平和の祈りの集い
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·最澄は、渡来人が多くて外来文化の色彩が濃い、いうなればハイカラな地域の、比較的裕福な役人の一族のもとに生を承けたといえるでしょう。
https://note.com/honno_hitotoki/n/n19ae74637ac7?fbclid=IwAR22LetndevVhc-XCn7MM5MaTHixX9bCot2-IjSEP7mny6BfJ59adg6JvII 【比叡山の麓で生まれ育った最澄|大遠忌1200年で迫る伝教大師の実像(1)】より
今年は最澄が世を去ってから1200年という節目の年にあたります。最澄と言えば、804年に中国(唐)に渡り、天台教義を学んだことで知られ、帰国後は、日本の天台宗を開くとともに、比叡山に延暦寺をつくり弟子の育成にあたりました。
大遠忌を迎えることから、今年から来年にかけて、東京国立博物館を皮切りに、九州国立博物館、京都国立博物館で特別展「最澄と天台宗のすべて」が開催され、最澄への注目が集まっています。
この連載では、宗教研究者の山折哲雄氏が監修を務める書籍『最澄の足跡に秘められた古寺の謎』から、内容を抜粋・再編集するかたちで最澄の実像に迫ります。
最澄の生年は766年か、767年か?
日本天台宗てんだいしゅうの開祖である伝教大師でんぎょうだいし最澄さいちょうは近江おうみ国(滋賀県)の出身で、奈良時代の生まれですが、誕生年については2つの説があって、かねて論争の的となってきました。
1つは神護景雲じんごけいうん元年(767)とする説です。最澄に関する最も基本的な伝記『叡山大師伝《えいざんだいしでん》』は最澄入寂の翌年にあたる弘仁こうにん14年(823)または天長てんちょう2年(825)の成立とされます。ただし同書は生誕年を明記しているわけではなく、弘仁13年(822)に寂した最澄の享年を「五十六」(数え年)と記しているので、そこから逆算して767年という生年が導かれるということです。
もう1つの説は天平神護てんぴょうじんご2年(766)で、こちらは当時の公文書にもとづくものです。たとえば、宝亀ほうき11年(780)に近江国府こくふによって発給された、最澄を得度とくどさせることを認める「近江国府牒ちょう」は、当時の最澄の年齢を「十五」と記しており、そこから逆算すると、生年は766年となります。なお、最澄の生年を766年とする公文書はこの他に2つあります(「度縁どえん」「僧綱牒そうごうちょう」。ただし、現存する「近江国府牒」と「度縁」は正文ではなく案文)。
近年では後者の説が尊重されるケースが多いようなので、この連載でも後者の説、つまり最澄の生年を天平神護2年(766)とする説に立って書き進めます。
①比叡山からを拡大表示
比叡山からの眺め。最澄はのちに天台宗を開くことになる(滋賀県)
近江の渡来系の名家に生まれる
最澄の出身地(本貫ほんがん)は、前掲の「国府牒」などによれば、近江国滋賀郡古市しがふるち郷になります。滋賀郡の南端を占める郷で、現在の地名でいうと、滋賀県大津市南部の瀬田せた川西岸一帯にあたります。粟津市あわづのいちという市が置かれ、北側に琵琶湖を臨み、交通や通商の要衝として古くから栄えた土地で、瀬田川を渡った対岸の栗太くりもと郡には近江国府がありました。
最澄の出生地については、比叡山東麓の大津市坂本にある生源寺しょうげんじのある場所がそれだとする伝承があります。最澄の俗姓は三津首みつのおびと、俗名は広野ひろのといい、父親の名前は百枝ももえであったと伝えられています。母親については、後世の伝説では、名を藤子といい、のちに妙徳夫人と改めたとされます。
②生源寺を拡大表示
生源寺。創建は延暦年間(782~806)。最澄生誕の地とされる(滋賀県)
三津首氏(正確には、「三津」が氏うじで「首」は姓かばね)は、『叡山大師伝』によれば、中国・後漢の孝献《こうけん》帝(在位189~220年)の末裔で、孝献帝の子孫登万貴王とまきおうが応神おうじん天皇の時代(4~5世紀)に来日し、近江国滋賀郡に居地を賜り、また三津首の氏姓を賜ったといいます。
後漢の皇帝の子孫であるとか、応神朝に渡来したといった話は伝説の域を出ませんが、三津首氏が大陸もしくは朝鮮半島から海を渡ってやって来た、いわゆる渡来人の系統であったことは間違いないでしょう。近江の琵琶湖岸には三津首氏のほかにも孝献帝の子孫と称する渡来系氏族が多く住み着いていたとされます。
前掲の「近江国府牒」には、三津首氏の当時(780年)の戸主が「正八位下しょうはちいげ」の「三津首浄足きよたり」であると明記されています。浄足を最澄の父百枝の別名と解する説もありますが、最澄の祖父か伯父の名とみる説もあります。「正八位下」は位階で、地方官人としては上位にあたります。
ところで、漢字をはじめとする海外の先進的な文化や学問は渡来人によって日本にもたらされて広まった面が大きく、彼らは伝統的に文筆の技に優れていました。日本に仏教が広まったのも、渡来人の影響がきわめて大きいといえます。
最澄は、渡来人が多くて外来文化の色彩が濃い、いうなればハイカラな地域の、比較的裕福な役人の一族のもとに生を承けたといえるでしょう。
――大遠忌1200年で注目集まる最澄については、『最澄の足跡に秘められた古寺の謎』(山折哲雄監修、ウェッジ)の中で、写真や地図を交えながらわかりやすく解説しています。
https://www.tendai.or.jp/daihoue/saicyo/dengyo_02.html 【伝教大師 最澄】より
