって海洋交通は欠かせないもの。食生活を考えても、山での狩猟より海産物の採集のほうが安定した基盤となる。一説には貝塚は食品工場のあとだったとも言われている。さて、船で遠出するときに重要なのが目印である。縄文時代には灯台があったのだろうか?
足摺岬にはなんと縄文時代の灯台が残されているという。先に紹介した巨石遺跡群の中に鏡石と呼ばれる表面を平らに磨いたような巨石がそびえ立っている。その場所から海が見渡せるし、海の方からも台地の上にその石が確認できる。その調査については、昭和薬科大学文化史研究室による『足摺岬周辺の巨石遺構――唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書』(土佐清水市教育委員会発行)としてまとめられている。まさにこの一帯が魏志倭人伝に登場する侏儒国であり、黒潮に乗って裸国(チリ北部)・黒歯国(エクアドル)に向かう出発点だったのではなかろうか?
崇神崩御は350年以降ではないか
魏志倭人伝によれば邪馬台国に馬が居なかったが、
箸墓からは馬具が発見されているのも年代が異なっている
一部の出土品の年代測定では西暦250年前後だが、
その他の物証では350年以降でないと存在しない物が出土している
瀬田遺跡 葛城王朝初代王 卑弥呼陵
箸墓古墳 三輪王朝初代王 崇神陵
大仙古墳 河内王朝初代王 応神陵
前方後円墳の原型と考えられている陸橋を持つ弥生時代末期(2世紀中ごろ~後半)の大型円形周溝墓(直径約31メートル)が奈良県橿原市城殿町の瀬田遺跡で見つかり12日、奈良文化財研究所が発表した。墳丘は失われていたが周溝ははっきり残り、国内最大級の規模。奈良県内では初の発見で、専門家は「前方後円墳の誕生を考える重要な資料」とみている。
円形周溝墓は墳丘部の直径約19メートル。幅6~7メートル、深さ約50センチの溝をめぐらせ、南西部に長さ約7メートル、最大幅6メートルの陸橋が付いていた。埋葬施設は見つかっていない。同県の大和盆地東南部には、最古級の前方後円墳・箸墓古墳(桜井市、3世紀半ば)があるだけでなく、その前段階とされる纒向型前方後円墳も確認されている。今回の周溝墓は、さらに古く、前方後円墳の原型だった可能性がある。
陸橋を持つ弥生時代の大型円形周溝墓は四国や近畿に多いが、同県内では見つかっていなかった。奈文研は「纒向石塚古墳(3世紀初め)など『纒向型』と呼ばれる前方後円墳につながる形を持つ周溝墓だ。奈良県内で見つかったことには大きな意義がある」としている。石野博信・兵庫県立考古博物館名誉館長(考古学)は「前方後円墳の先がけのような姿。纒向遺跡に前方後円墳が誕生する直前の大和盆地の姿を解明する資料にもなる」とした。
升は海を渡り、後漢の安帝に謁見した
この屈辱的な史実を記紀は書けなかった
だから基点となる神武即位を太古の紀元前660年とした
その結果100歳を超える天皇が誕生した
そして実際には女王国であった時代も、
やたら猛々しい神武東征紀で男王国であるかの様に演出した
明治天皇が巷間伝えられる勇敢な青年天皇ではなかったのと同様、
神武天皇も元タイガース関本みたいな顔をしていたかもしれない
新井白石をはじめ、江戸時代の国学者たちによって、九州説なるものが意図的に創作された
「古代天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」(本居宣長)
彼らが九州説を創作し、支持者が増え、論争してくれているうちは、
古代天皇の朝貢という辛く重い荷物を着地させずに済む
その着地しない状況を永遠に創ろうとしたのである
独立国家としての起源は6世紀頃か
世界が報じた明治天皇崩御
■アブドゥラー・ジェヴデト(トルコ)
日本がもしイスラム国家となれば、明治天皇をカリフとするのが適当である。そうせればイスラム諸国の団結はますます強固になるであろう。
■ハブラル・マタン(ペルシャ)
日本先帝陛下はロシアを撃破した後、アジア全般に立憲思想を普及させた。日本の立憲政体に倣った最初の帝国はペルシャであり、それにトルコ、最後に清国がつづいた。そもそもこの三帝国は終始ロシアの圧迫、威嚇を受け、専制君主国であるロシアに配慮して立憲は不可能だった。それゆえに日本先帝陛下は全アジアに対する解放の神であり、アジアの真の仁恵者であると明言することができる。エジプトでは今でも、「独立に成功したのは明治天皇のおかげだ」と言われている。民族運動の指導者ムスタファー・カーミルは「日本人こそ、ヨーロッパに身のほどをわきまえさせてやった唯一の東洋人である」と言っていた。彼が日露戦争開戦直後に書いた「昇る太陽」は日本の近代的発展を賛美するとともに、日本のように民族主義を高揚させれば、エジプトもイギリスの支配から独立できると説いたものだ。また詩人ハーフィズ・イブラヒムは「銃を持って戦う能わずも、砲火飛び散る戦いに身を挺し、傷病兵に尽くすはわが務め」と、日本の従軍看護婦を称える「日本の乙女」という詩を作った。これは教科書にも掲載され、多くのエジプト人の心を打った。
■ホセイン・シーラーズイー(イラン)
東方からまた何という太陽が昇ってくるのだろう。眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。文明の夜明けが日本から拡がったとき、この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。無知の夜は我々から裾をからげて立ち去り、叡智の光によって新しき日は始まったのだ。日本が我らの先駆者となった以上、我らにも叡智と文化の恩恵がやってこよう。どんな事柄であれ我らが日本の足跡を辿るなら、この地上から悲しみの汚点を消し去ることができるだろう。
■ムスタファー・カミール(エジプト)
墓場から甦って大砲と爆弾の音を響かせ、陸に海に軍隊を動かし、政治上の要求を掲げ、自らも世界も不敗と信じていた国を打ち破り、人々の心を呆然自失させて、ほとんど信じ難いまでの勝利を収め、生きとしいけるものに衝撃を与えることとなったこの民族とは一体何者なのか。彼等はわずかの年月にこのような「高み」に達し、ある部分では西洋と方を並べ、ある部分では追い越すまでになったのか。また夜を徹してこの民族のために力を尽し、刻苦精励してその地位を高め、「わが国は、他国がいまだかつて獲得したことのないものを最も短期間に獲得せなばなせぬ」と言ってのけた、かの偉大な人物とは何者なのか。いかにして歳月は彼の呼び声に応え、時代は彼の意志に従い、世界はかくも高揚した力を、七つの海とあまたの国々とを震撼させずにはおかぬ一大勢力、全世界を照らし出す上る太陽を、目の当たりにすることになったのか。今やだれもが驚きと賛嘆の念をもって、この民族についての問いかけを口にしているのである。
■インド
天皇陛下の崩御は日本だけではなく、全アジアに対して大きな損失である。アジア民族を覚醒させた大君主の崩御に世界各国民が哀悼の情を表するのは当然だ。
■豪州
明治天皇は偉大な人格者であり、さらに偉大な政治家であり、また最も賢明な君主である。
■米国
明治天皇は1,000年以上かかる国の進展を僅か60年で成し遂げた。
最古の姿 横須賀での宮廷装束
縦15センチ、横20センチほどの古写真が英国の美術品オークションに登場したのは2000年だった。「日本の天皇陛下とご一行」と台紙には英語で記されていた。写っている人物の説明もあり、ひな飾りから抜けだしたような姿の中央の男性は「天皇陛下」、もう一人の和装の人物は「三条大臣」、右から5人目の立っている人物は「M・ヴェルニー」と記されていた。明治天皇の公式の記録である「明治天皇紀」は、1872(明治5)年元日に明治天皇が横須賀造船所の開所式に行幸したと伝え、その際に「諸臣等と記念の撮影を為(な)し」たが、それは「蓋(けだ)し聖体を撮影せしめたまへる始なるべし」と記している。史上初めて天皇が撮影されたとの記録だが、その写真が一般の目に触れたことはなかった。天皇は「小直衣(このうし)、切袴(きりばかま)を著し、金巾子(きんこじ)を冠し、扇子(せんす)を把(と)りて椅子(いす)に凭(よ)りたまへり」という宮廷装束だったと「明治天皇紀」は伝え、写真と一致する。太政大臣三条実美やフランス人技師ヴェルニーが随行していたことも記録されていた。〈幻の写真〉の出現であることは明らかだった。どのように撮影されたかに関心は向かったが、横浜で写真館を営むオーストリア人のライムント・フォン・スティルフリートが、造船ドックの岸壁にいる天皇一行を、近くの船の帆に隠れ撮影したものだった。そうした経緯が分かるのは、外交問題に発展し、横浜で発行された英字新聞などが報じていたからだ。スティルフリートは売り出すとして新聞に広告も載せていた。日本側は驚いたが、治外法権のため直接、手は出せなかった。最終的にはオーストリア側がネガとプリントを没収。一般に流通することはなかった。
側室のひとり、柳原愛子(なるこ・大正天皇の生母)は証言する。天皇は夏でも冬でも、政務では冬用の服を着用していた。したがって炎暑の日には汗がものすごいことになった。もっと涼しい服を着ればいいものを、天皇はこういって改めようとしなかった。
何を着て居ても暑い時は暑いのや。これでえゝ。
「御真影」の厳しいイメージには似つかわしくないが、現実にはこんな柔らかい言葉も話していたのだ。天皇はまた能が好きだった。英照皇太后(天皇の嫡母)のため青山御所に能舞台を建て、自身もしばしばおもむいて観劇した。しかるに、皇太后が亡くなるとまったく接点がなくなった。側近の岩倉具定が「御好き様なものなら、時々御催し遊ばしては如何でございます」と提案したものの、天皇はこれまた京都弁で、
一ぺん見ると、又あとが見たうなつていかん。
と退け、ついに能を楽しまなかった。長らく侍従として仕えた日野西資博もまた、天皇の京都弁を伝えている。天皇は、臣下のごまかしや噓を非常に嫌がった。ものを壊したりしてもすぐに申告すれば、
是(これ)から気を付けや。
くらいで済んだが、ごまかしたり、あとで発覚したりすると、
お前、何を言つて居るのや。
などと雷が落ちた。もっともな怒りではあるものの、関西風の言い回しだと凄みも増して感じられる(以上、『「明治天皇紀」談話記録集成』)。食べ物でも京都方面から取り寄せたものを好み、魚では、若狭湾で取れた小鯛や鰈(かれい)、野菜では、嫁菜、蒲公英(たんぽぽ)、独活(うど)などをよく食べた。1877年2月、24歳の天皇は、ひさしぶりに京都におもむいたおり、このように詠って喜びをあらわした。
住みなれし 花のみやこの 初雪を ことしは見むと 思ふたのしさ