菩薩を育てる
伝教大師のめざした仏教とは、どのようなものだったのでしょうか。
『山家学生式(さんげがくしょうしき)』を読むと、伝教大師が“菩薩(ぼさつ)”たる人材を育てることを第一と考えていることがわかります。大師は、菩薩について「いやなことは自分で引き受け、よいことは他人に与え、自分自身のことは忘れて他の人を利益すること、それが究極(きゅうきょく)の慈悲(じひ)である」と述べています。慈悲の心のある菩薩の存在があってはじめて、世の中の人びとが平穏(へいおん)に生きられるのだと大師は考えていたのでしょう。
仏教の歴史はインドの釈尊(しゃくそん)より始まりますが、釈尊が亡くなって数百年がたった頃、インドでは大乗という新しい仏教が起こりました。大乗の教えはその後、中国、日本へと伝えられています。大乗仏教では、釈尊を理想的な人格者(じんかくしゃ)ととらえ、菩薩としての生き方が深く求められました。仏の教えをたよりに現実社会の中で実践につとめる人びとも「菩薩」と呼びます。伝教大師が菩薩となり得る人を育てたいと考えたことは、大師のめざした仏教が大乗にあったことを意味しています。伝教大師は日本を真の大乗仏教の国にしようという意志をもっていたのではないでしょうか。
法華一乗(ほっけいちじょう)の教え
得度授戒会得度授戒会
大乗仏教にもさまざまな教えがあります。そのなかで伝教大師がよりどころとしたのは『法華経(ほけきょう)』の教えでした。
『法華経』は、数ある経典の中でも特に多くの信仰を集めたことで知られています。『法華経』は古くから中国や日本にも伝来し、東アジアに住む人びとを魅了(みりょう)してきました。この経典の魅力(みりょく)は宗教性や文学性に富(と)んでいるところにあるといえるでしょう。親しみやすい譬喩(ひゆ)表現、ドラマチックな叙述(じょじゅつ)など『法華経』を読んでいると、いつのまにか経典の世界に引き込まれていくような感があります。
『法華経』は、誰もがみな菩薩であり、将来、仏となることができる、と説くことにその特徴があります。つまり、どのような人であっても釈尊のような生き方をすることが可能であると説いているのです。この教えを『法華経』では“一乗”といいます。
伝教大師は青年時代に師僧の行表さまから「心を一乗に帰すべし」という教えを伝えられていました。また大師のご遺言には「私はいくたびもこの国に生まれ変わって、仏教を学び、一乗の教えを弘めようと思う」ということばもあります。つまり、『法華経』に説く一乗の教えを実現することが大師にとって一生涯をかけたテーマだったのです。
天台仏教との出会い
天台山図(延暦寺蔵)天台山図(延暦寺蔵)
伝教大師が学問と修行に励んでいた若い頃、大師は『法華経』を中心とする中国天台宗の教えに出会いました。伝教大師より二百年以上前に中国では天台大師が登場し、以来、天台宗の教えが受け継がれていました。天台大師は『法華経』をよりどころに釈尊以来の教えをまとめあげた人物でありました。仏教にはあまたの教えがありますが、それぞれに価値があることを天台大師は主張しました。これも『法華経』に説く一乗というスケールの大きな教えにもとづいているのです。
伝教大師の入唐の目的は、中国の天台宗の教えを日本に伝えることでありました。異国で学んだ大師は、そこで吸収した教えの数々をひとそろえに日本に伝え、比叡山の地に『法華経』を中心とする日本天台仏教のいしずえをつくりあげたのです。
天台大師の教えに象徴されるように、天台宗は種々の教えを含むことに宗派としての特色があります。まるで色とりどりの花が咲くかのように、伝教大師以降の比叡山には『法華経』の教え、「南無阿弥陀仏」の念仏、護摩などの密教修法、坐禅をはじめとする修行など、あらゆる仏教が花開きました。比叡山を「日本仏教の母山」といい、各宗派の祖師たちがその比叡山で学んでいたことはけっして偶然ではないのです。
仏と“私”との因縁(いんねん)
ところで、『法華経』は何を根拠(こんきょ)に、誰もがみな仏となることができると説いたのでしょうか。
『法華経』には、「仏たちは“一大事因縁(いちだいじいんねん)”のためにこの世に出現した。一大事因縁とは、すべての人びとを仏の智慧(ちえ)に導くことである」と述べられています。つまり、一乗の根拠は、私たち誰もが仏と不可思議な因縁によって結ばれているということなのです。また『法華経』は、時間や空間をこえてつねに仏が私たちに教えを説き続けていると説きます。いつでも、どこにあっても“私”は仏との因縁をもち続けていることになります。
比叡山宗教サミット30周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」比叡山宗教サミット30周年記念
「世界宗教者平和の祈りの集い」
私たちは実にありがたいことに人という尊い存在として生まれてきました。そのような因縁なくして私たちが仏の教えを聞くことはありえません。いかにして私たちは人間としての一生を全(まっと)うすればよいのか、それが釈尊以来の仏教においていちばん大切なテーマです。『法華経』はそのことを仏と“私”との因縁という形で説きました。
現代に生きる私たちにとってみれば、釈尊も伝教大師も過去に生きた人に映り見えるかもしれません。しかし、その私たちも実は仏との因縁を結びながら生きています。けっして無関係ではないのです。仏教の教え、そして伝教大師の教えは、はてしない時空(じくう)を超(こ)えて“私”のこころにその生き方を問いかけているのではないでしょうか。